「え…？　締め切りが７日？」
　幸鷹は思わず聞き返してしまう。
　電話越しに恩師が自分の確認ミスを謝っているが、幸鷹は今の状況を考えこれからの予定変更に頭をフル回転させていた。
　本当の締め切りは１５日と聞いていたのだが、どうも早まったらしい。
　電話相手は幸鷹の大学の教授で、今回の論文を依頼してきた人物だ。本当は教授が依頼されていたものをさらに幸鷹に回した事になる。
　１５日の予定で組んでいて、それでもギリギリだったところを１週間以上も早められては今のままでは終わる見込みは薄い。
「……わかりました。なんとか頑張ります。はい、では｣
　ピッ。
　コードレス電話の外線ボタンを押して電話を切ると、幸鷹は大きくため息をついた。


　『京』から帰ってきて２年。
　向こうで神子とともに京を救い、生まれた世界に帰ってきた。
　育ての母、京で自分の面倒を見てくれた母に「帰りなさい」と言われたから。
　右大臣であった夫が死んで、北の方であった母は出家。新たな右大臣は亡き父の実の息子である兄が継いだ。
　その兄は北の方の息子ではなかったため、北の方の息子とされている幸鷹が疎ましかったのだろう。本来であれば生まれた順序に関係なく、正妻の息子が家を継ぐものなのだ。
　自然、幸鷹は屋敷に居づらくなっていた。兄は幸鷹に右大臣の座を奪われてなるものかと疑心暗鬼にかかり何かと文句をつけていたし、屋敷の者も家長である兄の命令には絶対服従。しかたなく自分で屋敷を持とうかと考えていたところに、母からの文。

　自分は幸鷹がいてくれて十分幸せだったと。
　元の世界に帰れるのであれば、帰って自分の大切な人と幸せになりなさい、と。

　そう書かれていた。
　だから幸鷹はここにいる。
　残念ながら、実の両親とは疎遠になってしまった。
　８年の歳月の溝は思ったより深かった。両親は幸鷹のことをどう扱っていいのかわからないでいたし、幸鷹もいまさら両親に甘えることなどできない。
　そんな時、かつての大学の恩師に連絡をとると「自分の研究を手伝ってくれ」と言われ、手を焼いていた両親もほっとした面持ちで賛同してくれて幸鷹はアメリカに渡った。


「やぁ。相変わらず疲れた顔だね、幸鷹」
　リビングの部屋のドアが開くと同時に、軽やかな口調で話しかけてきたのは長身の日本人男性。腰までもある艶やかな長い黒髪をゆったりと背中で編んでいる。顔は日本人にしては彫りの深い顔である。しかし顔つきといい、雰囲気といい人の目を引くある意味目立った青年。
　それは幸鷹の京にいたころからの腐れ縁とも言うべき人物であった。
「今回はどこへ行っていたのですか？　そんな服装で」
　あきれたように幸鷹は問う。なぜなら青年の服装はどう見ても普段着ではない。
　まさか、黒のタキシードで散歩などするはずもなかろう。
「ある人に呼ばれてパーティにね。だが行くんじゃなかったよ、偉い人ばかりで肩が凝った」
　そう言う青年の口調はいつもと変わらぬ明るいもので、とても疲れているようには見えない。タキシードを脱ぐとソファーに投げ、タイとシャツのボタンを緩め、リビングとつながるキッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気にあおる。
「……貴方はすっかりこちらの世界に順応しているようですね、翡翠殿」
　幸鷹はソファーでくつろぐ青年に半分嫌味をこめて、敬称をつけて名を呼ぶ。
　それに翡翠は片方の眉を上げて幸鷹に笑む。
「おやおや、八つ当たりとはらしくないよ、別当殿」
｢………」
　図星を突かれて憮然とした顔で黙り込んでしまった幸鷹に、翡翠は微笑んだ。


