「……つぅ……」
　恭平がうめきとともにゆっくりと瞼を上げると、心配そうに覗き込む幸鷹の顔と興味ないと言いたげな翡翠の顔が視野に入る。
「恭兄さん、大丈夫ですか？」
「大丈夫なものか……」
　まだ腹部に痛みが残っている。翡翠の失神させるための手刀に関しては後遺症をほとんど残していなかった。
　自分が気を失っている間に幸鷹を連れ帰ればいいものを。
　おそらく、翡翠はそう提案したのだろうが幸鷹に却下されたというところか。
「どうして帰らなかった？」
　上半身だけ起こして、恭平は低い声で幸鷹に話しかける。
　幸鷹は気まずそうにして、口を閉ざす。
「……」
「あんなことをしたのに、まだ僕のことが心配か？」
　狂っている。
　幸鷹を手に入れるためなら、何だってする。
　それは今も変わらない。
　10年も待っていたのだ。
　やっと手に入れたと思っていたのに、それを黙って持っていかれることなど許せるはずもない。
　狂っていてもいい。
　無様でもいい。
「幸鷹……」
　この綺麗な顔と、体。
　綺麗な心と、瞳。
　そして優しい声。
「恭兄さん……私は翡翠と帰ります」
　全部これは僕のものだ！
「はっ！　本気か、幸鷹？　僕は職業柄その男と同じ目をした人間を何人も見てきたから分かる」
　あざけ笑いながら恭平は翡翠を指差して幸鷹に言い放つ。
　幸鷹は真摯な瞳で恭平の言葉を待った。
　間違いない。
　この男のあの瞳は……

「この男は人殺しだ！」

　人を傷つけることをなんとも思っていない目だ。
　さっきも自分を本当に殺すつもりだった。
　恭平に対して敵意はそれほどないのに、あれだけの殺気。
　歯向かう者すべて殺してきた目だ。
「………恭兄さん……」
「幸鷹、そんな男にお前は渡せない！」
　目の前の幸鷹の細い肩をつかむ。
「お前がこんな男に汚されるのは嫌だ！」
　こんな男なんかに、幸鷹は触れさせない。
　誰にも渡すものか。
　この綺麗な瞳と心を、誰にも汚させるものか。
　幸鷹は僕のものだ。
「………恭兄さん」
　どうして、そんな悲しそうな目で僕を見るの？
　幸鷹はそんな顔をしなくていいんだよ。

「あの男が人殺しだというのなら、私も人殺しだ」

　ゆ…きたか……？

「私はあなたが思っているほど綺麗じゃない」
　幸鷹は眉を寄せて口元をゆがめる。

　そんな顔は似合わないよ。
「恭兄さん、私はもうこの手で何人も殺している」
　嘘をついちゃ駄目だよ。
　幸鷹がそんなことできるわけないじゃないか。
　僕の可愛い幸鷹はそんなことできない。
「私の仲間もかなりの数が彼に殺されているよ」

　………嘘だ。
　……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
「じゃあ、幸鷹はどこだ？」

「恭兄さん……」
「僕の幸鷹はどこにいるんだ？　ねえ？」
「どこにいるんだ？　出せ！　返せ！！」

●●●

　幸鷹は悲痛な面持ちでひざまずき、ベッドに横たわる恭平の姿を見ていた。
　翡翠は立ったままそんな幸鷹の姿を見ている。
「……シャロンに後のことは任せたよ」
「…………」
　黙ったまま幸鷹は瞳を伏せると、そのまま立ち上がる。
　もう振り返ることはしない。
　迷うことはない。
　なのに、どうしてこんなに苦しいのか……。
「ええ…」
　次に目が覚めたら、恭平はどうするだろうか。
　………いや、もうやめよう。
　私は心配することすら許されない。
　こんなことになったのは私のせいなのだから。
　だけど、今までのようにそばにいることはできない。
　自分のためにも、恭平のためにも。
「さようなら……」


　久しぶりに帰ってきたマンションに、懐かしいものを感じる。
「コーヒーでも淹れよう」
　翡翠はそう言ってキッチンに立つ。幸鷹は自分の荷物を部屋の入り口に置くと、ソファに座って翡翠を見つめる。
　ああ…
　どうして懐かしい感じがしたのか合点がいった。
　この男との、この空間が昔と変わらないものだったから。
　伊予にいた頃と、京にいた頃と変わらない。
　変わったのは自分だけなのだろうか。
　昔に比べたら、この男に対する敵意はなくなった。
　だが、根本にあるものは変わっていない。だから素直になれないのだ。
　弱音を吐きたくても、この男の前では吐けない。
　泣きたくても、この男の前では泣けない。
　甘えたくても、この男には甘えたくない。
「はい」
「ありがとう」
　手渡されたカップは、温もりを手から伝える。
　湯気に混じって豆の香りが鼻をつく。
　少し、ぬるい……？
　ミルクも砂糖も少し多目……
　目を丸くしてカップの中を見る幸鷹に翡翠は声をかける。
「どうした、別当殿？」
　猫舌だということを覚えていて、かつ気を遣ってくれたのか。
　この男らしいな……
　気づかなかっただけで、こうやってずっと自分を見ていたのだろう。
「……一つ訊いてもいいですか」
「訊くだけなら御自由に」
　向かいのソファに長い足を組んで座る翡翠は、目を細めてカップを傾ける。
「私はどうしたらいい？」
「？」
「……あなたは私をどうしたいのですか？」
　翡翠はカップから口を離すと、ふっと笑みをこぼす。
　カップを持つ手と逆の手で口元を押さえてひとしきり笑い続けた。
「どうしたいもこうしたいも、君のしたいようにすればいいだろう。どうせ君は私の言うことなんて聞きやしないのだから」
　その言葉に幸鷹は憮然とする。
　たしかにそのとおりだが。
「今回のことで、少しはあなたの言うことを聞こうと思ったのに」
「ふうん。殊勝な心がけじゃないか」
　またからかうような口調。
　いつもこの男はこの調子で話をはぐらかすのだ。
　だからつい私も言葉がきつくなり、素直になれない。
「もういいです」
「おや、御立腹」
　むす〜っとした顔つきに幸鷹がなっているというのに、翡翠は上機嫌だった。
　膨らませた幸鷹の頬を指でつついて、さらに怒らせる。
「翡翠！」
「ふふっ。いいじゃないか、減るものじゃあるまいし」
「まったく……」
　もしかして、この男は怒らせようとしているのだろうか。
　恭平のことで胸を痛める私を少しでも気をそらさせるために。
　おそらく訊いたところで、答えは返ってこないだろう。
　……だとすれば。
「……あなたも難儀な方だ」
　幸鷹は目を細めて、初めて翡翠に心からの笑顔を向ける。
　苦笑するような顔だったので、ゆがんだ笑顔だったかもしれない。だが、幸鷹の瞳は優しく和らいでいた。

　ただ一つ、気づいたことがあった。
　翡翠のそばが一番温かくて、優しくて。
　自分らしくいられる場所なのだ。

「翡翠……」
　幸鷹は空になったカップを置くと、立ち上がって翡翠の座るソファの横にいく。
　何事かと見上げる翡翠の顔を両手で包み込むようにして、幸鷹は顔を近づける。
　再びそれが離れた時に、幸鷹は翡翠の瞳を捕らえたまま微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして、かな」
　この日から少しだけ近づいた二人の関係はまだぎこちないけれど、こんなささやかな幸せが続けばいいと思っていた。