「恭……兄……もう…っ」
　幸鷹の目尻には涙で濡れていた。
　懇願する幸鷹にかまうことなく、恭平は幸鷹の腰を引き寄せる。
　抵抗しようにも、もう体は疲れきっていて力が入らない。せめてもの抵抗として恭平に頼むのだが、それは聞き届けられることはなかった。
　こんなふうに抱かれるようになったのは、あの夜から。
　パーティで翡翠とキスしているところを見られてからだった。
　あれから恭平は帰ってくれば幸鷹をただ求めるようになっていた。
「…ん……っ！」
　嫌だと言っても聞き入れようとはしない。
　もう幸鷹の言葉は聞こえていないのだ。
「……幸鷹……っ」
　果てた体を幸鷹の上に乗せて、恭平は目を閉じて呼吸が整うのを待つ。

　恭平は変わってしまった。
　仕事へ行くときも、幸鷹を部屋に閉じ込めたまま出かけていく。
　この部屋の鍵は特別製で精神病患者の診療にも使えるように、内からも外からも鍵をかけることができるのだ。電話の回線も切ってしまっていて、幸鷹はここに捕らえられたに等しくなっている。
　これで良かったのだろうか。
　こうして私がここにいれば、恭平は幸せなのだろうか。
　私は幸せなのだろうか。
　逆らわず、ただ身を委ねるのは楽だった。
　何も考える必要はない。恭平の言うとおりにしていれば、それでいい。
「………う…」
　まだ痛む体を、幸鷹は眉をひそめて起こす。恭平のベッドの隣の今は飾りになってしまった幸鷹のベッドの枕をどけると、たたまれた白い布が1枚そこにはあった。
　その布は赤く染まったままで、もうこの染みは落ちないだろう。
　これを捨てれば、楽になれるだろうか。
　この苦痛も消えるのだろうか。
　あの男とつながる最後の物……
　捨てようと何度も思った。なのに捨てられなかった。
　このハンカチだけが、幸鷹を幸鷹のままつなぎとめていたのだ。
「……翡翠……」
　助けてなんて、口が裂けても言えない。
　今も、昔も……
　自分から捨てておいて、そんな身勝手なこと言えるわけがない。
　でも彼はそばにいてくれた。
　伊予にいた時も。
　京の危機の時も。
　この世界に戻ってきた時も。
　家族に見放された時も。
　何も言わずに、ただいてくれたから……
　その存在が当たり前になっていたから……
　失えないと、心の底で思っていたから……
　だから、逃げたのだ。
「卑怯者……」
　すべての答えを曖昧にして逃げた自分への言葉。
　彼を信じられなかった自分への言葉。

　だが、ようやく出た答えを返してくれる者はここにはいない。
　幸鷹は檻の中に閉じ込められた鳥のように、ひっそりとその体を横たわらせる。
　冬なのに、窓からは綺麗な星空。
　京にいた頃から、見上げていた星空。
　この世界は明るすぎて、その星を見失ってしまったけれど……。

●●●

『……分かったわ』
「よろしく頼むよ」
『私も馬鹿ね。敵に塩を送るような真似するなんて』
　それで電話は切れた。
　翡翠は受話器を置くと、リビングのソファに腰を下ろす。

