SHAPES OF LOVE6
| 中の修羅場の感想は、ため息とともにつまらなそうに吐いたその言葉だった。 現れた影に、シャロンの顔は明るくなり、対照的に恭平の顔はゆがむ。 「ヒスイ！」 「翡翠、動くな！！｣ 長い髪をさらさらと指で弄ぶようにして目を細めて部屋の中を眺めているのは翡翠だった。 彼が現れたところで事態はまったく好転していない。 しかし、翡翠はその顔にうっすらと笑みを浮かべる。 「人質というのは、その価値がなければ意味がないんだよ｣ 恭平には一瞬意味が分からなかったらしい。ためらわず部屋に踏み込む翡翠。 それを見て、幸鷹には彼の言ったことがどういう意味かを理解した。 翡翠にとって彼女は人質としての価値はない。 ……駄目だ！！ 「がっ！！」 気がつけば幸鷹は恭平の頬を拳で殴りつけていた。 翡翠に気を取られていて、まさか幸鷹から攻撃が来るとは思っていなかった恭平は間抜けな声を上げ、そのままベッドに倒れた。 「お見事、別当殿」 え……？ からかうようなその声に目を開けると、シャロンが身を起こして恭平から離れて翡翠の背に隠れるところだった。 「ぐ……」 恭平が右手で口を押さえゆっくりと身を起こす。 「恭兄さん、すみません」 どんな理由があるにせよ、彼を殴ってしまったのは自分だ。 うつむいたまま恭平の血走った目は幸鷹を見ている。 その視線に嫌なものを感じて、幸鷹はじりじりと恭平から離れていく。 おかしい…… どうして自分は恭平から離れようとしているんだ。 やはり自分の記憶が間違っているのか……？ 恭平じゃなくて、では私の感情は誰に向いていたのだ……？ 「幸鷹｣ 顔を上げれば翡翠が目を細めて自分を見ている。 この男はさっき自分になんと言った？ ベットウドノ……。 聞き慣れない単語は英語ではない。 『別当殿』 自然と頭の中で変換が行われていた。 どうして自分はそう呼ばれているのだ……？ 「君に会いたいという人がいる。来なさい」 私に？ また知らない誰かだろうか。 だが、このまま恭平を残していくことにためらいがあって、幸鷹は眉を寄せて恭平を見る。恭平はまだうつむいたまま幸鷹を見たままだった。 ……怖い。 まるで見知らぬ誰かのようだ。 これは自分の知っている恭平ではない。 「ユキタカ、行きなさい。ここには私が残るから」 「でも、あなた一人では……」 ついさっきもシャロンは恭平に襲われたではないか。そんな彼女を一人で残していくわけには行かない。 そんなユキタカの思惑を見て取ったのか、シャロンは首を振って気丈そうに笑う。 「大丈夫、もうすぐ応援が来るわ。それに恭平はベッドから動けないから、手の届かないところにいれば何もできやしない」 ……シャロンの最後の言葉には妙に毒があった。 何だか聞いてはいけないものを聞いた気分だ。 これがシャロンの本性なのかもしれない。だとすれば、彼女の言うとおり心配は要らないだろう。 「恭平兄さん……さようなら」 どうしてだろう。もう会えない気がした。 心残りはないわけではない。でも、もう一緒にはいられないと思った。 彼と一緒にいれば寂しさや苦しみはない……だが、そんな平穏が欲しいわけじゃない。 欲しかったのはもっと別の…… 「幸鷹、行くよ」 翡翠の長く艶やかな髪が背を向けることでさらりと背中を流れ落ちる。そのまま歩き出す彼のうしろ姿に幸鷹は目を奪われた。 そして夢中で追う。 手を伸ばせば届く距離なのに、どこか遠い彼の背中を。 ようやく捕まえてはすり抜けていく……遠くなっていく。 「幸鷹？」 『別当殿』 でも、気がつけばそばにいて…… 「……お前だったのか」 「何のことだい？」 夢の中で追っていたのは、彼だ。 記憶はない、なのに確信していた。 私がずっと追っていたのは彼だ。 不思議そうな顔をして笑う翡翠に、幸鷹は泣きたくなる。 「私はどうして忘れているんだ……」 「……行こう。君を待ってる人がいる」 ■■■ 病室に入ろうとするジョンは立ち止まって後ろを振り返ると、ついてきたボディガードに手を振る。ここで待て、という意味だった。 