ふう、と幸鷹はグレーのソファに身を沈める。南向きの大きな窓からは陽の光が、優しく部屋を照らし、１２月なのに割合今日は暖かい。
　幸鷹はソファの前のテーブルの上にあるエアコンのリモコンを手に取ると設定温度を２度ほど下げる。
　部屋の掃除をして、体がやや温まったので少し暑く感じたのだ。エアコンの温度を上げようとする音が消え、幸鷹はリモコンを元あった場所へ戻す。

「私は……阿坂氏と一緒に暮らします｣
　その決別の言葉を吐いたのは、もう何ヶ月前になろうか。
　幸鷹は翡翠と暮らしていたマンションを出て、恭平のマンションに世話になることにした。
　その言葉を聞いても彼は眉一つ動かさなかった。ただ「分かった｣と一言だけ。
　引っ越してからというもの、大学とマンションを往復するくらいなので、翡翠との接点は一つもなくなってしまった。
　でも、これで良かったのだ。
　大きなソファに仰向けに横たわり、幸鷹は長い睫に縁取られた瞳を閉じる。
　日差しがまぶしくて、目を閉じていても明るい。
　これでいい。
　誰かに脅かされることもなく、静かに暮らすのだ。
　こうしてぬるま湯に浸かったかのような、暖かなときを過ごすのだ。


「ただいま、幸鷹」
「恭兄さん、早かったんですね」
　恭平は病院へ行く日の他、個人開業医として患者のところへ診察に行く日がある。そういう時は深夜、もしくは朝帰りも珍しくないので今日みたいに７時に帰ってくるというのは珍しい。
「いい物をもらったんだ。君と飲もうと思ってさ」
　そうして差し出されたのはやや大きめの細長い木箱。
「…日本酒ですか？」
「そう。今日行った患者が日本酒通らしくてね、１本いただいたんだ」
　恭平の患者は企業の重役やその家族であることが多く、時折こうして珍しいもらい物をしてくる。
　大吟醸……これだと結構値の張るものだろう。だが、幸鷹はビールやウイスキーは苦手で、日本酒が一番酒の中では好きだった。京にいた頃から飲み慣れているというのもあるのだろう。ただ、アメリカに住んでから輸入してまで飲みたいほど酒が好きというわけでもないので、もう２年も日本酒は飲んでいないことになる。
「ああ、外は寒かったから早く飲んであったまろうか」
「熱燗のほうがいいですか？」
「そのままでいいよ」
　恭平がそうしてコートを脱いで、スーツをクローゼットにかけている間に幸鷹は栓抜きとコップを二つ用意してソファの前のテーブルに並べる。
　皿にカシューナッツを盛り、ソファに座ると同時に恭平もネクタイを無造作にゆるめた格好でやってくる。
　ソファに並ぶようにして座り、恭平は箱から瓶を取り出すと蓋をはずし、栓抜きで栓を抜く。
　そうしてコップに注がれた液体はただ透明で澄んだ色をしていた。
「いただきます」
　久しぶりに飲んだ日本酒は、驚くほどにうまかった。
「どう？」
「おいしいです」
　一気に飲んだ幸鷹は満足そうに隣にいる恭平に笑む。その頬はすぐに酒気を帯び桜色にほんのりと染まった。
　それを見た恭平も嬉しそうに眼鏡の奥の切れ長の目を細めて、自分のコップの液体に口を付ける。
「ん、これはいいな」
「ええ」
　夕飯前だったので、空の胃にアルコールが入ったことで幸鷹は自分の体温が上がるのを感じた。そして気分が高揚していくのも。
「もっと飲むといい。これは君のためにもらってきたんだから」
「ありがとう。恭兄さん」
　そして恭平は幸鷹のコップになみなみと酒を注ぐのだった。

