SHAPES OF LOVE2
| 「……花梨？」 隣を歩いていたはずの少女の姿がないことに気づいて勝真は振り返ると、少女は両手で顔を押さえてうつむき立ちすくんでいた。 泣いてる、とは思えない。 ただ大学へ向かう途中なだけで、今も二人で仲良く歩いていただけ。 いきなりどうしたというのか。 「おい、どうした。具合でも悪いのか？」 花梨はその言葉に黙って首を横に振る。 なら、一体何があったのか。 勝真は少女の体を支えるように抱いて、再び質問をする。 「どうしたんだ？」 「……わからない、けど。嫌な予感がするの……」 両手を下ろして勝真を見上げた顔は、真っ青だった。 やっぱり具合が悪そうに見えるので、ひとまず構内の噴水の縁に腰を下ろさせる。少女はさっきよりは顔色を取り戻したようであるが、それでも自分の中に得体の知れぬ不安感があるらしく勝真の服をつかんだまま離そうとしなかった。 「大丈夫か？」 「うん……」 「嫌な予感、てなんだ？」 「わからない……けど、私たちのことじゃない。多分……翡翠さんと幸鷹さんに何か起こってる気がする」 あいつらに？ 幸鷹はしっかりしてるし、翡翠もちゃっかりしてるから、問題を起こしそうには思えないのだが。でも少女の状態から見るに、冗談ではなさそうだった。 まだ神子としての力が残されているのかもしれない。 「お前は大丈夫なんだな？」 「うん……」 「たしか家にあいつらの連絡先があったよな。電話してみようぜ」 花梨の気のせいであったほうがいい。 だが、この状態では…… 「……そうか、神子殿が…」 翡翠の声はいつになく細く暗い。電話の向こうの勝真の言葉を聞くと目を伏せて空いているほうの手で頭を抱えるようにする。 『で、そっちは何かあったのか？』 「…………」 沈黙。 勝真の近くには花梨もいるだろうから、余計な心配はかけないほうがいいだろう。 「幸鷹は風邪で伏せっているとでも伝えてくれ」 『………分かった。大丈夫なんだな？』 すぐにその意を察して、勝真は余計なことは言わない。 彼も京にいた頃に比べてずいぶん立派になったものだと、翡翠は力なく苦笑する。 「ああ。では、神子殿によろしく」 ピッ。かかってきた国際電話を切る。 昨日、次の学会の打ち合わせに出かけた幸鷹はそのまま姿を消した。 翡翠が夜遅くに戻ってみると部屋が暗く幸鷹がいないので、打ち合わせが長引いているのかと思って携帯に電話をしてみたが電源が切られている。幸鷹が何の連絡もなしに外泊することはない。子供ではないし、必要以上に心配をするわけではないが、それでも何か嫌な予感がした。 案の定、朝まで待ってみたが幸鷹からは何の連絡もないままだった。 まず考えられるのは、自発的に姿を消した。しかし、これには理由が必要だし、翡翠に何の断りもなくするような青年ではない。 次に考えられるのは何らかの事故に巻き込まれた。交通事故などの類。 最後は何者かに誘拐された。 上着から携帯電話を取り出すと電話帳を検索して通話ボタンを押す。耳に携帯電話を当てるとツツツ…と発信音がする。 トゥルルルル、トゥルルル……プッ 『………ハィ』 しばしの沈黙の後に力ない声。 携帯電話の表示が翡翠のものからだと知ってこんな対応になったのだろう。翡翠も昨日の今日で振った相手に電話などしたくないのだが、確認事項があるのだから仕方ない。 「シャロン？ 私の声など聞きたくないだろうが、訊きたいことがある」 『……何かしら？』 「恭平……あの男は今どうしてる？」 『キョーヘイ？ 療養所に送ったけど、どうして？』 「本当にそこにいるか確認してくれ」 翡翠の言葉にシャロンはすぐ事情を察して、電話越しに息を呑む。 『ユキタカ……いないの？』 「ああ、急いでくれ」 『分かったわ。確認しだい連絡する』 「頼んだよ」 そう言うと翡翠は携帯電話を切って、今度は別の番号にかける。 『翡翠、何か用ですか？』 「今日はそこを閉めてかまわないから、今すぐここへ来てくれ」 『了解。30分で着くと思います』 電話相手は翡翠の仕事仲間で、翡翠のマネージャー的な役割をこなしている。