「まったく、何をしてるのよ…」
　ため息とともに大げさに肩をすくめてみせるシャロンに、翡翠は苦笑するしかない。
　彼女は昨夜倒れた幸鷹のことが心配で、仕事を終えるとすぐにマンションへと来たのだが、出迎えたのは翡翠だけ。
　話を聞いてみれば幸鷹を怒らせて、また倒れたと言う。
　それで病人相手に何をしているのだか、と呆れているわけであった。
「ユキタカを見てどう思った？」
　シャロンは表情を消して、真正面から翡翠を見上げる。
「……どうだろうね。体調が良くないのは見たらすぐにわかるが」
「問題はその体調不良が、精神的なものからきていることよ。一度カウンセリングを受けたほうがいいかもしれないわ。ユキタカ本人は了承しないでしょうけど｣
　翡翠はまったく興味ないといった様子で顔にかかる髪をかき上げる。
　リビングには二人しかいない。テーブルを間に挟んでソファに座っているわけだが、翡翠の視線はシャロンを見ていなかった。
「そんなに心配することもないと思うけどね」
「だからここまで悪化したのよ！　家族は何をしているの？」
　その家族が原因の一端だろうと翡翠は考える。
　そもそもシャロンはかなり怒っているようだが、翡翠は幸鷹のことをほとんど心配はしていなかった。短いとは決していえない付き合いから幸鷹のことは大体見当がついている。
　今は体、精神すべての疲労が蓄積しただけで、それさえ過ぎれば彼は回復するだろう。
「家族に連絡はしていない。幸鷹もそれを医者以上に嫌がるだろう」
　人に心配をかけること自体が嫌いなのに、あの家族に連絡などしたらまた幸鷹がいらぬ気を遣う。
「……ワケありね。まぁ、それならそれでいいわ。とにかく私は知り合いのカウンセラーに話してみることにするから｣
　必要ないとは思っていたが、好きなようにすればいいというように翡翠は肩をすくめて軽く吐息する。
　そんな翡翠の態度を見て、シャロンが眉を寄せる。
「ユキタカのことが心配じゃないの？｣
「さぁね。シャロン、君は明日の朝までここにいられるのかい」
「かまわないけど、ヒスイはどこへ行くつもり？｣
「用事を片付けてくる。君から昨夜電話をもらって放り出してきてしまったからね。朝までには帰ってくるつもりだが、戻らなくても鍵はオートロックだから勝手に出て行ってかまわないよ｣
　立ち上がり自室のドアの前に向かいながら振り返ることもなく言う翡翠に、シャロンは何も言えずに見送る。部屋で上着を取って戻ってくると翡翠はすぐに玄関へと向かった。
「冷たい男ね」
　入り口のドアの前でジャケットを着る翡翠に、シャロンは見送るように付き添う。彼女の批判の言葉も翡翠はただいつものように魅惑的な笑みを返すだけ。
「冷たい男は嫌いかい？｣
　そしてシャロンの頬に、唇に軽くキスして翡翠は出て行く。

「……卑怯だわ｣
　少女のように頬を染めて、シャロンは閉まったドアを見つめていた。


　喉が渇いた。
　幸鷹はゆっくりと身を起こす。軽い眩暈に右手でこめかみを押さえると、すぐにおさまって幸鷹は部屋を見回す。自分の部屋のベッド上か。
　サイドボードの目覚まし時計は６時をさしている。まだ薄暗くて朝だか夕方なのかはっきりしない。
　記憶の糸を手繰り寄せると、昨日の朝起きてキッチンに翡翠がいたことを思い出す。それで彼の作った粥を食べて、……キスをされた。
「…………」
　こめかみを押さえていた手が自然と口を覆う。
　そうだ、それで彼と口論になったのだ。そのあとの記憶はないので、また倒れたのだろう。
　ここまで運んでくれたのは翡翠に違いない。彼が自分にしたことがどうあれ、このことに関しては礼を言わなくてはならないだろう。
　ただ、まだここにいればだが。
　もともと仕事で帰らないはずだったのを抜けてきたのだから、もう戻っているかもしれない。いなければいないでいい。昨日あれだけのことをしておきながら彼なら平然としているだろうし。
　それに比べて自分は何か動揺したままだ。
　たかがキスしただけで。
　挨拶のついばむようなキスとは違う、濃厚な口付け。
　彼はただ自分をからかいたかっただけだ。
　誤解してはいけない。

　いつか彼も私の前から姿を消すだろう。

「……」
　ゆっくりとベッドから降りてドアのほうへ向かう。ノブを握ったまま幸鷹は眉を寄せて瞳を閉じる。
　いないで欲しい。
　まだ彼の顔は見たくない。
　それでも、このドアの向こうにいてくれたらいいと思っている。
　すぐそばにいてくれたらいいと。
　矛盾している、と幸鷹はそっと自嘲する。

