そして彼は幸鷹の論文の手伝いが終わるとともに姿を消した。
　いなくなった時は締め切りに追われていて気がつかなかったのだが、今になると孤独に気づく。
　毎日ではないが、翡翠は帰ってくるたびに幸鷹に顔を見せていた。そのたびに幸鷹はちゃんと帰ってきたと安堵するのだが、それでもこうしていなくなるたびに不安になるのだ。

　いつか自分をおいて、どこかへ行ってしまうのではないか、と。
　彼は何かに縛られることを嫌っている。
　だから誰にも深入りはせず、飄々と人の間を吹きぬける風のように生きているのだ。
　たしかに在るのはわかっているのに、誰にもつかむことは出来ない存在。

　誰もいないマンションのドアの前で、幸鷹はカードキーを差し入れたままため息をこぼす。
　灯りのついてない部屋が中にあるのがわかっているだけに、開けるのが嫌で仕方なかった。
　京にいたときは邸に勤める女房などがいたし、こちらに来てからも翡翠がいたから一人になるのは久しぶりだ。
　自由、たしかにそうなのだろう。
　だが心の中の寂しさは消せるものではない。

　カチャリ。
　ここで立ち尽くしているわけにもいかず、幸鷹は部屋の中へとはいる。
　暗い部屋。
　ライトをつけるのともにリビングにおいてある大きなＴＶもつける。画面にはニュースキャスター。
　リモコンで音量を大きくする。安い賃貸マンションと違い、防音も整っているので苦情の心配は要らない。

　一人だと何をするにも面倒で仕方ない。
　食事も、掃除も、洗濯も。
　翡翠が出て行って１ヶ月。
　その間、掃除、洗濯は几帳面な幸鷹は怠らなかったが食事だけはあまりしていなかった。作るのも面倒であるが、何より食べる気がしなかった。
　嫌々食べても少し食べただけで残してしまう。大学へ行っている間は教授に誘われたり、同僚に誘われたりして昼食を採っていたが、それ以外はまったくと言っていいほど食べていなかった。
　上着を掛けると、幸鷹はＴＶの前のソファに座ってぼんやりとする。
　読みかけの本でも読めばいいのであろうが、それも読む気がしない。
　……どうだっていい。
　ただ耳をＴＶのニュースが通り抜けていく。

　ピンポーン。
　電話からインターフォンの音、フロントの呼び出し音である。
「…誰だ？」
　翡翠の顔が即座に浮かぶが、彼ならばカードキーを持っているはずだ。
　届け物ならフロントが預かっていてくれるはずだし、こんな夜に突然押しかけてくるほど親しい知人は幸鷹にはいない。
「もしもし？」
　電話をインターフォンにつなげて声を掛ける。聞いたことのあるフロントの声。
『ミスタ･フジワラ？　ミズ･シャロン･ウォーレンがいらしてますが』
　シャロン…ウォーレン……？
　名前を反芻してみるが、覚えのない名である。
『ヒスイに頼まれてきた、と言ってます』
　翡翠に？
「わかりました。通して下さい」
　一体何者だろうか？
　おそらく翡翠のこちらでの仲間であろうが、一体何の用だろう。
　しばらく経つと今度は部屋のインターフォンが鳴った。どうやらシャロンが部屋の前に着いたらしい。
　用心のためにチェーンをしたままドアを開ける。
「貴方がミスタ･フジワラ？」
　幸鷹はドアの前に立つ女性を見てやや目を開く。目線は幸鷹よりやや上にあった。ヒールを履いているためであるが、脱いでも幸鷹と同じくらいであろう。
　見事なまでの金色の髪はゆるくウェーブがかかっており、背中でなびいていた。
　顔はサングラスで目元が隠されているが、ほとんどメイクをしてないだろう白い肌に深紅のルージュが映えて美女だということがわかる。
　そもそもこの女性の存在感がすごかった。
　迫力があるともいえるだろうが、いるだけで人の目が吸い寄せられていくだろう。シックなグレーのスーツに身を包んでいるが、カクテルドレスでも着ていれば間違いなく女優かモデルに見えた。