「……幸鷹、大丈夫？」
　恭平の声に、幸鷹はもたれかけた頭を少し起こすと重い瞼を持ち上げる。が、すぐにそれは閉じられて、すーすーと健やかな寝息を立てるのだった。
　そんな幸鷹を観てそっと嘆息すると恭平はその顔に苦笑を浮かべる。
　まさか、コップ３杯でつぶれるとは思わなかったな。
　もっと長期戦を覚悟していたのだが、思ったよりもあっけなかった。
　もちろん、そんな恭平の思惑に幸鷹は気づくはずもなく、恭平の肩に頭を預けて幸せそうな表情で眠っている。
　こんな風に無防備な姿をさらけ出すのは自分に対してだけだろう。
　その点で、恭平は幸鷹にとって誰よりも特別な者だ。
　幸鷹はそもそも誰に対しても距離を保っていて、平等な目で物を見ようとしている。そしてそのプライドゆえか、誰にも弱音を吐こうとはしないし、弱みを見せようとはしないだろう。
　ただ恭平は昔から幸鷹の相談相手としていろいろ知っているから、幸鷹もこうして警戒することもなく無防備な姿を見せるのだ。
　変わらない。
　見かけは大人びたようだが、根本は何も変わっていなかった。
　だから恭平は失望することもなく、こうして幸鷹の顔に手を伸ばす。
「……ふふ…」
　幸鷹の眼鏡をはずして、コップの並ぶテーブルに置く。そして自分の顔を幸鷹の顔に寄せ、その唇を自分のそれで塞いだ。
「…ん……」
　幸鷹がその感触に眉を寄せて薄く目を開く。
　だが、まだアルコールが抜けず、さらに眠気がすごいこの状態ではまともに相手のことなど判別できないだろう。
「……ひ…すい…？」
　！
　掠れるような声で幸鷹の放った名前に、恭平は切れ長の瞳を片方細めてゆがんだ笑みを浮かべる。
　よりにもよって翡翠と誤解されるとは。
　幸鷹は翡翠はただの友人だと言っていたが、この状況でその名を呼ぶことでただの友人でないことは確実である。
　やはり恋人だったのか。
　恭平は今までは疑いながらも、幸鷹の言葉を信じようとした。幸鷹が嘘を言っているようには見えなかったから。だが、今ので真実は明らかになったと恭平は確信した。
「ダメだよ……君は僕のものだ」

　そして再び恭平は幸鷹に顔を寄せる。
　幸鷹が行方不明になってからというもの、恭平は何人もの恋人を持ったが全然欲求は満たされなかった。体は満たされても、まだ心は欲しいと言う。
　この飢えはどこから来ているのか。
　その答えはすぐに見つかった。
　……自分が幸鷹を欲しがっていたということ。
　だが、その答えが見つかったからといって行方不明の幸鷹が帰ってくるわけでもない。だから少しでも飢えを満たそうと恭平は代わりを求めてきた。
　だから再開できたときは、驚きを隠せなかった。
　自分らしくもなく取り乱して、素直に喜んだ。
「………あ……」
　幸鷹の形のよい眉がせつなげに寄せられて、小さな口から声が漏れる。
　さらりと癖のない艶やかな髪が幸鷹の頬をすべった。
　どれくらい幸鷹が欲しかっただろう。
　すぐにでも抱いてしまいたかったが、それで幸鷹を壊すような真似はしたくなかった。
　この綺麗なものを壊すつもりはない。
　幸鷹ならずっと綺麗なままでいてくれるはずだ。
　数ヶ月我慢して、ようやく念願はかなう。
　そう、１０年も待ち望んでいたことなのだ。
「幸鷹……」


