「え？　従兄弟？」
　シャロンは大きな瞳をくりくりとさせて二人を見比べていた。
　翡翠、シャロンと向き合うようにソファに座っている幸鷹とその従兄弟を。
　兄弟ならともかく従兄弟ともなれば、まったく似たところもない。
「それにしても幸鷹、家に帰ったのならどうして連絡をくれなかったんだ｣
　軽く責めるように来訪者は言った。
　来訪者の名は、阿坂恭平。
　シャロンの友人のカウンセラーで、幸鷹の従兄弟。
　幸鷹は京に呼ばれる前はアメリカに留学していて、幸鷹の母の姉夫婦と恭平の家で世話になっていた。
　そして留学を終え、帰国とともに空港で失踪。
　それがこんな形で再開したとあっては、さっきの別人かと思うような喜びようもうなずけた。
「母から恭兄さんの家には連絡をしたはずなんですが｣
　幸鷹は軽く首を傾げて言うと、恭平は困ったように笑う。
「ああ…家は少し前に出たからね。連絡もほとんど取っていないし」
「それは……」
　何かあったのかと勘ぐる幸鷹の頭をぽんぽんと叩いて恭平は心配ないというようになだめる。
　隣の恭平の顔を幸鷹は上目でまだ名残惜しそうに見ていた。
「キョーヘイには無駄足になってしまったと思ったけど、結果ユキタカと再開できたんだもの。世界って案外狭いのね｣
「ああ、そうだ。僕のことはいい。幸鷹は８年も行方不明でどこにいたんだ？」
　恭平は思い出したように幸鷹に当然の質問をする。
　今度は幸鷹が困る番だった。
　まさか平安京に行ってましたとも言えない。
　相手は精神医学の知識豊富なカウンセラー。下手に記憶がないと言うわけにもいかない。
「ユキタカ、あなた行方不明だったの？｣
　シャロンも興味津々と言った様子である。
　翡翠はさすがに何も言えない。事実を知っているのはこの場には彼だけだが、下手に口出しをすることもできないだろう。してもらって墓穴が深くなってはさらに困る。
「それについては心配をかけましたが、話すことはできません｣
「幸鷹…」
「すみません」
「……いいさ。こうして無事に会えたんだから。幸鷹、今日は空いてるかな？｣
　ただ何も言うことができず謝る幸鷹に恭平は微笑みかけて、軽い口調でナンパでもするように今日の予定を訊く。
　だがシャロンが言うには恭平は今日病院へ行くはず。
「私は空いてますが、恭兄さんはお仕事でしょう？｣
「８年ぶりに君に会えたんだから、仕事どころじゃないよ」
「でも…」
「僕と今日一日過ごすのは嫌か？」
「そんなことは…」
　たしかに恭平に会えて幸鷹自身も嬉しかった。本当はこの世界に戻ってきたときに家族の次に連絡を取ろうとした相手だった。
　ただ、家族には腫れ物に触るように扱われ、幸鷹は怖くなったのだ。
　恭平も家族と同じで、自分のことをどうしていいかわからないのではないかと。
　そんな他人を見るような目で、家族に見られるのは苦痛でしかなかった。恭平にまでそんな目で見られるとしたら、と考えると幸鷹は連絡を取ることはできなかったのだ。
　だから再開して、自分が無事でいることをただ喜んでくれた恭平の存在は幸鷹にとってはこの世界に帰ってきてから一番嬉しかった。外見が成長して変わっても、ただ幸鷹を昔のまま従兄弟として見てくれるのがわかって、幸鷹は少し泣きそうになる。きっと翡翠もシャロンもいなくて、恭平と二人だったら泣いていただろう。それほどに嬉しかったのだ。
「じゃあ、決まりだ」
　恭平はそう言うとスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出して病院へと掛け始める。そんな恭平の様子を見て、シャロンはあきれたように天を仰ぐ。