「入れてもらえるかしら？｣
　それが当たり前のように言い放つ美女に幸鷹は圧倒されてチェーン錠をはずしてドアを開ける。美女は幸鷹を横目にずかずかと部屋の中へと入っていく。
　一体何なのだろうか。
「ミズ・ウォーレン、翡翠の用事で来たと言いましたが何の御用でしょうか？｣
　そのシャロンはというと、リビングのソファーに女王のごとく足を組んで堂々と腰を下ろしていた。
　こういう女性とは縁がないので、幸鷹はやや眩暈を覚える。
　それでも無視するわけにもいかず幸鷹は彼女の前のソファーに座った。
「…………」
　シャロンはサングラスをはずすと、その薄い青色の瞳で幸鷹の足元から頭を品定めでもするような目つきで見てくる。
　そして、顔だけはにっこりと男たちを惚れ惚れとさせるような笑顔。
　目が笑っていないだけに、幸鷹は何だか居心地が悪かった。
「自己紹介がまだだったわね。私はシャロン、あなたがユキタカね？」
「はい。はじめまして、ミズ･ウォーレン｣
「シャロンでいいわ、ユキタカ」
　それも命令のようだ。こういう女性には逆らわないほうがいいと、幸鷹は本能的に悟った。
「ではシャロン、私に何の御用でしょうか？｣
「敵情視察よ｣
　………敵情視察？
　幸鷹は一瞬聞き間違えたのかと思ったのだが、シャロンの挑戦的な笑みにどうやら言い間違えでも聞き間違えでもないことがわかった。
「敵？　貴方と私が？｣
「そうよ。ふぅん…たしかに綺麗な顔ね。私好みじゃないけど｣
　どう見たってシャロンのほうが綺麗な顔をしている上、そんなふうにまじまじと見られることに慣れてない幸鷹は逃げ腰になってしまう。
「どうして私と貴方が敵なのですか？　私には心当たりがないのですが…」
「…………」
　今度は幸鷹の心を探るようにシャロンが幸鷹の瞳を捕らえて覗き込む。
　しかし本当に覚えのないことなので幸鷹は突き刺さるような視線にも動じなかった。
「……貴方ヒスイの恋人なんでしょう？｣

