SHAPES OF LOVE
| 「ただいま」 「おかえりなさい」 敵同士だった頃に比べればなんと和やかな会話だろうか。あの時の二人を知る者だったら、今の状況に目を大きく見開いて驚くことだろう。 幸鷹は水道に差し出した手を引くと水気を払って、エプロンで水気を取る。 入り口近くの上着掛けに翡翠は着ていたコートをかけた。 「ヒスイ…！」 バンッと勢いよくドアが開いて翡翠を呼ぶ声に幸鷹は驚く。 何事かと入口に目を向けると、そこには顔を赤くしたシャロンが立っていた。肩には毛皮のコート、中に着ているのは大きく胸の開いた黒のイブニングドレス。 挨拶しようにも、その顔が怒りに満ちているので幸鷹は声をかけることができなかった。 「寒いから早く閉めてくれないか｣ 翡翠は何事もないようにそれだけ言ってソファに座る。 「…………」 黙ってドアを閉めるシャロンに、幸鷹はやはり声をかけることはできない。 一体翡翠は何をしたのだろうか。 今日はシャロンに付き合ってニューイヤーパーティに出席すると夕方出て行った。この前の一件でシャロンに借りがあるからしぶしぶ出て行った感じではあったが。 それにしてもここまで彼女を怒らせるとは……。 「お邪魔するわよ、ユキタカ」 「え、はい……」 シャロンの威圧感に、幸鷹はひるんだ。だが、怒りの矛先は自分ではない。 「では私は自分の部屋に戻りますから……」 遠慮して、といいたいところだがこれから起こるだろう修羅場に幸鷹は巻き込まれまいとして部屋に戻ろうとする。しかし、シャロンの一瞬の視線に幸鷹は足を止める。 ここにいなさい、という目だった。 仕方ないので、幸鷹はやかんに水を入れてコンロにそれをのせ、火をかける。外は氷点下。そこから来たのだからそこそこに冷えたはずだ。 「……ヒスイ、どういうつもりなの？」 「どういうつもり、とは？」 面倒くさいと言わんばかりにソファに腰をかけ長い足を組み、右手を肘掛に乗せて頬杖をつく翡翠。つかつかとヒールを鳴らしてシャロンは彼の前に立ち、手に握り締めていた箱をテーブルに叩きつけるように置く。 「これよ！」 手の平にのるくらいの小さな箱。 あれは…なんだろう？ 指輪か、イヤリングの箱、だろうか？ 「今晩、ジョンにもらったわ」 「そう。それで？」 それでも翡翠は態度を変えない。 シャロンは一段と顔を赤くする。 怒っているのかと思ったが、それだけではないことに気づいた。 ……悲しいのか。 シャロンの頬に、一筋の涙が伝った。 「……どうして……」 「仕事だから」 にべもない返事。 どういうことなのか、幸鷹にはちっとも分からなかった。 ただシャロンは怒り、悲しんでいる。 泣き喚いたりはしない。 翡翠の前にきちんと立って、彼を見つめている。 「……私じゃ駄目なのね｣ 「…………」 震えながらも翡翠にはっきりと訊いたシャロンの声は幸鷹の耳にも届いた。 彼女から、幸鷹は目をそらせない。 こんなふうに真っ直ぐにぶつかることができる彼女を尊敬していた。 ……そしてこれが最後だろう。 「シャロン。私は君には応えられない｣ どうして、私はここにいるのだろう。 やはり二人きりにするべきだった。 ………こんなに胸が痛むのなら。 同情、ではない。 ただ、彼女の姿があまりにも潔くて。 「そう……」 翡翠は何もなかったかのように無表情で、ソファから身を起こすと自室へと入っていく。 シュウゥ… 残された部屋に、お湯の沸いた音が響く。幸鷹はぼんやりとした目でそれを見て火を止める。コーヒーカップを手に取り、フィルターを取り付けコーヒーを入れる。もうほとんど無意識の動作だった。 何も言えない。 だが不思議と気まずくはない。 「………どうぞ」 二つのコーヒーの入ったカップをテーブルにのせて、幸鷹はシャロンにそれを勧める。シャロンは黙ってうなづくと、ソファに座ってカップを手に取った。 幸鷹もようやく落ち着いて彼女の前にソファに座ることになる。 「……ジョンというのは、どなたですか？」 目の前にある箱をシャロンに渡したという男、それくらいしか幸鷹には分からない。 カップから口を離すとシャロンは軽くため息をついて、口元に笑みを浮かべる。 「父の友人の息子で、私の許婚、というところかしら」 「そう、ですか……」 テーブルの上の箱をシャロンは手に取り弄ぶ。 眉を寄せて、自嘲の笑みを浮かべて。 事情がさっぱり飲み込めないが、ジョンという男が許婚だとしたらその箱の中身は婚約指輪が有力候補だろう。 「……ふふ。振られちゃったわ｣ 「シャロン……」 痛ましい笑みに、幸鷹は眉を寄せてうつむく。 それ以上は何も言えなかった。 自分には何も言う資格はないと思ったから。 「ユキタカ」 「………はい」 「ヒスイとセックスした？」 …………え？ あまりに唐突で、あまりに突拍子もなくて、幸鷹は目を大きくしてシャロンの顔を見返した。 シャロンの顔はただいつものように優しく微笑んでいる。 「して、ません……」 これは本当だった。 彼は恭平の家から戻ってきた後も、幸鷹に必要以上に触れようとはしなかった。 前と変わらない彼の態度。 それに安堵しつつも、幸鷹は少し釈然としなかった。 「でも、ヒスイのことが好きなんでしょう？｣ 「……わかりません」 それも本当だった。 恭平の一件から、少しだけ幸鷹の翡翠に対する態度は和らいだ。 彼がもう敵にはならずに、そばにいると分かったから幸鷹はそれだけでよかった。 「ユキタカ、今の状態で満足してるの？」 満足……している。 「もうこれ以上はヒスイに何も望まないの？｣ あの男にこれ以上何を望むのか……？ 「私は、望んだわ。ヒスイが欲しかったの。見苦しくても、無様でも、私はあの人が欲しかった。どんなことをしても、欲しかった……」 見苦しくなんてなかった。 無様なんかじゃなかった。 ただ、彼女はあの男を欲していることは幸鷹にだって分かった。 幸鷹は彼女と同じくらい翡翠のことを愛しているとは到底思えない。あんなふうに堂々と彼に立ち向かうことはできない。 「何度振られても、まだあきらめられないのよ……」 「シャロン……」 そこまでの熱情。 ここまで人を想えるものなのか。 シャロンも恭平も……。 「ヒスイはしつこい女は嫌いでしょうね……」 「……私には分かりません。でも貴女のことを少しでも疎んでいたら、あの男はこんなふうに一緒に出かけたりすることはないと思います｣ 「ユキタカ、私は彼のすべてが欲しいの」 真っ直ぐに、幸鷹の瞳を見るシャロンの深い蒼の瞳に見惚れた。 「我がままかもしれない。それでも欲しいのよ」 「私には……貴女のように想うことはできない…」 自信がないのだ。 こんな彼女を前にして、翡翠を好きだと言うことはできなかった。 苦しげに眉を寄せる幸鷹の頭を、苦笑したシャロンがぽんぽんと軽く叩く。彼女の瞳に、幸鷹を責めるような色はない。 「別にあなたはあなたなりに、彼を愛せばいいのよ」 「シャロン……」 どうして、彼女は許してくれるんだろう。 初めて会ったときから、答えの出ない自分を許してくれていた。 「あなたの愛し方で、ヒスイを愛してあげてね｣ シャロン？ もう何も言わず彼女はソファから立ち、玄関へと向かった。あわててユキタカも後を追う。 「……コーヒーごちそうさま。じゃあね」 シャロンがドアを開けると、冷たい風が背後にいる幸鷹のほうにまであたり、軽く身をすくませる。 その冷たい風に、シャロンの薄いブロンドの長い髪が舞った。 「……あ……」 言葉が出なかった。 一瞬だけ見えた彼女の横顔。 流れるブロンドの髪から、垣間見えた彼女の横顔は…… ……ただ優しく微笑んでいた。 彼女は私に何を伝えようとしたのか……分かった気がした。 ■■■ コンコン。 ノックに対する返事はわずかの沈黙の後に。 「……どうぞ」 そこで、幸鷹はノブに手をかけて一瞬躊躇する。 これを開けたら、後戻りはできない。 「失礼します｣ でも私は……行かなくてはいけない。 少しでも前に。 「…私を責めに来たのかい？｣ 翡翠の声は静かだった。 部屋もベッドの横から夜景の明かりが入ってくるだけで、ルームライトは一切ついていない。広くない部屋は必要最低限のものしか置いてない。机、その椅子には先程まで翡翠が来ていたタキシードの上着が掛けられている。 翡翠はベッドに横たわっていた。 「いいえ……」 「………」 幸鷹の返事に、それ以上の詮索はしない。翡翠の部屋のドアを閉めると、幸鷹はベッドへとゆっくりと近づいていく。 「……怒ってるようだね｣ 「少し…。でもあなたの行動は否定できません。彼女の愛し方に応えられないのはあなたのせいではないから」 怒っているように見えるのは緊張のせいもあるのだろう。 幸鷹は軽く唇を噛んで、手をきつく握る。 ……決めたのだ。 「翡翠……」 彼は何も言わない。 ただ幸鷹が言い出すのを待っている。 「………私と寝ませんか｣ 言うだけ言った後、幸鷹は彼の返事を待つしかない。 断られるのだろうか。 翡翠の視線が痛かった。 早く、早く何か言ってくれないだろうか。 この状態がつらかった。 どちらでもいいから、早く何か言ってくれないだろうか。 「……幸鷹｣ ベッドから翡翠の腕が伸ばされて、幸鷹の体を抱きしめる。 顔はこれ以上ないくらいに赤くなっていることだろう。 「どうして私と？」 「それは……」 好きだから、とか愛してるから、ではない。 そんなことは私も彼もわかっていた。 