目が覚めたら、シャロンの姿はなかった。
　ベッド脇の時計を見ると10時を回っている。とするとゆうに半日以上寝ていたわけだ。
　久しぶりに深く眠っていたせいで、頭が重い。体も寝ることで体力を消耗している。
　だが、貧血による体のだるさは抜けて、気力も回復したようだ。彼女の指摘どおり、睡眠不足だったのだろう。
　今日は日曜日であるが、研究者にとっては休日は関係ない。必要があれば研究室に行くが、幸鷹は今日はのんびりと過ごそうと思った。
　天気もいいし、洗濯をして布団を干して……そうだ翡翠の布団も干さなければ。掃除機も掛けて窓を開けて風を通そう。
　眼鏡を掛けるとベッドから降りてシャツとジーンズに着替える。エプロンはキッチンにあるものを使おう、とドアを開けた。

「おはよう、幸鷹｣
　え……？
　キッチンに立っていたのは、まだ帰ってこないはずの同居人。
「ひ…すい……殿？」
「ちょうど起こしに行こうかと思っていたところだ。ほら、座りなさい｣
　ここからは手元は見えないが、キッチンの前のカウンターの椅子に座るように勧めた翡翠は火を止めて蓋をはずす。
　まだ信じられない思いで凝視したまま幸鷹が立ち尽くしていると、翡翠はキッチンから幸鷹のほうへ来て背中を押すようにして椅子に座らせた。
「顔色はだいぶいいようだね｣
「……シャロンから聞いたのですか？｣
「そう。携帯に電話がかかってきたと思ったら、いきなり怒鳴られるとは思わなかったけどね。はい、食べなさい｣
　幸鷹の前に湯気のたった粥が入った皿が置かれる。白いご飯の粥の真ん中には梅干までちゃんと乗せてあり、懐かしい代物だ。材料自体は和食が好きな幸鷹が日本の食材を取り扱っているスーパーで買ってきてあったものである。
「あ…りがとうございます」
　戸惑いながらもスプーンを手に取り、皿を見つめること数十秒。
「……………」
「私の作ったものは食べたくないのかな。それとも食欲がない？｣
　カウンターの幸鷹の隣の椅子に座った翡翠はエプロンをはずしながら言う。幸鷹は黙って頭を横に振るとスプーンで粥をすくい口へと運ぶ。
「！　……あつ…っ！！」
　ガタ！　椅子を蹴るようにして立ち上がると翡翠がすばやくコップに水を汲んで戻ってくる。それを受け取ると幸鷹は顔をしかめて水を口に含んだ。
　火傷をしたようで舌がひりひりする。その舌を少しでも冷やすように出して隣の翡翠を見ると、案の定翡翠は幸鷹を見て口元を抑え笑っていた。
「猫舌なら、そう言えば良かっただろうに｣
「あらはり笑われるほおもっはのれふ」
　あなたに笑われると思ったのです、と言いたかったのだが、舌をかばいながらではうまくしゃべれずさらに翡翠に笑われた。
「くく…、かなり熱かったようだね。ほら、涙が｣
　そう言うと翡翠は幸鷹の顔に手を伸ばし眼鏡をはずすと目尻に唇を落とす。

　…………！！！！！！！
「何をするんだ！｣
　我に返って慌てて翡翠の体を突き飛ばすと、幸鷹はその反動でバランスを崩して椅子後と後ろへひっくり返りそうになる。
　翡翠がぐいっと幸鷹の前に伸ばされた手をつかみ何とか体勢を立て直した。
「まったくもう！　そういうことをするから私まであなたの問題に巻き込まれるんだ！｣
　形の良い眉を吊り上げて翡翠の手を振り払うとカウンターの上の皿に向き直ってスプーンで粥をすくう。少しは冷めただろうし、本当に冷え切ってしまっては粥はおいしくないのだ。
　怒ってはいたが、食べ物は粗末にしてはいけない。それに翡翠の厚意を無にするわけにもいかないので、口に粥を運ぶ。さっきは熱くてわからなかったが、ほんのりと塩や出汁が入っていておいしかった。
「私の問題？　ああ、シャロンか。君に宣戦布告に来たのだろう？｣
　悪びれもなくそう言って食事を取る幸鷹に微笑みかける。
「……とんだ誤解をされたものだ。あのような素敵な女性にまさかあなたとの仲を疑われるとは思いませんでしたよ｣
　そう言うと、翡翠はおやと眉を上げる。
「別当殿はああいう女性が好みなのかな｣
「少なくともあなたのような男性は好みじゃないのは確かだ｣
「…………」
　黙りこんでしまった翡翠を無視して幸鷹は粥を食べ続けた。
　考えてみれば、仕事をこうして抜け出て戻ってきてくれて、滅多にしない料理まで作ってくれたのだから、その礼を言わなければなるまい。
　そうだ、仕事のことも訊かなくてはならないだろう。
「仕事を抜け出してよかったのですか？｣
「…………」　　
　翡翠は黙り込んだままだ。
　一体どうしたのかと幸鷹は空になった皿にスプーンを置くと、翡翠のほうへと顔を向けた。
　！
　ただ彼は自分のほうを見つめたまま固まったように動かなかった。
「翡翠殿…？」
　手に持ったままだった幸鷹の眼鏡をカウンターに置くことで、翡翠が放心していたわけじゃないことがわかった。ならば何故そのような目で自分を見ているのだろう。