　昨日、マンションにいた翡翠のもとに、幸鷹の大学の教授と名乗る年配の男が現れた。
　大学を休むと連絡をもらってから2週間経つが、幸鷹に手伝ってもらいたいことがあると言う。だが、聞いていた電話番号にはつながらず、直接マンションに訪れてみればいつも留守。
　それで翡翠なら連絡が取れるのではないかと、赴いてきたらしい。
　翡翠はそれを聞いて、口元が自然と緩むのを感じた。だが、他人にそれを悟らせることはしない。
　自分からも連絡をとってみると言って、適当に男をあしらった後に電話をした。
　確認のために恭平のマンションへ。
　案の定通話中の音しか聞こえない。次は今は会社にいるはずのシャロンの携帯電話へ。
　この間の挑発が思ったよりも効果があったらしい。
　だとすれば、自分も動かなければならない。
　恭平はおそらく幸鷹を何らかの方法で拘束しているはず。しかし、あんな見え透いた挑発に乗るとは思わなかった。
「……普通じゃないな」
　初めて会ったときはいけ好かない男、程度の認識しかなかったのだが、幸鷹と再会してからというもの恭平の行動はおかしくなっている。
　おそらくは幸鷹への執着で。
　カウンセラーだかなんだか知らないが、一番おかしいのはあの男だと、翡翠は肌で感じ取っていた。
　幸鷹には何を言っても、自分の言葉など聞く気はないだろうから恭平に対する挑発という行動をとることにしたのだが、予想外に早くお粗末な展開である。
「まったく、仕方のない人だ……」
　これは恭平に対してではなく、誰にでも無防備な幸鷹に対して。
　人の忠告を聞きもしないのだから。
　多少痛い目を見ないと分からないのか。
　そしていつも傷ついた顔をするのだ。
　それでも昔から変わらない幸鷹の姿勢。
　意志の強そうな大きな黒い瞳は、いつだって自分に対してだけは素直な態度はとらない。
　自分以外の人には割と素直なのも気に食わなかった。
　いつだって彼は自分を正面から真っ直ぐに見るのだ。
　最近は元気がなかったようだが、恭平の登場で幸鷹の回復は遅れる一方である。何よりもそれが気に入らなかった。
　自分のものを人に取られたままやり過ごすなど、もとが海賊の翡翠には我慢ならない。
　端から見れば物騒な光をその目に宿す。
　……手段は選ばない。
　………敵には容赦しない。


「もしもし？」
『！』
　受話器越しに相手が息を呑むのが分かる。
　翡翠はそれにかまわずいつものように悠然と話を続ける。
「幸鷹と話がしたいんだが」
『……今は僕のベッドで眠ってるよ』
　くだらない挑発に付き合うつもりはない。
「そう。今からもらいに行く」
　翡翠は携帯電話の通話を切る。
　すでにそこはマンションの前だった。車を停めると、中へと入る。ここの持ち主にはシャロンの父親の友人で、シャロンを経由して話は通してもらったので簡単に中へ入れた。
　問題はこれからだろう。
　大人しく幸鷹を渡すとは思えない。
　それでももう恭平の手元に幸鷹を預けておくのは気分が悪かった。
　エレベーターで最上階まで行って降りると、玄関と思われるドアは二つ。片方はこのマンションの持ち主の部屋だと言っていた。
　もう一つの扉……この奥に幸鷹と恭平はいるはずだ。
　フロントから預かったスペアのカードキーを通すと、電子音が鳴る。
　ドアのノブをつかみ、一気にそれを引いてドアを開ける。
　すぐに開けたワンルームが目に入った。ちょうど正面の大きな窓から日が差し込んでいて反射し、翡翠はまぶしそうにそれを細める。
「翡翠……」
「おやおや、やたら物騒なものを向けてくれるじゃないか」
　闖入者に対し、恭平は銃口を向けて立っていた。
　だが翡翠はひるむこともなく言い返す。
「君こそ、ノックもなしに入ってくるのは失礼じゃないか？」
「予告はしたがね」
　翡翠は横目でベッドの上で眠る幸鷹を見る。
　疲れているらしく、この騒ぎに起きる気配はない。
　……その方がいいだろう。
「幸鷹は渡さないよ」
　その恭平の言葉に、翡翠は薄く笑む。
　自分に敵意を向けるのなら、手加減するつもりはさらさらない。
「なら、仕方がないな」
　言い終わるのと同時に、翡翠はベルトに挿してあった指ほどの太さの柄のない特殊ナイフを抜き、そのまま恭平の顔めがけて放つ。
「くっ！」
　それを牽制に利用し、翡翠は身を低くして一気に距離を縮め、恭平の手に持った銃を蹴り飛ばす。
　ガッ！
　フローリングの床に飛ばされた拳銃が滑る。恭平はそれを拾おうとするのだが、それよりも早く翡翠は恭平の服の襟をつかむと力任せに壁に押し付けた。
「う……っ！！」
　腹部に拳をめり込ませ、恭平の体は床にくずれおちる。
　恭平も反射神経は並の男よりいいのだが、何せ元海賊とでは場数が桁違いすぎる。抵抗もできぬままやられるしかない。
　床に倒れた恭平の体をひざで押さえつけ、そのまま首筋にもう一本のナイフで切りかかろうとしたときだった。