　痛い……
　体中が痛い……
　柔らかなベッドにその身を横たわらせているはずなのに、覚醒してみれば体が悲鳴を上げている。
「ん……」
　それでも幸鷹は起きなければと、比較的痛まない上半身だけをゆっくりと起こした。
　自分のベッドではなく、隣においてある恭平のベッドにいた。
「どうして……」
　今の状況を信じられずに幸鷹は大きな瞳をさらに見開く。
　恭平のベッドには幸鷹だけでなく恭平も隣で寝ていた。
　それだけではない。
　二人とも何も身につけていない。
「…………」
　それに体の鈍痛。
　事態は誰の目にも明らかだった。
「…く……っ」
　二日酔いもあるのだろうが、今のこの事態に激しい動揺を感じ幸鷹は頭を抑える。
　軽い眩暈と頭痛。
　どうして……
　どうして……
　この状況は……
「……幸鷹……？」
　隣で眠っていた男が目を薄く開いて、上半身を起こして呆然としている幸鷹を呼ぶ。だが、幸鷹の視線は恭平のほうへは向かず、ただ前方を凝視しているだけだった。
「幸鷹」
　今度は恭平も身を起こしはっきりと幸鷹の名前を呼んだ。
「……恭兄さん」
　無表情のまま、自分を呼んだ者の顔を見た。
　幸鷹はどうしていのかわからなかった。
　どうしてこんなことになったのかも、こんなことになってこれからどうすればいいのかも。
　昨日の夜のことすべて覚えていないわけではない。
　朦朧としながらも意識はあったのだ。なのに自分は拒まなかった。
　恭平のことは従兄弟として親愛の情を持っている。だがそれ以上でも以下でもない。
　だからこんな関係になってどうしたらいいのか分からなかった。
「私は…あなたの恋人にはなれません……」
「幸鷹」
「…私は……」
　そうして俯くことしかできない。
　せつなげに眉を寄せて長い睫を伏せる幸鷹に、恭平は大きな手で頭をぽんぽんと叩く。
「今の関係のままでいいよ。別に体をつないだからって恋人にならなければいけないわけじゃない。それでも僕にとっては幸鷹は特別だから」
　たしかに幸鷹にとっても恭平は特別だった。
　だからこんなふうに許されることが嬉しかった。
　このままの関係が許されることが嬉しかったのだ。
「無理して変える必要なんてないんだよ」
　そう、何も変わらない現実を望んでいる。
　このままふやけてしまいそうな暖かさ。
　このまま眠りについてしまいそうな温もり。
　何も変わらないこの穏やかな日々。
　……そして私は朽ちるのだ。


『ユキタカ？』
　受話器越しに聞こえてきた声は確かにシャロンの声だった。
　変わらぬ声に幸鷹は自然と笑みが浮かぶ。
「お久しぶりです。シャロン」
『キョーヘイとの暮らしはどう？』
「よくしていただいてますよ」
　何も変わらぬ関係の中で、あの日から変わったのはしばしば恭平とセックスをするようになったことくらいだ。
　ただ体をつなぐだけの行為。
　そこに恋心は欠片もない。
　体の欲求はそれで満たされる、事が終わった後に感じる空虚な感情だけが幸鷹の気がかりだった。
　これでいいはずなのに、これが自分の望んだことだというのに、何故か瞳は暗く翳る。
　そして次の瞬間には、曖昧なものが自分の中にまだあると知り、幸鷹は自分自身を殴りたい衝動に駆られるのだった。
　大丈夫……
　これでいいんだ……
『ユキタカ、イヴの日にクリスマスパーティをすることになったんだけど空いてるかしら？』
「ええ」
『キョーヘイにはもう伝えてあるの。一緒に来て頂戴ね』
「はい。楽しみにしています」
　そしてシャロンとの電話を切った後に、すぐにコール音がなって再び幸鷹は外線ボタンを押して受話器を耳に当てる。
『幸鷹、僕だ』
　その声はこの部屋の主の恭平の声だった。
「はい」
『シャロンからパーティの連絡がきただろう？　それで幸鷹はタキシード持っていなかったことを思い出してね。これから出てこれないか？』
　ということはシャロンの言うパーティは内輪だけのこじんまりとしたものではなく、結構な規模だということか。だとすれば普段着というわけにもいかない。
「そうですね…。そこだと２時くらいには着くと思います。はい。じゃあまた後で」
　再び電話を切る。
　少しだけパーティに出席すると言ったことを後悔しながら。
　シャロンに挨拶だけしてすぐに帰ってくればいいだろう。
　そう思うと少しだけ心が軽くなった気がして、幸鷹はコートを着こんで部屋の戸締りを確認して外へと出ることにした。


　そして２４日の夜、恭平に車で連れて行かれた先は立派な門構えの家、というよりはどう見ても邸だった。
　それに少しだけ気後れしながら、幸鷹は恭平の車の助手席で自分の格好の確認をする。
「ぷっ。そんなに緊張しなくても平気だよ」
「まさかこんなに立派なパーティだとは思わないじゃないですか」
　苦笑して恭平は眼鏡の奥の切れ長の瞳を細めて、幸鷹に微笑んでいる。
　恭平はこういう邸に住んでいる患者も多いから慣れているのだろうが、幸鷹は初めてだったので少しムキになって言い返す。
「どうぞ」
　門での招待状のチェックが終わり、そのまま車で敷地内に入っていく。
　そしてたどり着いた駐車場は高級車の見本市のようになっていた。中には運転手と思われる人間が乗っていることも珍しくない。
　…京では自分もこうして牛車を待たせていたなと、幸鷹は軽く苦笑する。
　名門右大臣家子息……そんな時もあった。
　今では色あせた思い出だ。
　らしくもなく感傷に浸っていると、恭平が自分を呼んでいることに気づき幸鷹はそちらに顔を向ける。
「幸鷹」
　ここが自分の居場所。
　……それでいいのだ。