「楽しそうだから私も行こう｣
　それだけを言って幸鷹と神子、それに神子とともに現代で生きることを選んだ勝真について、翡翠も現代へと来た。
　さすがに神子の世話には部外者である翡翠はなれないので、自然と幸鷹が面倒を見ることになった。京では天敵であったが、こちらの世界では翡翠は犯罪者ではない。
　それに見知らぬ世界で戸惑っている者を見捨てるほど幸鷹は薄情ではなかったし、自分も戻ってきたばかりで誰かにそばにいて欲しかった。それでパスポートをとあるところから融通してもらいアメリカにマンションを借りて住んでいる。
　始めのうちは見慣れぬ街に、知らぬ言葉で翡翠は家で現代日本語から学んでいたのだが、言語の壁などいともたやすく越えるかのように英語も覚えた。どうやら仲間もでき始めたらしく、自然とマンションにはあまりいないようになった。
　一体何をしているのだか、と幸鷹は思うが翡翠のことだ、さらりとかわして答えないだろう。とりあえず犯罪にだけは手を出さないように言ってあるので、あとは信じるしかない。
　それにちゃんと一週間のうち半分以上はここへ戻ってくるのだ。顔を見せるだけのときもあるが、基本的には帰ってきている。


「大方、論文のほうに手こずってでもいるのだろう？」
「……貴方のように遊んでばかりはいられない身ですので。失礼します｣
　からかうような翡翠の言葉に幸鷹は挑発されてしまう。それでもこれ以上不快にならないうちに、と自室に引き上げようとするが、翡翠が呼び止めてきた。
「幸鷹」
「なんですか？」
「締め切りはいつなんだい？｣
「７日です｣
「ふぅん……あと２週間か。で、終わるの？｣
「終わらせます｣
　珍しく翡翠が自分の仕事の予定を聞いている。自分のことを話さない代わりに、幸鷹のことも興味なさそうであったのに。
「手伝うよ。資料整理くらいしかできないだろうけどね｣

「え……？」
　幸鷹が眼鏡の奥の目を大きく見開く。
　今のは空耳であろうか。よりにもよって翡翠がそんなことを言うとは…。
「２週間とは言っても実際他人の手がいるのは最初のほうだけだろう？　手伝いが終わったら少しの間ここを空けるからね、今のうちに君の綺麗な顔でも見ておこう｣
「ここを空けるって、出て行かれるのですか？｣
「………ふふ、君は面白いね。私の言った言葉の中でそこだけ引っかかるとは｣
　目を細める翡翠に幸鷹は詰め寄る。
　まさか、やはり危惧していたとおりに犯罪に走ったというのか。
　それならば今のうちにいさめなくてはならない。論文の事など後回しだっていい、今は翡翠のことの方が重要だった。
　ソファーでくつろいでいる翡翠の前に幸鷹も腰をおろす。
「ちゃんと説明してください｣
「説明、ねぇ。あまり自分のことを話すのは好きじゃないのだが、まぁいいか。別に出て行くわけじゃないよ、２、３ヶ月留守にするだけさ。大事な取引があってね、どうしても私が行かなければならないんだ｣
　大事な取引？
　こ、これはやはり危惧していたとおりに……。
「駄目です！」
「何が？｣