「……シャロン…？」
　意を決してドアを開けた幸鷹の瞳に飛び込んできたのはリビングのソファで毛布をかけて眠るシャロンの姿。
　翡翠がいない安心と落胆が同時にくる。そしてシャロンがどうしてここにいるのかという疑問。
　やはり、私のことを心配してきたのだろうか。
　だが訊こうにも彼女は良く眠っているので起こすのも忍びない。幸鷹は静かにキッチンまで行って冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、グラスに注ぐ。
　冷えた液体が喉を流すと、少し幸鷹は心を落ち着かせる。
　そしてシャロンを起こさないよう音をなるべく立てないようにして、幸鷹はパーカーを部屋から羽織ってマンションをあとにした。
　二度寝もできないから散歩でもしようと思ったのだ。

　もうすぐ東の空には太陽の姿が現れるだろう。真っ暗というほど暗くはなく、早朝特有の冷えた空気と静けさが辺りを包んでいて、妙に新鮮な気分になった。
　マンションから少し歩いた交差点で、タクシーから降りた男の姿を認めると幸鷹は足を止める。
　客を降ろしたタクシーが発車するのと同時に、男のほうも幸鷹を見た。
「………」
「……おはよう」
　しばし見つめあった後、口を開いたのはタクシーから降りた男、翡翠のほうが先立った。
「お…はようございます。昨日は迷惑をかけてすみませんでした」
「今日は昨日より顔色もよさそうだね｣
　マンションの方向に幸鷹がいるのだから仕方ないが、翡翠が近づいて幸鷹の顔色を覗く。だが、幸鷹は翡翠の視線から逃れるように思い切り目をそらしてしまう。
　沈黙という二人の間の空気に耐えられなくなって、幸鷹は翡翠の横を通り抜ける。
「……少し散歩をしてきます｣
「私から逃げるのかい？｣
　通り過ぎざまに挑戦的な翡翠の声がかかり、幸鷹は翡翠の顔を見上げた。
「何のことです？｣
　前に落ちてきた横の名が髪をかき上げるようにして翡翠は笑う。それが幸鷹を馬鹿にしているようでもあり気に障る。
　たしかに会いたくないとは思っていたが、逃げているわけではない。
　幸鷹は眉を寄せ、翡翠を軽くにらみつける。
「あまり怒ると昨日のように倒れてしまうよ。散歩もいいのだが、もう少し体調が整ってからにしなさい。途中で倒れられても困るしね｣
「あなたに命令される筋合いはない｣
「まだ昨日のことを怒っているのかな」
　翡翠が自分の顎に手を添え、人差し指で唇をなぞると、昨日のことを嫌でも思い出し幸鷹は顔を紅潮させて翡翠をさらににらみつけた。
「一方的にあんなことをされて怒らないはずがないだろう！」
「怒っているのではないな」
　え？
　たしかに顔は微笑んでいるのだが、翡翠の瞳は幸鷹を捕らえたまま凝視していた。
　何もかも見透かすような瞳。

「……君は一体何に怯えているんだい」

　！！
　幸鷹は翡翠の視線から逃れられないまま立ち尽くす。
　さっきまで赤かった頬は、また血の気を失いつつあった。
「怯えてなど……」
　違う…。
　違う……。
　力なく掠れたような声しか出ないのは、翡翠にすべて見抜かれていたから。
　否定したいのに、否定しきれない自分。
　こんなに不安定な自分、曖昧な自分……。
　こちらの世界の記憶を失っていたとき以来だろう。
　自分の存在自体が不安定に思えて、幸鷹は曖昧なものを嫌っていた。
　でも本当に嫌いなのは……そんな自分。

　やめて……
　もう自分の中に入り込まないで……
　もう自分を見ないで……
「幸鷹……大丈夫かい？｣
　顔色の悪い幸鷹がまた倒れるのではないかと、差し伸べられた翡翠の手を幸鷹は全身で拒絶した。触れる前に身をよじって翡翠から離れる。その視線から逃れるようにうつむくと幸鷹は手で顔を押さえ、眉をよせ前髪をくしゃりと握った。

　駄目だ……
　もうこの男のそばにはいられない。
　この見透かすような視線に耐えられない。
　
　そばにいることに耐えられない……。

　幸鷹はそこであることを思いついた。
　そうだ。彼が私を捨てる前に、私が捨ててやるのだ……。
　そうしたら、もう怯えなくてもいいのだ。

「……部屋へ戻ります｣
「…………」
　再び上げた顔にはうっすらと笑みすらあった。来た方向へきびすを返して歩き始めた幸鷹を、翡翠は黙って見つめる。
　ふぅ、と軽い嘆息の後に翡翠はあとを追うようにしてマンションへ向かった。