　………。
　……………え？
「………はい？」
　取り繕うことも出来ぬまま、幸鷹はきょとんとした顔でシャロンに聞き返す。
「ヒスイと貴方恋人同士なんでしょう？｣
「…………！！　ち、違います！｣
　幸鷹らしくもなく、会ったばかりの他人に声を荒げてしまう。自分を作ることが出来ないほど動揺していたのだ。
　シャロンの発言は幸鷹にしてみれば青天の霹靂と言っていい。
　自分とヒスイは天敵だったことはあっても、恋人だったことは一度もない。間違ってもない。
　そもそもどうしてこんなことになったのか。
「あら、違うの？」
　意外だと言わんばかりのシャロンに、ようやく幸鷹も落ち着きを取り戻す。
「違います。　一体どうして貴方のような美女にそんなことを言われなければならないのでしょう」
「ありがとう。これが演技だったらオスカー賞ものだけど、あなたそんなに器用なタイプには見えないから私の早とちりだったみたいね｣
　さりげなく失礼なことを言われているのだが事実であるし、シャロンは嫌味を感じさせない口調ではっきりと本人に面と向かって言う潔さもあいまって不思議と気分を害さずにすんだ。
「どうしてそんな誤解をしたのですか？｣
「ヒスイがいくら誘っても乗ってこないから、恋人がいるかゲイかどちらかだと思ったのよ。それで周りにいろいろ話を聞いてみたら自宅には貴方がいるって言うし、これは両方ビンゴだと思ったの｣
　わからないでもないが、話が飛躍しすぎている気もする。
　見た感じも話し方もシャロンには深い知性を感じさせるものがある。おそらくは利発なほうであり、仕事も有能そうだ。それなのに恋に関してはその余裕のなさが幸鷹には好印象に映った。
「そういえば翡翠とはどこで知り合ったのですか？｣
「仕事でよ。あ、名刺渡してなかったわね、はい」
　受け取った小さな紙にはシャロンの名前の上に某有名ブランドの企画部長と銘打ってある。やはりかなり有能であるらしい。
「……どうしてその仕事で翡翠が？｣
「もしかして、あなた何も知らないの？｣
　今度はシャロンが青色の瞳を丸くして幸鷹を見る。
「お恥ずかしながら。彼は何も話しませんし、私も訊こうとはしませんでしたから｣
「本当に恋人同士じゃなかったのね。私ってば思ったら即行動が信条なものだからごめんなさい。彼のことについては彼が話してないのなら私の口からは言えないわ。おしゃべりな女だと思われたくないものね｣
　そう言っていたずらっぽく舌を出して笑うシャロンに幸鷹も相好を崩す。
　非常に快活で魅力的な女性である。
「貴方のような方でも翡翠はなびかないのですね。もったないないことを」
「まったくだわ！　貴方いい人ね、ユキタカ。友達になってくれる？｣
「喜んで｣
　どことなく底抜けに明るいところや暗いところのなさが昔京を救ってくれた女の子を思い出させた。幸鷹は彼女のことが好きだった、恋愛ではなかったが親愛の情を持っていた。

「ありがとう。急に押しかけてごめんなさい。私帰るわね｣
　そういってシャロンが立ち上がり、見送ろうとした幸鷹も立ち上がったそのときだ。
｢送ります……う…」
「え…？　ちょっと、ユキタカ！？」
　遠くでシャロンの声がしているが、よく聞き取れない。
　目の前は真っ暗で、体は言うことをきかない。
　なんだ、貧血か。
　冷静に考えている自分がいる。

「ユキタカ！」
　誰？　……母上？
　ゆっくりと指先から動くかどうかを確認して、幸鷹は意識を取り戻した。
「大丈夫？」
「シャロン……？　ああ…ただの貧血ですから」
　そう言ってソファに手をつき、ゆっくりと身を起こす。まだ頭がくらくらするがさっきよりは大分いい。
　心配そうに幸鷹の青白くなった顔を覗き込むシャロンに微笑んで見せる。
「ユキタカ、栄養不足の上に睡眠不足でしょう？｣
「……睡眠はとってますよ｣
　することもないし、最近は翡翠を待つこともなかったので早めにベッドに潜り込んでいた。
　栄養不足は認めざるを得ないが。
「いくら長く眠っていても眠ることに集中できてないのなら意味はないのよ。目の周りが少しくぼんでるのがいい証拠だわ。女性はこういうことには敏感なのよ｣
「自覚はありませんでしたが、貴方がそう言うのならそうなんでしょうね。気をつけます｣
　そう言って微笑んだ幸鷹をシャロンは黙って凝視する。
　何かもの言いたげな彼女に、幸鷹は軽く首をかしげた。
「…………」
「シャロン…？」
「………ユキタカ、見送りはいいからすぐに寝なさい。ベッドルームまでは歩けるでしょう？　ほら！」
　急にせかすように幸鷹の手を引くシャロン。強引な彼女に戸惑いながらも、幸鷹には逆らうことなど出来ない。シャロンはなんだか怒っているようなのだ。
　女性を怒らせて、それに逆らうのは無謀だし、ここは言うことを聞いておとなしくするに限るだろう。
　貧血のせいで、力が入らないせいもあってシャロンの手に引かれて幸鷹の部屋に強引に連れて行かれた。
「服は着替えたほうがいいわね。少し電話してくるからその間に着替えて横になるのよ｣
　有無を言わさぬ口調でそう言うと彼女はリビングのほうに戻っていった。残された幸鷹はしぶしぶと部屋着に着替える。