「そんなことをするのなら、貴方とは絶交です！｣

　…………。
　沈黙。
「………ふ。あははは、ははははは！」
　突然吹き出した翡翠に、幸鷹は眉間にしわを寄せて起こった顔。テーブルに両手をついて身を乗り出して目の前で笑っている男に怒鳴る。
「何がおかしいのですか！　私は真剣に言っているのですよ！！｣
「ははは……だって、絶交って、子供じゃないのだから。くくく……」
「そんなことじゃなくて、犯罪だけは駄目だと始めに言ったでしょう！｣
「……誰が法を犯すといったのかな？｣
　え？
　翡翠はさも楽しげに幸鷹のほうを見たままである。
「まったく、信用がないのだな。まあ、元が海賊では信用しろと言うほうが無理か｣
「え？　違うのですか？｣
「この世界は知らないことだらけ、別に楽しいことならそのあたりに転がっているからね。無理して犯罪者になる必要もない。それに君に絶交されるのは嫌だしね｣
　きょとんとした顔のままテーブルから身を乗り出している幸鷹の顔を翡翠は両手で包み込むと額に唇を落とす。
　大きな黒目がちの瞳を真ん丸にした幸鷹は、わけがわからず凍りついたままだ。
　そんな幸鷹の額に触れた唇を今度は頬に。
「…………な、何をするのですか！！｣
　ようやく我に返った幸鷹は慌てて身を引く。額を右手で、左頬を左手で押さえながら。
　顔はこの上なく真っ赤になっている。
　怒りで紅潮しているのか、羞恥で紅潮しているのかはわからなかったが、とにかくすごく動揺しているのは事実だ。
「いや、ついね」
「つい、じゃありません！　からかうのも大概にしてください。犯罪でないのならいいです！｣
　怒りに身を任せたまま、幸鷹はソファから立ち上がって自室のドアを勢いよく開ける。

　バン！
　叩きつけるようにドアが閉められると、リビングに残された翡翠は上目で天井を見る。
「やれやれ、相変わらず怒りっぽいなぁ｣
　そして結構、幸鷹に怒られるのは気に入ってるのだから、自分も結構馬鹿だなと思う。
　こんなに人を飽きさせないものも珍しい。
　なんだかんだで海賊であることにも魅力を感じなくなっていた翡翠は、幸鷹がこちらの世界に行くと聞いて迷わず自分もついていこうと思った。
　神子から聞いていた世界を自分の目で見てみたかったし、幸鷹がいるのなら退屈はしないだろう。きっと彼は自分を見捨てたりしないだろうことはよくわかっていたし、事実そのとおりで実に献身的に自分の面倒を見てくれた。
　いや、そうやって気を紛らわせていたのだろう。
　隣にいたから、幸鷹と実の家族とのすれ違いも翡翠はその目で見てきた。
　アメリカに来て大学で研究するようになってからは忙しくてだいぶ元の調子に戻ってきたのだが、最初の頃は見ているのもつらいくらい幸鷹が落ち込んでいるのがわかった。
　これだけ元気ならば少しくらい離れていても大丈夫だろう、と翡翠は少しずつ幸鷹と距離を置くようにした。それでも自分が帰ってくるといつもほっとした顔で出迎えてくれるのが嬉しかったし、痛々しくもあった。
　つい怒らせてしまうのだが、怒ってまっすぐに自分をにらみつけてくる目がこの世界で一番幸鷹らしいと思う時で、さらに怒らせてしまうこともしばしばある。
　だが、一度くらい満面の笑顔も見てみたいものだ。
　たしかに京を救ったときには見たのだが、それは自分に向けられたものではない。
　一度でも自分に向けられる笑顔が見たくて、翡翠は今こうして動いている。
「……さて、と」
　自室に戻り、タキシードを脱いでシャツとスラックスに着替えると、幸鷹の部屋をノックする。
　中からは今だ不機嫌そうな幸鷹の声。
　それに苦笑をこぼして翡翠は幸鷹の部屋に入った。
　幸鷹は本に埋もれ、パソコンの乗った机に向かって座っている。キーボードの上を幸鷹の指がよどみなくすべる。
「何の用ですか？｣
「手伝うと言っただろう」
「………貴方に貸しを作るのは二度と御免です｣
　まだ伊予でのことを根に持っているのか。
「こちらの世界では私の方が君にいっぱい貸しを作ったからね」
　ようやく幸鷹は机の上のディスプレイから目を離して翡翠のほうを見る。
「……それでしたら、そこに積んである本のマークしてあるところを打ち込んでください」
「了解」