ドアを開けるとすぐにシャロンの姿が目に入る。 「ハイ、シャロン。今日も綺麗だね」 場違いに明るい声を出すと、シャロンも飛びっきりの笑顔を見せる。 「あら、ジャック。思ったより早かったわね」 「君に呼ばれれば、いつだって参上するよ」 ジョンは顔を寄せてシャロンの頬に軽く口付けをする。そして無視していた病室の真ん中で身を起こしたままうつむいている青年のそばに立った。 「やぁ、恭平ご機嫌斜めかな」 「……………」 「あいにくとボクも気が立っている。まさか人の婚約者にまで手を出すとはね」 顔だけは笑っていたが、冷ややかな目でジョンは恭平を見下ろす。 翡翠から電話で報告を受けたジョンはすぐに病院へ向かった。シャロンのことは心配いらないが、恭平に何らかの報復を与えないわけにはいかない。翡翠は恭平の処遇は任せると言った。つまりはこの男をどうするかはジョンの気分しだいだった。 「せっかく療養院から出たっていうのに同じ事を繰り返すとは、君も懲りないね」 「……貴様には分からないだろうな」 ようやく低い声ながらも恭平は口を開く。ジョンを見上げる目線は命乞いをするものではなく、ジョンをあざけ笑うもの。 狂った男の戯言に耳を貸すつもりはないが、これが最後の言葉なら言わせてやろう。 「ボクには分からない？」 「そうだ。そうやって人を食い物にすることしかできないお前には分からない。僕は幸鷹の全部が欲しかった。それ以外は何もいらないほどに欲しかった」 たしかにそれは自分には分からない感情だ。 そこまで誰かに心を寄せたこともない。婚約を申し込んだシャロンにしても、必要なのは彼女の家柄であって、彼女自身は何を捨てても欲しいというものではない。 シャロンもそれを知っているし、彼女もジョンの事をそんなに愛しているわけではなかった。お互い好意は持っているが、激しい愛情はない。 その点で、恭平は正しく自分を見ていることになる。 「全部が手に入らないのなら、壊してしまえばよかった…」 ジョンにはまったくもって理解できない。 自分の何もかもを捨ててまで何かに執着できるものなのか。 隣のシャロンを見ると、彼女は恭平に少し同情をしているようで、眉を寄せて悲しいものを見る目で恭平を見ていた。 「綺麗なまま、壊してしまえばよかった……」 「でも、できなかったんでしょう？」 そのシャロンの言葉に、恭平は乾いた笑みをこぼす。 恭平にはできなかった。 幸鷹を手に入れることも。 壊してしまうことも。 ……できないまま、生き続けるくらいなら終わりにしたかった。 「誰にも幸鷹を手に入れることなんてできないわよ」 「え……」 「あの翡翠でさえ、手を焼いているのよ？」 なるほど、とジョンは納得してしまった。それなら恭平にはどうにもならないだろう。 恭平も肩を揺らして笑った。 「そうだな……」 ひとしきり笑った後、穏やかな顔で恭平はその目をそっと伏せた。 ■■■ 病院の外に出ると冷たい風が吹いていた。その風に潮の匂いを感じて、翡翠は少し目を細める。病院の裏は浜辺になっていて、絶景が売りの臨海病院であることを思い出す。 「翡翠さん、幸鷹さん！」 外で待っていたのは赤い髪の少女。 幸鷹の姿を見てとびつかんばかりに走りよってくる。幸鷹のほうはやはり少女が何者なのか分からないようで戸惑った顔をしているが。 「あ、あの……？」 「私のことも本当に忘れちゃったんですね」 すまなそうな顔をする幸鷹に少女は元気いっぱいの顔で笑う。 「大丈夫ですよ。私が最初に幸鷹さんに会ったときも、やっぱり記憶がなかったんですから」 翡翠が伊予で幸鷹に出会ったときも同様だ。世間知らずなおぼっちゃまかと思ったが、どうやら記憶に曖昧な点があったらしい。この世界から来て、泰継の術により記憶を改竄されていたのだから仕方がない。 「私はそんなに記憶喪失になりやすいんでしょうか…」 まぁ、思えば不幸な男かもしれない。 二度も記憶をいじられるなんて、なかなかないことだろう。 