「……試してみようか？｣
　え…？
　ようやく翡翠が声を発したと思ったら、背筋に悪寒が走るような物騒な笑みと低い声。
　本能的に幸鷹は警戒心を抱きながらも、翡翠に背を向けるわけにもいかない。
「試す、というのは？｣
「君が私をお気に召すか、召さないかだよ｣
「何を言って……！」
　幸鷹が言い終わるよりも早く、翡翠は自分の唇で幸鷹の言葉を封じてしまう。翡翠の体を何とか離そうともがく手はつかまれ動きを封じられ、顔を背けても翡翠は追うようにして幸鷹に唇を重ねる。
「…は…っ……ん……」
　力を込めようと口を開いた瞬間、翡翠の舌が唇を割って入ってきて幸鷹の舌にからむ。舌をなぶっているかと思えば歯列の裏をざらりと舐められ、体がぞくりと反応して身をすくめる。
「や……め……！」
　じょじょに幸鷹の体は力が入らなくなってきている。
　せつなげに眉を寄せる幸鷹を翡翠は攻め続ける。もうつかんだ手を放してもたいした抵抗はない。翡翠は左腕を幸鷹の腰に回して抱き寄せ、右手は頬から首筋に掛けて触れるか触れないかという微妙なタッチでたどっていく。
「……や……」
　どうしてこんなことになっているのか、幸鷹にはわからなくなっていた。
　翡翠は何故こんなことをするのだ。
　私でなくても相手などいくらでもいるくせに。
　またこうやって私をからかって遊んでいるのか。

「やめ……っ！　……やめて……」
　あらげた吐息とともにようやく掠れながらも制止の声を幸鷹は吐く。
　だが、そんな幸鷹のかたくなな様子にさらに翡翠は興味を覚える。
　まだ口付けだけなのにこれほど乱れているのなら、この先はどうなるのだろうか。
　普段は自分をきつくにらむ意志の強そうな大きな黒い瞳も、今は熱に浮かされたように涙目になっている。白い頬はキスによる酸欠と羞恥とあいまって桜色にほんのり染まっていた。
「やめたくないと言ったら？｣
「……え……？」
　翡翠は本心から言っていた。
　苦しげに見返す幸鷹の視線は翡翠の心を捉えてやまなかった。
　もっと見てみたかった。
　幸鷹の表情の一つ一つを。
　その体の乱れる様を見てみたい。
　最初はただからかうだけのつもりだったのだが、今の幸鷹を見てはとてもそれだけではおさまりそうにない。
　いつもの余裕の笑みを浮かべることも忘れ、翡翠は幸鷹を見つめ返す。
　幸鷹はただきょとんとして翡翠を見る。
　まるで翡翠の言っていることの意味がわかっていないのだろう。
　そんな幸鷹にはお構いなしに翡翠は唇を深く重ねていく。

「……ふ……っ!！」
　再び舌がからんだ瞬間、幸鷹はびくんと肩を揺らし翡翠の体を両手で思い切り突き飛ばす。油断していた翡翠は後ろに下がり、椅子を蹴飛ばしてしまった。
　ガタン！
　派手な音を立てて椅子がフローリングに倒れる。
「…………」
　口を右手で覆った幸鷹は頬を桃色から真っ赤にさせて、やや上方にある翡翠の顔をにらみつけた。
　そこで幸鷹がさっき粥で舌を火傷していたことを思い出す。どうやら、その傷に触れた痛みで正気に戻ってしまったらしい。

　パンッ！

　翡翠の頬が鳴った。
　よけることもできたがそうしなかった。
　これくらいのことは覚悟していたから。
「何のつもりだ！｣
「最初に言っただろう？　君が私をお気に召すか試したんだ｣
　そこでクスリと笑みをこぼしてにらみつけている幸鷹を挑発する。
｢冗談も大概にしろ!！｣
「……本気だと言ったら？｣
「え？」
　幸鷹が大きな目をさらに見開いて翡翠を凝視する。
「本気で君に口付けして、君と体を交わらせてみたいと言ったら？｣
　呆然と翡翠を見つめたまま、幸鷹は無意識のうちに後ずさりをする。
　顔は何を言っているのか理解不能といった様子で、翡翠は笑みを深くした。本当に彼はいつでも自分を飽きさせない。
「な…にを……」
「このままベッドへ連れ込んで思うままに君を抱きたいと言ったら？｣

　何を言っているのだ、目の前の男は。
　さっきから自分に何をして、何を言っているのか。
　その上さらに自分を抱きたいだと……？
「ふ…ふざけるな！！」
　幸鷹は顔を紅潮させうつむいて大きな声で怒鳴った。
　心臓の動悸は激しくなり、自分でも感情の抑制が効かない。
　翡翠の顔を真正面から見ることができずに、うつむいたまま両耳を塞ぐ。
　もう何も見たくない。
　もう何も聞きたくない。

「う………」
「幸鷹！｣
　くずれおちるように倒れる幸鷹の体を、翡翠の腕がしっかりと抱きとめた。
「幸鷹……ゆき…たか……」

　何も見えない。
　何も聞きたくない。
　もう…何もいらないから……。

　遠くで母上の声が聞こえた気がした。
　『大切な人と幸せになりなさい』

　大切な人？
　大切な人なんてここにはいなかった。
　血のつながった家族は自分を拒絶していた。
　表面では笑いながら、自分を他人だと思っている。
　だったらどうすればいいのですか？
　大切な人がいないのに、どうして生きなければならないのですか？
　……母上。
　どうして私は帰らねばならなかったのですか？
　私はやはりいらない子だったのですか？
　どうせ最後に捨てるくらいなら、最初から優しくしないで。
　そうしたら、こんな思いはせずにすんだのに。


　誰もそばにいてくれないのに……。