仕事を放棄させたのは彼にはここで連絡係になってもらうためだった。 幸鷹から連絡が入るかもしれないし、何よりこれからのことを考えると情報収集の拠点がほしい。まさか1日いなくなっただけで警察を呼ぶわけにもいかないし、取り合ってももらえないだろう。しかし、現に幸鷹の危機を神子が察知しているのだから早目に手を打ったほうがいい。 幸鷹がいなくなってまず考えた可能性が、恭平に再び捕らえられたのではないかということだ。 ……だとすれば、前の件でやはりとどめを刺しておくべきだった。 私もずいぶん甘くなったものだ。 自分に刃を向けたものはすべて殺せと言われてきたのに。 「……次はない」 翡翠は普段は誰にも見せない冷えた瞳を窓へ向ける。 せっかく見逃してやったというのに、馬鹿な男だ。 まだシャロンからの連絡はなかったが、翡翠は確信を持っていた。恭平が幸鷹を連れ去ったのだと。 問題はこれからのことだろう。 打てる手はすべて打っておく。 「もしもし」 再び電話をかける。 できれば使いたくない番号だった。 「……頼みがある」 ■■■ ……頭がぼんやりする。 幸鷹は薄く目を開くと、気だるそうに右手を折り曲げて頭に触れる。 ……ここはどこだ？ かすれる視界でもここが自分の部屋でないことくらいは分かった。翡翠の部屋でもない。ベッドの上なので寝心地は悪くないのだが眩暈がする。 低血圧ではないので割と寝覚めのいいほうなのだが、今日は頭も重く最悪の状態だった。 そんな状態でも、幸鷹は自分の記憶をたどる。 昨日は……そうだ。 午後からホテルのティールームで次の学会の打ち合わせをして、トイレに行ったときのことだった。背後から布で鼻と口を覆われた。 クロロフォルムだと気づいたときには、もう思い切り吸い込んだ後だった。 それ以降の記憶はない。 ……何者かに襲われた？ しかし、幸鷹には誰かにそこまで憎まれる覚えがない。 ふとシャロンの顔が浮かんだが、彼女はそんなに浅はかな行動をする人間ではない。行きずりの犯行ならホテルなんて人目の多いところでこんなことはしないだろう。 だとすると、幸鷹を狙ってのことになる。 「幸鷹」 幸鷹はその声で自分は誰かに憎まれて襲われたわけではないことに気づく。 まだうまく働かない思考でも、この声には目を見開いて驚いた。 ……どうして…… その疑問は呟きにもならず、幸鷹は口を薄く開いただけだった。 自分の従兄弟であり、先日精神療養所に送られたはずの青年。 「……恭…兄さん」 彼のかけている細い銀縁の眼鏡の奥の瞳は、少し切れ長で怖い印象を与えかねないが幸鷹にだけは柔らかく微笑む。 以前と分からず……。 「幸鷹、会いたかったよ｣ 大きな手が伸ばされ、幸鷹の髪をさらりと撫でる。 その違和感に幸鷹は身をすくませた。 違う……この手は……。 眉をひそめてその嫌悪感の正体を探ると、昨日の朝のことが思い出される。翡翠の腕の中で迎えた朝、彼の手が髪を撫でたときはその心地よさに浸っていた。 「やめてくださ……」 その手を振り払おうとしたときのことだった。右手は自由になったのだが、左手が何かに引っ張られる感覚。目を向けてみると、左手の手首には手錠がはめられており、ベッドの柱につながれていた。 「！ ……はずしてください」 「駄目だよ。今はずしたら逃げちゃうじゃないか。しかし、僕をよりにもよって精神療養所に入れるとはね。仮にもカウンセラーの僕をそんなところに入れるなんて逃げてください、と言ってるようなものだよ」 あの一件の後、恭平の身柄はシャロンに預けたのだが、どうやら彼は精神療養所に送られたらしい。その彼女の判断は正しかったと思うのだが、恭平はカウンセラー。療養所でどんな結果が出ればそこから出られるのかなど百も承知だ。 あの時のショックによるヒステリーはおさまっているが、幸鷹に対する執着心は消えていないようだった。 「ずいぶんとあの男と仲良くなったようじゃないか」 幸鷹のシャツのボタンをはずし、さらけだした上半身に残る赤い鬱血の跡を見て恭平は目を細める。