「キョーヘイは本当に嬉しそうだわ。私たち邪魔みたいよ、ヒスイ｣
「そうだね。幸鷹も嬉しそうだし、邪魔者は退散するとしよう｣
　翡翠はそう言うと立ち上がって自室へ入りドアを閉める。
「あらあら。そうか、ヒスイは徹夜で仕事していたものね」
　その徹夜は幸鷹の看病をするためのものだったのだが、こうなっては意味がないと部屋へ戻ったことを幸鷹は知る余地もない。ただそれを知っているシャロンは、ちょっとだけ翡翠に同情した。
　用無しになったから部屋にこもっただけではない。
　きっとこれ以上幸鷹と恭平を見ていたくなかったのだろう。
　シャロンが見ても、幸鷹と恭平の間に入り込む余地はない。ただの従兄弟というより、仲の良い兄弟くらいに二人の仲は親密だ。
　しかし８年も幸鷹が行方不明で再開したとなると、お互いに変わったところも見えてくるだろう。
　そこまで考えてあることを思いつき、シャロンは少し心配になる。
　恭平の性癖を思い出したのだ。
　知り合って３年になるが、恭平の紹介する恋人はすべて男だった。
　そのせいで実家を追い出されたと聞いたが、さっきの幸鷹の様子では昔からゲイではなかったらしい。そして思い返してみれば、恭平の過去の華々しい交友関係にあった男はどことなく幸鷹に似た大きな瞳の気の強そうな少年、もしくは童顔の青年ではなかったか。
「ユキタカ……」
「はい？」
　眼鏡をかけていないと、さらに幼く見える幸鷹が大きな瞳で神妙な顔をしているシャロンを見る。
　声をかけたはいいが、何を言ったものかとシャロンは何も言えない。
　恭平が、ただ純粋に従兄弟として幸鷹を見ていることを祈るのみだった。
　本当はこれで恭平と幸鷹が恋人同士になれば、翡翠はフリーになるわけだから自分にもチャンスはあるのではないかということも考えはしたが、そんな消極的なのはシャロンの望むところではない。
　幸鷹はしっかりしていそうに見えて、どこか危ういのだ。
「シャロン？｣
「いえ。何でもないわ。私も会社に行くわね｣
「行ってらっしゃい｣
　シャロンがあれこれ考えてもどうなるものでもない。本人たちの問題なのだから。
　ただ、翡翠のことは気になるが。
　恭平と翡翠はどことなく似ているから相性が悪そうだ。
　呼んでおいてなんだが、恭平と幸鷹を再開させたのはある意味まずかったかもしれない。
　ふぅ、とため息をついて翡翠の部屋のドアをちらりと見ると、シャロンは玄関へ向かうことにした。



「幸鷹はいつからこっちに住んでるんだ？｣
　翡翠が部屋で休んでいることだし、場所を変えようと恭平の車に乗って移動をはじめた。前方から目をそらさずに恭平は助手席の幸鷹に気軽く話しかける。
　行方不明の間のことは話せないが、それくらいなら話しても支障はないだろう。
「そうですね、もう1年半くらいになります」
「翡翠と暮らしてるんだろう？｣
「はい」
　そう返事をした途端、恭平は黙り込んでしまった。どうしたのだろう、と幸鷹は運転席の恭平の顔を見るが無表情になって何か考え込んでいるようだった。
「……どうして翡翠と？｣
「どうして……って」
「友人に持つには学者の君とでは接点がなさすぎるだろう。それとも行方不明の間のことだから教えられないのかな｣
　たしかに知り合ったのはその間の出来事なのは事実だ。
　友人と呼ぶ関係ではない。
　この世界では右も左もわからない翡翠の世話役として一緒に暮らしていたのだ。だが、もうそれも必要ないだろう。彼も仕事をしているようだから経済面でも心配しなくてよさそうだし。
「…ちょっとした知り合いで、彼がアメリカに住むのは初めてだからと一緒に暮らしていたのです。でもそろそろ私もお役御免ですけど｣
「マンションを出るのか？｣
「そのつもりです」
　離れれば、もう彼の言葉に振り回されずにすむ。
　離れれば、もう彼に捨てられる心配もない。
　幸鷹は眼鏡をはずして窓から外の景色を眺める。恭平からは幸鷹の表情は見えないように。眼鏡をはずすのは癖で、少し視野がぼやけたほうが考え事をするのに適しているからだ。
　もう誰にも私の中に踏み入れさせない。
　そうすれば、もう何も起こらないのだ。