ただ好きだと、愛してると言えたら楽なのだろうが、そんな純粋なものではなかった。 シャロンは自分は自分なりの愛し方をしてほしいと言った。だが、幸鷹にはその方法が分からない。だからその方法を探そうとしているのだ。 「……あなたは逃げないのですか？」 シャロンと同じように彼を求めているのに、彼は私を突き放そうとはしない。 ドレスシャツの生地ごしに彼の体温が伝わってくる。 香水の香りもするが、それよりも彼のにおいがした。 「君が私を逃がしてくれたときがあったかな｣ それは……ないかもしれない。 昔から彼を追っていた気がする。 追いかけて、つかまえたと思ったのに、いつの間にか彼は私の手からするりといなくなっているのだ。 それでも追いかけて、今度こそつかまえたと思ったのに…… 「おとなしくつかまったこともないでしょう」 「つかまったら殺されるからね。こちらも必死だったよ｣ 嘘をつけ、と言わんばかりの翡翠のセリフ。 そこで翡翠の腕の中から顔を上げて彼と顔を見合わせると、どちらからともなく吹きだす。 「どうして私を誘ったんだい？ シャロンに入れ知恵でもされたのかな｣ 彼女の笑みが脳裏を掠める。 それに合わせて幸鷹の笑みも翳りを帯びた。 今の彼女の気持ちを考えると、こんなふうに笑っている場合ではない気がした。 だが彼女の望みは…… 「知りたかった……。あなたと寝たら何か分かる気がしたんです。あのシャロンの熱情の正体も、彼女のあなたを求める気持ちも」 「私の気持ちはお構いなしかい？｣ 「嫌なら拒めばいいでしょう」 「…………」 幸鷹は瞳を伏せると眼鏡をはずして窓際に置く。 そして翡翠のほうへと向き直る。 「…………ふぅ」 翡翠がこれ見よがしに大きなため息をつく。 そんな彼の首に腕を絡ませて、幸鷹は顔を寄せた。 …知りたい。 この男に対する自分の気持ちが。 自分なりの愛し方が。 変わっていく二人の距離が、自分たちをどう変えて行くのか……。 「幸鷹……」 名前を耳元で囁かれて、幸鷹はそっと目を伏せる。 ■■■ 定期的な間隔で鳴る音が、肌を伝わって聴こえてくる。 肌の温もりからも、ベッドからも、彼のにおいがして幸鷹は身を沈める。 ここでずっと眠っていたい。 「幸鷹……」 この涼やかな自分を呼ぶ声をずっと聴いていたい。 自分の髪を優しく撫でる大きな手の感触を感じていたい。 もう一方の手は、昨晩からずっと幸鷹の手とつながれていた。 「……幸鷹、起きないと電話が切れてしまうよ｣ がばっ。 慌てて身を起こすと、近くにあった翡翠のドレスシャツを羽織って部屋を飛び出していく。リビングルームでは翡翠の言うとおり電話のコール音が響いていた。 「もしもし」 充電器からコードレスホンを手に取ると耳に当てる。 『ユキタカ･フジワラ？』 「はい」 とある大学の助教授だと名乗る人物の電話は、今度の学会での打ち合わせの内容だった。しかし、幸鷹は上の空でそれを聞きながら、考えていたのは翡翠のことだけ。 自分と身長は６センチほどしか変わらないのに、昔船乗りであった翡翠とは肩幅と胸囲が大きく違う。大き目のシャツから除く自分の肌には、まだ夕べの跡が生々しく残っていて、幸鷹は嫌でも自分の痴態を思い出さざるを得ない。 「はい。では…明後日の２時に」 受話器を置くのと同時に、洗面所からきちんと身支度を整えた翡翠が出てくる。 この部屋の電話は幸鷹専用で、翡翠の電話は携帯電話のほうにしかかかってこないので、幸鷹を起こしたのだ。 「……私と寝て、何か分かったかな？」 翡翠の態度は何一つ変わらない。 変わらないように見せかけているだけなのか、少なくとも幸鷹にはその差は分からなかった。 さすがに体をつないだだけで、急速な変化はないか。 分かったような、分からないような。 でも何か気恥ずかしくて、翡翠の顔も見返すことはできなかった。 「私も着替えてきます」 それだけ言って彼の前から逃れるように自分の部屋へと入る。 はあ……。 やはり、シャロンのような激しい情熱は自分にはないのだろうか。 そして、あの男にもそれはないのだろうか。 ただ体の欲望のままに、彼を求めはしたがそれ以上のものは何もない気がした。 彼のそばにいて、それだけで自分は満足している。 何が違うのだろう。 たしかに家族や、恭平に対する感情とは別なのだが、この気持ちをなんと呼んだらいいのだろう。 結局、何も分かりはしなかったということか。 彼女の望みは、私には叶えられない。 彼女の最後の笑顔は、私にではなく翡翠に向けられたものだった。 その意味は……幸せになって欲しい、という意味だった。 私は、彼といるだけで幸せなのだ。 それでは、彼の幸せは……？ ■■■ 「幸鷹、待っていて。すぐに迎えに行くから」 |