彼の視線からその身を隠そうにも、片手しか自由にならない身ではシャツの前を合わせるようにするだけで精一杯だった。 それでも止めなければ。 自分の身も危ういが、それよりも恭平の身が気になる。 ここがみつかれば、今度こそ翡翠は手加減をしないだろう。 まだ、ここで止められれば…… ここで止めなければ…… 「……これは犯罪ですよ｣ 咎めるような幸鷹の目に、恭平は切れ長の目を一瞬大きくすると、次に満足そうに細める。 片手を幸鷹の頬に添えて、うっすらとした笑み。 ぞくりと、幸鷹の背中を冷たいものが走った。 なんだ……？ 「そう。その目だ、幸鷹。その目が欲しかったんだ。清廉潔白な意志の強い瞳が欲しかった。やっぱり君は僕の大事な大事な幸鷹だね」 ……自分に何の幻想を抱いているのか。 彼が思っているほど自分は綺麗でもなんでもない。 罪人だけでなく、翡翠の仲間も何人も捕らえ処刑と言う名のもとに、殺してきたのだ。理由がどうあれ、自分がそんなに綺麗なものじゃないことは幸鷹自身が一番よく知っている。 「恭兄さん、私は……」 次の言葉は恭平の口付けによって封じられた。 逃げようとしても、執拗に追ってくる唇。 嫌だ……嫌だ……！！ 以前にはなかった嫌悪感。 恭平とのキスはただ幸鷹には不快なものしか感じさせない。 前までは平気だったのに…… 「つっ！！」 耐え切れなくてとうとう幸鷹は恭平の唇を噛む。手加減をしなかったために、慌てて恭平が口を押さえるがやはり切れたらしく、押さえた手には赤い液体がついた。 「そんなにあの男がいいのか？｣ 聞いたこともないくらい、恭平の声が低くなる。 何かを必死で抑えている、うめいたような声。 そしてその切れ長の目は今までにないくらい、幸鷹をにらんでいた。 幸鷹をにらんでいるのではなく、幸鷹を通して翡翠を見ているのだ。 「ちが……！」 「……渡さない。君は僕のものだ。もう絶対に誰にもやらない！」 恭平がベッドの脇にあるテーブルから薬の瓶を手にとって、蓋を開け中から錠剤をいくつか出すと、残りは床に投げ捨てる。 「私はあなたのものにはならない！」 「あの男がそんなにいいか！」 がっ。 幸鷹のあごを押さえ、無理矢理口を開けさせると錠剤を突っ込む。 思わずむせ返って吐きそうになるが、すぐに恭平は同じテーブルの上にあった水の入ったコップをつかんで幸鷹の口に流し込む。そして口を閉じさせ、幸鷹が涙交じりにそれを嚥下したのを見るとようやく幸鷹の体を解放する。 「ごほっ」 吐き出そうとするが、涙が出るだけで薬は飲み込んだままだった。 次に自由になる右手を口に突っ込んで強引にでも吐き出そうとするが、口に入れる前に恭平に手をつかまれてしまう。 何の薬だ……！？ 睡眠薬程度ならいいのだが……そんなものを無理に飲ませるとは思えない。 「こほ……恭……兄さん…」 恭平は一体何をする気なんだ……。 涙でぼやけた視界で、幸鷹は目の前の男の顔を見る。 もう、優しかった日々の面影はない。 止められないのか……。 もう……駄目なのか……。 ドクン！ 急に心臓の動悸が激しくなる。 クロロフォルムによる頭の重さもどこかへと飛んでしまう。 「…く……ぅ！」 何かをこらえるように唇を噛む幸鷹の体を、恭平は両手で包み込んだ。 しかし幸鷹はそんなことを気にしている余裕はなかった。 ……熱い…… 熱い……！！ 最後に、恭平は耳元で囁く。 「あの男のことを忘れさせてあげる。……君は僕のものだ、幸鷹」 ■■■ 「やあ、ヒスイ」 ゆったりと黒い革の椅子に深く腰を下ろしていたのは、このビルの所有者。 ビル自体はL.Aの中でもそうう目立つ容貌はしていない。だが、ここは間違いなくL.Aの中でもトップの部屋と言ってよかった。 なぜなら目の前にいる人物が、L.Aのトップだからだ。勿論市長とかそういう意味ではなく、L.Aにおいて一番影響力のある人間という意味で。 「君の作ってくれたピアス、とても気に入っているよ｣ その青年はにっこりと空色の瞳を細めて人懐っこい笑みを童顔に浮かべる。 