「神子殿、私は少し歩いてくるよ」 「はい」 背中に幸鷹の不安そうな視線を感じながらも、翡翠は振り返ることなく病院の裏へと歩き出す。自分はいないほうがいいだろう。 潮の香りが近くなる。京ほどの寒さはないが、それでも海の近くであれば風もあってそれなりに冷える。白い砂浜、青い海……同じ海にはちがいないのに、ずいぶんと印象が違うものだ。 穏やかな波の音。 目を閉じれば浮かぶのは未だに伊予の深い緑の海。 懐かしく思ってはいるが、過去にはそんなに興味はない。 置いてきたものもたくさんあったが、この世界は退屈しなかったから帰りたいとも思わなかった。 それに彼がそばにいるから、そんなこと考える余裕もなかった。 思い出したら、彼はどうするだろうか。 自分が催眠術にかかっていた間の記憶は覚えていないのが普通なのだが、神子の力で取り戻すのなら記憶は消えないだろう。泰継の術のときも現に彼はすべての記憶を持ったままだった。 ……悲しむだろうか。 あまりそんな顔は見たくないのだが、きっと恭平の手に落ちた自分を責めるだろう。 花梨の前では気丈そうにしているだろうが、一人になったらきっと落ち込むだろう。 では、私にはどんな顔を見せるだろうか。 ……怒りそうな気がする。 「翡翠！」 背後からの声に長い髪を風になびかせて振り返ると、幸鷹が病院のほうから走ってくるところだった。砂に足を取られないように気をつけながら息を切らして向かってくる。 「神子殿はどうしたんだい？」 「勝真が後の便で追いかけてきたので、迎えに行くそうです」 「……それで、全部思い出した？」 「ええ。おかげさまで」 はあーっと大きく息をして幸鷹はようやく翡翠の目の前に立った。顔を見ると思ったほど落ち込んではいないようだった。にっこりと笑う顔は……微妙だったが。 「そう……」 「で、お前にまず話がある」 ……幸鷹の顔は限りなく微笑んでいるのだが、その口調でどれくらい感情的になっているかが分かる。 嫌な予感、と思った矢先だった。 パン！ 翡翠の頬がいい音を立てて鳴る。幸鷹の平手打ちが見事に当たったのだ。 よけることもできなくはなかったが、とりあえず手加減はしてくれているようだったので頬で受け止めてみたものの、それなりに痛みが走る。 「おやおや……」 「これは記憶のない私を置いていこうとした分だ」 やっぱり怒っているか。 あまりにも彼らしくて翡翠は笑みをこぼす。 こうしてぷりぷりと怒っている彼の顔を見て、戻ってきたんだなと安心したなんて本人にはとても言えないが。 「あのまま忘れていたほうが楽だと思ったんだがね」 恭平といて心穏やかに暮らせるならそれもいい、と思ったのは事実だ。 だが、幸鷹は大きな黒い瞳をさらに見開いた後、心底呆れた顔を見せる。 「たしかに楽かもしれない。だが、私はそんなもの欲しくはない」 幸鷹の気性ならそうだろうな。 困難があるとわかっていても、真正面からぶつかるのだろう。 正直で不器用な生き方だとは思っていたが、そんな彼を気に入っている自分も結構愚かかもしれない。それでも彼を見ていると退屈しないし、それもいいかと思っている。 ぐいっ！ 翡翠の肩から落ちた長い髪をむんずと幸鷹はつかむと、にやりと挑戦的な笑みを浮かべた。 「逃げてもどこまでだって追いかけて、お前を捕まえてやるからな」 ！！ 珍しく、翡翠が笑みを崩して幸鷹を凝視する。 「……………っはははは！！」 一瞬の後に、翡翠は思わず吹き出した。 まさか幸鷹にそんなことを言われるとは思わなかったのだ。 ならば、私も幸鷹にお返しをすることにしよう。 「ふふ。では、逃げないようにちゃんと捕まえておくんだよ」 そう言うと、翡翠は片腕を幸鷹の細い体に回して、肩に担ぎ上げる。 「翡翠っ！」 肩の上で暴れる幸鷹を苦もなく翡翠は押さえ込む。 逃がすつもりがないのは、翡翠のほうだった。 どんなに嫌がっても、放すつもりもない。 「帰ろうか、我が家へ」 「……まったくもう……」 |
長い…長いですね、ゴメンナサイ！！
短編のつもりだったのに、気がつけば
こんなことに……。ええ、今回は幸鷹
プロポーズ編ということで(笑)