SHAPES OF LOVE5
| どうして……？ どうして……置いていくんだ…… どうしてそばにいてくれないんだ…… 手の平からこぼれる砂のように、お前は捕まえたと思ってはすり抜けてゆく。 でも、気がつけば柔らかく包む風のように、自分のそばにいた……。 怒ってばかりで、何も伝えられなかったんだ。 伝えようと努力すれば、お前はさらりとかわす。 でも、それでも、伝えることをやめてはいけないんだ。 「……タカ、ユキタカ！」 耳元で自分の名を呼ぶ声に、幸鷹は薄く目を開く。瞼が重い、体が思うように動かない。 「良かった。うなされてたから心配したのよ｣ この女性は……そうシャロンとか名乗ったな。 どうやら私はいろいろと忘れていることがあるらしい。その中の一人がシャロンだった。 こんな薄情な自分、見捨てられても仕方がないというのに、彼女は毎日幸鷹の元へ来た。仕事も忙しいだろうに毎日。 翡翠という男と別れた次の日にシャロンから電話が入った。恭平はしばらく安静にしなくてはならないから、まだ戻せないとのことだった。 その一報に安心した反動か、私はその次の日に倒れてしまったのだった。 ここ３日ほど高熱を出し、身動きが取れなくなっている。大学には連絡をしてしばらく行けないと届けを出してもらって、こうして養生している。 「……すみません。シャロンも仕事があるのに」 少しだけ口を開いてくぐもった声で謝ると、シャロンはにっこりと笑って濡れたタオルを幸鷹の目じりに当てる。反射的に目を瞑るが、ひんやりとして気持ちがいい。 「病人はそんな心配しなくていいの」 頬にはどうやら涙の跡があったようで、シャロンはそれをぬぐってくれたらしい。 うなされながら泣いていたのか。 ……夢を見ていた気がする。 とても大切な夢……。 何かを追いかけてた……。 「……恭平にはまだ会えませんか？」 寂しくはない。 苦しくはない。 ……なのに、心にぽっかりと穴が開いてしまったようで。 恭平に会えば、きっとこの穴も埋まる。 「キョーヘイに会いたい？｣ 「はい…」 素直に返事をする幸鷹に、シャロンは複雑そうな笑みを浮かべる。 どうしてそんな顔をするのか、幸鷹には分からない。 「どうして会いたいの？｣ 「え……？」 「ユキタカ、あなたは誰かがいなくては立ち上がれないような人だった？」 誰かがいなくては立ち上がることもできないほど、弱い人間だったか？ 私は弱い…… 弱い……けれど、一人で立ち上がることもできないほど弱くはなかった。 「あなたが逃げたとは思ってない。でも、このまま思い出さないのなら、私があの人もらうわよ」 ……この瞳。 この情熱を、どこかで見た気がする。 欲しいものを欲しいと言い、決して妥協のない意思。 この強さをどこかで見て、そして憧れた。 「シャロン……」 「まずは熱を下げなさい。それからキョーヘイのところに連れて行くわ」 ……それでこの穴は塞がるのか。 彼女の瞳を見て、今までは疑問に思いもしなかったことを考えるようになった。 恭平に会うことでこの心の穴は塞がるのか？ 心の安息は得られるかも知れない。恭平さえそばにいてくれれば、苦しくもない、寂しくもない。だが、そんなふうにこれからももたれかかって生きていくのか？ 失ったという記憶……。 記憶自体は問題ではないのかもしれない。 この心の穴は……記憶と共に失われた感情…。 彼女の見せる情熱のような感情が、自分にもあったのではないか？ 愛情かは分からない。 憎悪かもしれない。 それだけの強い想いが自分の中にはあった……。 …………どこに？ ■■■ 場所は空港の国際線ロビー。そこで翡翠は客を出迎えることになった。 やはり、説明もなしに言うのは無理だったか。 いきなり幸鷹に二度と会わないように言っても、聞き入れるような少女ではない。それどころか無理矢理飛行機のチケットを取ってロスまで飛んでくるとは、相変わらず行動力旺盛な少女だ。 「翡翠さん！」 「やぁ、神子殿」 久しぶりに会った少女は少し大人びた顔になってきていたが、瞳だけは昔のままだった。それが懐かしくて、嬉しかった。 こうして時間が経っても変わらずに残っていくものがあるのが嬉しかった。 「神子殿じゃないですよ。一体何があったんですか！｣ 「勝真は一緒じゃないのかい？｣ 「勝真さんはテストで都合がつかなかったんです｣ 一緒に現代へ来ることを選んだ勝真は、片時も花梨のそばを離れようとしないのだが、今日は珍しく一人のようだ。こちらの世界へ来てからもう３年…そろそろこちらの世界になじみつつあるということか。 「それより、幸鷹さんに何があったんですか。この間は風邪だって言ってましたけど、そうじゃないんでしょう？ どうして二度と会うな、なんて言うんですか？｣ 言いたくなかった。 彼女の笑みを傷つけるのは嫌だったから。 それでも、このままでは彼女は引き下がらないだろう。 「……幸鷹は私たちのことを覚えてないんだよ｣ その言葉に花梨は表情を凍りつかせる。 「どういう……ことですか…」 「言葉どおりの意味だよ。幸鷹は京でのことは一切覚えていない。君のことも、私のことも忘れてしまった｣ どさり。 花梨のハンドバッグがロビーの床に落ちる。 黙って翡翠はそれを拾うと、彼女に差し出す。しかし花梨は呆然と翡翠の顔を見たまま動こうとはしなかった。 