　一体何なのだろうか。
　ただの貧血で心配してもらうほどのことではない。少し休めばすぐに回復するだろう。
　まあ、誰かに心配されるのは久しぶりだな、と幸鷹は笑みをこぼす。
　彼女たちもこうやって幸鷹を無理矢理に寝かしつけたものだ。本当のことを言えば、幸鷹は倒れるまで無理をしてしまう方なので、見ている方が止めてやらないといけないだけなのだが。
　そうか…シャロンは神子に似ていると思っていたが、その神子はどことなく母上に似ているのか。育ての母は生みの母とも似ていて、幸鷹の周りにはこういう女性が集まるのだろうか。
　初対面なのに、シャロンに対して親しみを感じてしまうのも無理はない。
「ユキタカ、着替えは終わったの？｣
　ドアの向こうから電話を終えたシャロンが訊いてくる。
　あわててベッドに入りながら幸鷹は答えた。
「はい。大丈夫です｣
　ドアが開いて、シャロンが入ってくると幸鷹のベッドの横にひざをつく。やはり彼女の顔はやや険しくなっていた。
　何をそんなに怒っているのだろうかと幸鷹はややおびえながら、シャロンの綺麗な顔を見る。ふとい険しかった彼女の顔がふわりと柔らかくなった。
「ユキタカ寝なさい。私は眠るまでここにいるから｣　
「え…？」
「いいから！」
　無理矢理ベッドに寝かされて、ユキタカは横にあるシャロンの顔を見た。もう怒ってはいない。ただ優しい笑顔。
　まるで怖い夢を見て起きた子供をあやすような母親の顔で。
　仕方ないわね、と呆れながらも優しい微笑。
「……シャロン、すみません……」
「何を謝っているのかしら。私が好きでしていることなのだから、貴方が気にする必要ないわ。今は寝ることだけ考えなさい」
　どうしてだろう。疲れているはずでもないし、寝る時間には早いのに、意識が薄れてきた。
　隣にシャロンがまだいるのに、寝ている場合ではないのに、まぶたが重くなって。
　そう、隣に人がいるから…。
　何もかも許してくれた人がいるから……。
　安心しきった幸鷹の意識はそこで途絶えた。その無邪気な寝顔を眺めて、シャロンがため息をつく。

　まったく。
　初対面でもユキタカの無茶がわかるというのに、彼の周りの人間は一体何をしていたのだろうか。
　食欲不振と睡眠不足。
　どう考えても精神的に彼は不安定になっている。気がついてよく彼を観察するとまるで張りつめた糸でかろうじて精神を支えているような緊張感。
　ヒスイもヒスイだ。
　こうまで進行するのは一朝一夕のものではない。
　こんな人間を放って仕事をしている場合ではないだろう。たとえそれが今後彼の仕事に有利にならなくとも、ユキタカのそばにいるべきだ。
　一回壊れた人間は元には戻らない。
　今でさえ癒されることのない傷口が開いたまま歩いてきた彼を、ここまで追いつめて。
「……鈍感だわ、貴方もヒスイも……」
　自分の傷に気づかないユキタカも、その傷が見えないヒスイも。
　もっともヒスイに関しては見えていて気づかない振りをしているだけかもしれないが。
　……よくわからない男。
　きっとあんな男が彼氏だったら苦労するだろう。そう初めて会った時からわかっていたのに、シャロンは彼に惹かれてやまなかった。
　勘のいいシャロンだから、きっとヒスイは自分のものにはならないだろうことはわかっていた。だけどあきらめることも出来ずにもがいている。
　でも、何をしても振り向かない男だから惹かれているのかもしれない。
　そして、その男はきっと……。

「……やっぱり貴方と私はライバルよ｣
　幸鷹の寝顔を見てシャロンはクスリと静かに笑みをこぼすのであった。