「やめろ、翡翠！！」

　ナイフは触れる寸前で止まる。　　
　顔を上げると、ベッドの上の幸鷹が翡翠と恭平を見ていた。
　さすがにあれだけ暴れれば起きてしまったようだ。
「……うぅ……」
「君がそう言うのなら仕方ないか。だが、今すぐ解放するわけにはいかない」
　ナイフをベルトに収めると、翡翠は迷いなく恭平の首筋に手刀を当てる。どの程度の強さでどのくらい効果があるのかまで翡翠は心得ている。
　失神したのを見届けると、ようやく翡翠は恭平の体から足をどけて立ち上がり、乱れた髪を直すように肩にかかった髪を払う。
「……どうしてここに？」
　幸鷹はにらむでもなく、翡翠を大きな黒い瞳で見ていた。
　やはり、恭平に捕らえられていたようだな。
　合意の上であれば、おそらく幸鷹は怒りののしっただろう。
　翡翠はまず恭平の持っていた銃を拾い、それから自分の投げたナイフをベルトへ戻す。
「君をさらいに来たのだよ」

●●●

　幸鷹は一瞬翡翠が何を言ったのか分からなかった。
　さらいに来た……？
「どうして……」
「海賊としての本性はなかなか捨てられないらしい」
　混乱する幸鷹には、翡翠の言っていることの意味が分からない。
　翡翠を凝視したままふるふると首を横に振る幸鷹に、翡翠は手を差し伸べる。
「欲しいものは力ずくで手に入れる。まだ海賊のままだ」
「お前は……海賊だ」
「そう。君は忘れてしまったかい、国守殿？」

　忘れられるはずがない。
　忘れたいとどんなに願っても、忘れることはできなかった。
「どうして私を放っておいてくれないんだ……」
「…………」
　違う。
　こんなことを言いたいのではないのに。
「お前の忠告も聞こうとしないで、こんなことになったのに…」
　そこまで言うと、幸鷹はうつむく。
　そんな幸鷹に、翡翠は静かに問う。
「……君は私に何を望んでいるんだ？」
　私は翡翠に何を望んでいるのか……？
　何も望んではいない。
　何も期待してはいない。

　違う。
　それでは今までと変わらないのだ。
「私は……帰りたい……」
　過去には戻れなかった。
　どんなに望んでも、忘れようとしても駄目だった。
　あの家族との何気ない毎日。
　京での優しかった人々。
　……帰りたかった。
　ただ帰りたいと望んだだけなのに、それは叶えられなかった。

「帰りたい……お前のそばに」

　それだけしか残らなかったのだ。
　もう、昔の優しい日々には帰れないから。
　恭平のために、自分を捨てて生きていくこともできないから。
　自分は自分のためにしか生きられないから。
　だから幸鷹は差し伸べられた手を取った。
「……私をさらいに来たのだろう？」
　幸鷹は、今度こそその大きな瞳に意思を宿す。
　もう迷うことはない。
　傷つくことは分かっていても、少しだけまだ恐れはあっても、信じると決めた。
　……ずっとこの人のそばにいる。


『大切な人と幸せになりなさい』