「いらっしゃい、ユキタカ、キョーヘイ」
　幸鷹たちの招待主のシャロンは目にも鮮やかな深紅のイブニングドレスを着こなし、髪を結い上げている。その格好に押されることのないシャロン。
「お招きいただきましてありがとうございます」
「やだ。かしこまらなくてもいいのよ。まだ客がそろっていないの。何か飲み物でも飲んで待っててくれる？」
　そう魅力的に微笑むと、シャロンは次の客の挨拶へと向かってしまった。
　恭平はボーイからカクテルグラスを二つ受け取って、片方を幸鷹に渡す。
「これだけ客が多ければ、幸鷹なんて目立たないから大丈夫だよ」
「そうですね。ただの一般市民の私には縁の遠い世界ですから」
　そうしていると、恭平のもとにも挨拶に来た人物がいる。会話の内容を聞くとどうも恭平が顧問医をしている関係の人間らしい。
　身の置き場に困り、幸鷹はグラスを持ったままフロアの隅の壁にもたれかかってぼんやりとグラスを傾ける。
　場違いだな。
　いつになったら帰れるのだろうか。
　シャロンも恭平も人に囲まれている。だとすれば当分は動けないだろう。まさか一人でここから帰れるわけもない。

「気乗りしないかい？」
　ぽんと肩に置かれた手に幸鷹は驚いてグラスの中身の赤いカクテルを思い切りこぼしてしまった。
「あ……翡翠…殿……」
　いつの間にか目の前に立っていたのは、見間違うはずもない男。
　さらりとした長髪を今日は背中で一つに結わえて、タキシードを見事に着こなし、昔から変わらぬ笑みを口元に浮かべて幸鷹を見ていた。
　会いたくなかった。
　……会いたくなかった。
　なのに何故、こんなに目を奪われてしまうのだろう。
「驚かせてしまったようだ。……幸鷹？」
　胸ポケットからハンカチを取り出し、翡翠は幸鷹のタキシードにかかったカクテルをふき取る。
　それでも幸鷹は、翡翠の顔を凝視したまま動かなかった。
　長い睫に瞳を細めて薄く笑う男。
「私に見惚れているのかな、別当殿？」
　その小馬鹿にしたような口調に、幸鷹は我に返り眉を吊り上げる。
「ここにいるとは思わなかったので驚いたのです！」
　ふうん、と幸鷹の言葉を信じてもいない様子で、翡翠は微笑んでいる。それがいっそう幸鷹の頭に血を上らせる結果になるのだった。
　だが、自分でも真実味に欠けていると分かっているので、頬を染めながらも何も言えず、ただ目の前の男をにらみつけるしかなかった。
「来なさい。シャツも濡れているようだ化粧室を借りたほうがいい」
「……………」
　一人で行く、と言いたかったがこの広い邸ではどこに化粧室があるのかも分からなかった。ボーイに訊けば答えてくれるだろう、と思い立ったときにはすでに翡翠は歩いていたから大人しくその後をついていくことにする。
　公衆の面前で揉め事を起こすわけにもいかない。
　化粧室はフロアを出てほどなくした場所にあった。中もやはり豪奢で広い。大理石でできていると思われる洗面台で翡翠は先程のどハンカチを濡らし、それを幸鷹に差し出す。
「ありがとうございます」
「驚かせたのは私だからね」
　タキシードを脱ぐと翡翠が手を出したので彼に上着を預ける。
　洗面台の前の大きな鏡を見ると、たしかにカクテルがシャツの襟を赤く染めていた。蝶ネクタイは同じ赤だから目立たなかったが、これも少し汚れているようである。
　タイをはずしてシャツのボタンを二つほどはずし、幸鷹は翡翠のハンカチでシャツの染みをぬぐい始める。
「元気そうだね」
「……貴方こそ」
「今日はシャロンに呼ばれてここに？」
「ええ…。でも来るべきじゃなかった」
　自分ひとりが場違いであることも理由の一つ。
　だがそれよりもこの男に会いたくなかった。
「あの男と仲良くやっているようじゃないか」
　どういう意味だ？
　顔を上げて鏡に映る背後の翡翠のタキシードを持っていない方の手が、自分の首を指している。
　なんだ？
　そして鏡で自分の首を見ると、幸鷹は慌てて首を抑える。
「これは……」
　どう見たってキスマークだった。
　今更隠したところでどうにもならないのに反射的に隠してしまう。
「あなたには関係ないでしょう…」
「そうだね関係ない」
　その言葉に幸鷹は一瞬傷ついた表情になるが、すぐに下を向いてハンカチを洗い今度はタイの染みをぬぐい始める。
　自分から突き放しておいて、どうしてこんなに胸を痛めなければならないのだ。
　こんなに自分の感情を揺さぶるのは、いつもこの男なのだ。
　だから会いたくなかった。
　これ以上自分の心を見抜かれたくて、早くこの場から離れたいと思い幸鷹は染みをぬぐう手を早く動かす。
「あの男を愛しているんじゃないなら、離れたほうがいい」
「……どういう意味ですか？」
　翡翠のこの言葉はさすがに聞き捨てならず、幸鷹は振り返って翡翠の目を真っ直ぐに見つめる。
　冗談や、興味本位で人の関係に口を出すような男ではない。
　ならばそれだけの理由があるはずだ。
「私はあの人を愛しています」
　……それは家族の域を越えるものではなかったが。
　それでも彼はいいと言ってくれた。
　翡翠はそう言い放つ幸鷹の瞳を見つめる。
「………なら、いい。でも幸鷹、君はあの男のことを知らなさ過ぎる」
「私はお前よりも長くあの人と暮らしてきた」
　どうしてこんなにムキにならなければいけないのか、そう思いながらも幸鷹は口調が荒くなるのを抑え切れなかった。
　それでも、彼の言うことを認めるわけにはいかなかった。
　恭平のことを弁護しているのではない、ただ幸鷹は翡翠の言う事を聞きたくないだけだ。
　これ以上言っても無駄か、と翡翠は嘆息して幸鷹に上着を返す。
　そして、幸鷹の両手が上着とハンカチでふさがったのを見計らって、翡翠はすばやく顔を寄せて幸鷹に口付ける。