この部屋には翡翠と青年の二人しかいない。無論、この部屋のドアの前には屈強な男が二人立っているが、青年は翡翠との話の邪魔をされたくないので追い出したのだ。 青年は組んでいた足を下ろすと、立ち上がって翡翠のほうへ歩いてくる。そして腕を広げ、翡翠の首にそれを絡めた。 「……ジョン」 翡翠が青年の名を呼ぶと、青年は苦笑してその身を離した。 そしてさらりと薄い金色の髪をかきあげる。 「つい嬉しくてさ。ボクのところへ来てくれる気になった？｣ 「頼みがあると言ったのだが？」 はあ、とジョンは肩をすくめて眉を寄せると大げさにため息をつく。 「電話でそう言っていたね。で、調べてほしいのは君の同居人の行方かな？｣ 頼みがある、としか電話では言っていない。だが、こうして本題を知っているということは、翡翠がここへ来るまでの間に調べさせたということだろう。情報収集はお手の物というわけだ。 その情報網を借りたくてここへ来たわけだが。 「そういうことだ」 「ふぅん。君がボクのところへ自ら来てまで助けたいのは愛しの君、か」 いつものように、翡翠は顔を崩さない。 表情に出せば手の内をさらけ出すことになるからだ。 「それで君は見返りに何をくれる？」 来た。 ジョンは以前翡翠が株を動かしていたときに知り合った者の一人で、翡翠をいたく気に入ったようだ。株を動かすのをやめると言ったとき、彼からは自分のところへ来ないかという誘いがあった。 その気になれないので断ったのだが、彼はあきらめない。 今回の見返りに、彼がそれを望めば翡翠は受け入れただろう。 実際、彼がそれを望むだろうことを想定していた。 「…何が欲しい？｣ それでも自分から言い出すような真似はしない。 ジョンに答えを求めると、彼はふふっと意味深な笑みを浮かべる。 女性から見れば実に魅力的な笑みだろう。整った目鼻立ち、甘いマスクに愛嬌のある表情、それに大企業のトップとは思えないほどの人好きのする口調、笑顔。歳よりもかなり若く見えるが、その武器を自分で理解して使いこなしている。 だから翡翠も青年を気に入っていた。幸鷹とは別の意味ではあるが。 自分と対等に渡り合う者として、退屈させないだけの実力を持っていたからだ。 そんなジョンの答えは、やはり翡翠の思惑通りではなかった。 「君、と言いたいところだけどやめておこう。こんな方法で君を手の内に入れても、怖くて何も任せられないよ。それに、何か一つ君に貸しを作っておくのも悪くない｣ そうきたか。 だから彼は面白い。 貸し一つ、結構高くつくことになるだろう。 だが今は幸鷹だ。 「居場所はできるだけ早く突き止めよう。連絡はどこにすればいい？｣ 「マンションに透夜が来ている。すべての連絡はそこにしてくれ」 電話をして３０分で透夜はマンションにやってきた。そして翡翠の短い説明で自分の役割を理解し、今はマンションで電話番をしている。 「事故の線と誘拐の両方で探ればいいわけだね」 「誘拐の犯人に目星はついている。……阿坂恭平という男だ｣ 「キョーヘイ？ シャロンが療養院に送ったんじゃなかったのか｣ 「その男の居場所が分かったら連絡をくれ｣ ジョンも恭平とは面識がある。カウンセラーとしては割と有名だったらしく、企業の重役相手の仕事が多かったそうだからジョンとも面識があったようだ。 「……手出しは無用か｣ 「…………」 その問いに翡翠は、あまり見せることのない冷ややかな笑みで答える。 凍るような冷たい視線は、あまりの美しさに人の目を奪うものがある。だが、その口に浮かぶ冷笑からは心のそこが冷えるような畏怖。 「……翡翠、君の想い人の無事を祈ってるよ｣ この張り詰めた空気に、ジョンはたじろぐことはない。 ただ、翡翠が自分のものではないのが惜しかった。 そしてまだあきらめないという気にさせられると同時に、彼にここまでさせる人物に興味が浮かぶ。 この件が解決したら、一度お目にかかってみたいものだ。 振り返らない翡翠の背中を見送りながら、ジョン・ハワードは微笑む。 |