「幸鷹｣
　声をかけられて我に返る。
　車は市街地のマンションの地下駐車場ですでに動きを止めていた。
「はい？」
　恭平は切れ長の瞳を細めて笑顔を見せる。油断ならない印象を与える顔だが、そうやって笑うと妙に人好きして見え、幸鷹の知る8年前の恭平とあまり変わらなかった。
　大きな手で幸鷹の頭をくしゃりと撫で回す。
「大きくなったな｣
「成長期でしたからね。恭兄さんはあまり変わりませんけど｣
「僕は別れた時２３だぞ？　成長期はとうに終わっていたよ」
「ここはどこですか？」
　地下駐車場なだけあり、やや暗く、他の車はまばらに停められているだけだ。恭平に従って車を降りると、出口に向かって歩き出す。
「恭兄さんどこへ…」
　ポン。
　機械音がしてエレベーターのドアが開く。恭平はドアを手で押さえると、幸鷹に先に乗るように空いた手で示す。
「ここの上に僕の部屋があるんだ。そこなら誰にも邪魔されずに話ができるだろ？｣

　マンションの最上階に恭平の部屋はあった。ドアを開けると南向きの大きな窓のあるリビングが覗く。幸鷹と翡翠の部屋を全部足して、その3倍はありそうなリビングである。
　日も昇り窓からは暖かな光が入り込み、観葉植物が日光浴をしている。
「コーヒーでも淹れよう。ソファにでも座ってくれ｣
　ワンルームマンションであるが、この大きさなら狭く感じることはないだろう。白い壁に、恭平の趣味らしくグレー系のカーテンやソファが置かれている。それにところどころに鉢植えがあり、葉の緑色が彩る。
　ドアから真っ直ぐ南の窓へ向かうとソファが置かれていた。客を通す部屋ではないらしく、ただ向かいには大きな画面のテレビがあった。
「いい部屋ですね」
「ここのオーナーの主治医をしているコネで安く借りているんだ」
「今日は仕事のほうは良かったんですか？｣
　ソファからキッチンでやかんをコンロにおいて火をつけて、ソファのほうへ向かってくる恭平に話しかける。ソファは恭平がくつろぐだけなのだろうが、二人座っても十分なほどの幅があるので幸鷹の隣に恭平は腰を下ろす。
「病院には週に2回だけ面倒を見に行っているだけで、今は開業医をしてるんだ。とは言っても自分の病院があるわけでもないから、依頼があったときだけ患者のところに行くだけ。だから心配しなくてもいいんだよ｣
「そうですか」
「……」
　そうして屈託なく幸鷹が微笑むと、恭平はそのまま間近にある幸鷹の顔を胸に抱きしめる。
「恭兄さん……？」
「心配したんだ……」
　いつも明るい恭平らしくない悲痛な声に、幸鷹はどのくらい心配をかけたのかを思い知る。だから抱きしめられたまま抵抗もしないで身を任せた。
　京に呼ばれたのは幸鷹のせいではないのだが、こうなると申し訳ない気もする。
　京に行かなければこんなことにはならなかったのではないか。
　恭平に心配をかけることもなければ、家族ともあんなふうに摩擦は生じなかったはずだ。
「幸鷹……ここで暮らさないか？｣
「え……」
　幸鷹を包む力が弱まり、少し身を離して顔を上げると恭平の顔が幸鷹を見下ろしていた。
「ここなら幸鷹が住んでも十分な広さがあるし、今まで会えなかった分を取り戻すつもりでさ」

　今までの分を取り戻す……。
　その言葉が幸鷹の心を決めさせることになる。

　そうしたら、あの何も知らなかった日々に帰れるだろうか。
　自分を捨てていく誰かに怯えなくていいのだろうか。
　元通りに戻れるだろうか。

　時間は戻せない。
　そう頭でわかっていても、幸鷹は何かにすがりつきたかった。
　きっと、この時幸鷹は限界に近い状態だった。
　自分の存在が曖昧なまま京で暮らし、戻ってきても自分の存在を認めてくれる人はいなかった。
　そして傷口が開いたまま、ここまで歩いてきて……

「幸鷹……もういいんだよ」
　そうか。
　涙が冷たく頬を伝う。
　もういいのだ……。