「！」
　ガチャ。
　同時にドアの開く音。
　驚きのあまり立ちすくむ幸鷹の目に、翡翠の端正な顔が映る。やがてそれが離れその向こう、ドアのところに立っていたのは……
「……恭…兄さん……」
「翡翠、どういうつもりだ」
「さぁね」
　恭平の切れ長の目は翡翠をにらみつけている。
　だが翡翠はいつものように婉然として立っていた。
　幸鷹は恭平の急な登場に驚きつつも、やはり気になるのは翡翠のほうであった。
　この男は一体どういうつもりであんなことをしたのか。
　ただ触れるだけのキス。それに合わせたかのような恭平の出現。
　この二つをあわせると翡翠の目的は明らかだった。
　恭平に見せるためにあんなことをしたのだ。
「……何のためにお前はこんなことを…」
「答えるつもりはないよ」
　この男がそう言うのならこれ以上の追求は無駄だ。
　笑みを浮かべたまま翡翠は幸鷹を見ている。
　どうしてこの男は私を乱すのだ。
　どうして私の心はこんなに揺れているのか。
　捨てたはずなのに……
　この男に脅かされないように、この男も、この心も捨てたはずなのに……
「おいで、幸鷹」
　もう迷いなどないはずなのに……
　幸鷹は差し伸べられた手と、翡翠とを見比べる。
　だか、翡翠の深い色合いの瞳には、何の答えも見出せない。
　引き止めるつもりもなく、ただ幸鷹を見つめているだけ。
　何を考えているのか……
「さあ、行こう」
　恭平に肩を抱かれるようにして幸鷹は化粧質を後にした。
　瞳を閉じると、浮かぶのは翡翠の顔。
　もう何の心配も要らないはずなのに、いつまでも翡翠の視線が忘れられない。

　手の中に残された濡れたハンカチ。
　……捨てたはずの心が、痛んだ。