　その後、会話もなくマンションへ戻った二人を出迎えたのは目覚めたシャロンだった。
「ユキタカ、具合はどう？｣
「ご心配をおかけしてすみませんでした。ですがもう大丈夫です｣
　血色も良く、笑んだ幸鷹にこの前シャロンが感じた危うさはもうない。
　だからシャロンもほっとして蒼い目を細めて笑みをこぼした。
「あ、そうそう。ユキタカのために友人のカウンセラーを呼んでしまったの。病院へ行く前に寄ると言っていたから、もうすぐ来てしまうと思うわ」
「私のために……？」
「勝手なまねしてごめんなさい｣
　まさかシャロンもこんなにすぐ幸鷹が回復するとは思っていなかったのだ。
　シャロンの気遣いは嬉しく思うので、礼を言う。
「いえ、ありがとうございます。その方には無駄足になってしまいますが、せめてお茶でも飲んでいっていただきましょう。その前に朝食を作りますね、シャロンもどうぞ食べていってください｣

　そんななごやかな会話を、翡翠は黙って見ていた。
　見ていたのは幸鷹だけだったが。
　たしかに迷いはなくなった。
　それが幸鷹自身いい方向に向かったのかはわからない。
　何かを決意した目だ。
　……おそらく、幸鷹は……

「はい。お通ししてください｣
　どうやらカウンセラーとやらが到着したらしい。
　ちょうど朝食も終わり、コーヒーを飲んで３人が一服していたときのことだった。
「あまり緊張しないでね、ユキタカ」
「会うだけですから大丈夫ですよ｣
「そうそう、彼も日本人なのよ。翡翠は会ったことあるわよね？　少し前に紹介したしこの間のパーティでも話していたもの」
　あの男か。
　と、翡翠が二人にわからないように眉をひそめる。
　シャロンの紹介で会った男でカウンセラー、かつ日本人と言ったら該当者は一人。
　だが、どうにも翡翠はその男が気に入らなかった。
　自分のことは棚に上げて、うさんくさい男だと思った。
　翡翠も若くないので、そんなことはおくびにも出さないが、敵に回ったら厄介な男だとは思う。カウンセラーでは敵になりようもないのが救いだろう。
　幸鷹に会うだけなら大した害はあるまいと翡翠はソファに腰を落ち着けていたその時だ。
　インターフォンの音がして幸鷹が立ち上がり部屋の前にいるはずの来訪者を迎えるためにドアへと向かう。翡翠とシャロンはただその様子を眺めていた。

　ガチャ。
　ドアの前に立っていたのは一見青年実業家に見えるスーツに身を包んだ翡翠と同い年くらいの男。髪はやや茶色い黒髪で、りりしい眉、すっと通った鼻に、理知的な目、それに銀縁の細いメガネがインテリくさい印象を与える。
　幸鷹がドアを開けて来訪者に挨拶をしようと思い顔を上げた瞬間、幸鷹と来訪者の笑みが凍りつく。
「………」
「………」
　黙ったまま、目を見開き自分が今見ているものが信じられないという顔で見つめ合う二人。
　シャロンはどうしたのだろう、と首を軽くかしげる。
　翡翠もコーヒーカップをテーブルに置くと、何事かと片方の眉を上げる。
「もしかして、二人とも知り合いなの？｣
　シャロンの言葉に、知り合いも何もと当人たちは困惑する。
「……ゆき…たか？」
　翡翠たちの方からは幸鷹の表情は見えないが、来訪者と同じように動揺しているのだろう。
「恭……兄…？」
　次の瞬間、幸鷹の細身の体は来訪者に強く抱きしめられていた。
「幸鷹！　幸鷹……！！」
「きょ、恭兄さん……」
　熱烈な抱擁にシャロンと翡翠は面食らった。
　幸鷹と面識があったのはともかくとして、来訪者の男がここまで感情をあらわにするのは初めてだったのだ。しかもそれを隠そうともせずに幸鷹を抱きしめている。
「幸鷹、心配したんだぞ！｣
　そう言って男は幸鷹の顔をたしかめるように両手で包み込むと、その目尻や頬に唇を落としていく。このままエスカレートしていくのではないかと思った矢先に二人の背後から声がかかる。

「感動の再開も結構だが、私たちに説明してもらえないかな？｣
　目の前でくり広げられる光景に、翡翠は内心腹を立てていた。
　自分には昨日怒っておいて、この男には身を任せている。
　それが嫉妬によるものだと、まだ翡翠自身自覚していなかったが……。