いきなりそんなことを言われても納得は出来ないだろう。 「……どうしてそんなことになったんですか？ 何か事故でもあったんですか！？｣ 「幸鷹は無事だよ。ただ記憶がない、それだけのことだ」 「それだけって、全然よくないじゃないですか！ 翡翠さんは平気なんですか！？｣ 「私たちのことを忘れて彼が幸せなら、それでいいじゃないか」 花梨は首を横に振る。 何を言っているか理解したくないといったふうに。 翡翠の服をつかんで、何かを訴えるような目で花梨は見つめる。 ……だから、言いたくなかったのだ。 「そんなの幸せじゃない！ 私はそんなの嫌です！！」 「神子殿」 「嫌です！ 幸鷹さんは…私の知ってる幸鷹さんはこのまま幸せになることなんてできない人です。誰かのことを忘れて、誰かの気持ちを踏みにじって、それで幸せになれる人じゃない」 ……彼女はこうしていつも正論を吐くのだ。 京にいた頃も、その大きな瞳で真実を見て、奇麗事と反吐が出そうな言葉を言っていた。 事実、彼女はそれで京を救った。 優しいから、傷つくことも多いだろう。 それでも変わらずにいる彼女。 それで、いつだってバラバラな私たちの心を導くのだ。 龍神の力ではなく、彼女自身の力。 彼女だったら、幸鷹の記憶を取り戻せるだろう。 「幸鷹さんに会います」 何を言っても無駄だろう。 そんなことで自分の意志を曲げる少女ではない。 それでも翡翠は言わずにいられなかった。 「記憶を取り戻せば、幸鷹はまた苦しむことになる」 少女はようやく笑顔を見せる。翡翠の話は笑うような内容ではないのに、彼女は明るく笑顔を見せる。 「苦しんだっていいじゃないですか。それで後悔しないのならそれでいいじゃないですか」 ああ……そうして君は私の心を解放してしまうのか。 「帰りましょう。きっと幸鷹さんも待ってます｣ ……そうかもしれないな。 苦しみながらも、私のそばを離れようとはしなかった。 そばから離れようとしても、結局戻ってきてしまった。 「行きましょう、翡翠さん」 来た道を戻る二人を見つめる二つの目。 冷たいアイスブルーの瞳が柔らかく細められた。 自分の出番はなかったな、とジョンは携帯電話をコートのポケットから取り出すと耳に当てる。 ■■■ 「ここだわ」 私立の病院の最上階の個室にシャロンと幸鷹は立っていた。 部屋の前にはガードマンが二人立っている。中には恭平しかいないはずなのだが、万が一にも逃がさないようにとジョンから派遣されたらしい。 ドアをノックすると返事を待たずにシャロンは中へと入っていく。 「ハイ」 この中に恭平がいる。 ようやく会える……なのに今になって少しためらいがあった。 恭平に会って、これできっとすべてが埋まる…… だが本当にこれでいいのだろうか。 このまま恭平と安穏とした日々を送って、それでいいのだろうか。 「ユキタカ？」 「はい……」 それでも、恭平に会えば何か分かる気がする。 自分が何を失ったのか。 自分はどうするべきなのか。 少なくとも、恭平に寄り添ってただ今の状況に甘んじるような生き方はしない。そんな依存した生き方は自分にはできない。 幸鷹は眼鏡の奥の瞳を前に向ける。 「恭平兄さん」 部屋の中は南向きの窓から太陽の光が差し込んでいる。壁はクリーム色なのだが、日光を反射して少しまぶしく感じた。 そんな部屋の真ん中に、大きなベッド。脇にはシャロンが立っている。 「幸鷹｣ ベッドの中の人物が明るい声を上げる。 ………恭兄さん… ベッドの上で身を起こして幸鷹を笑顔で見つめてくるのは、間違いなく恭平だった。手に包帯を巻いているのが痛々しいが、顔色はずいぶんとよさそうだ。 「会いたかったよ、幸鷹｣ 自分もだと、言いたかったが幸鷹はその言葉を飲み込んだ。 たしかに恭平の姿を見てほっとした自分がいる。 だが、それ以上のものはない。 何の不安もなくなったのに…… 何か足りない。 自分を動かす何かが足りない。 恭平とこれまで生きてきたというのなら、シャロンの持つような情熱は自分のどこにある？ たしかに自分にはあったはずなのに、見つからない。 「恭兄さん……」 恭平に会って、たしかに苦しくも寂しくもなくなった。 ……でも私は知ってしまった。 自分の中に激しい感情があったことを。 「もっと近くに来てくれ、僕は足を痛めていて動けないんだ｣ 布団の中にあって分からなかったが、恭平は手のほかに足も怪我しているらしい。言われるままに恭平の近くへと向かって歩き出す。 シャロンは何も言わずにただ幸鷹を見ているだけだった。 そして手の届く位置まで来た幸鷹の手を、恭平はそっと怪我をしていない右手で取る。 「！！」 幸鷹はいきなりつかまれた手を振り払う。 突然の行動に驚いたのは幸鷹自身だった。 「幸鷹？｣ 「あ……私は……」 どうして恭平に触れられた瞬間、寒気がしたのか。 どうして反射的に振り払ってしまったのか。 「あはははは！」 呆然とする幸鷹に、いきなり隣にいたシャロンが腹を抱えて笑い出した。我慢しきれないといったふうに、体を折り曲げて笑い続けている。 「シャロン……？」 戸惑いを隠せない幸鷹に、シャロンはその肩をばしばしと叩く。 「ははっ！ 何よ、本能的に覚えてるんじゃない｣ 「覚えてる？｣ 何を？ 首をかしげる幸鷹だったが、恭平は忌々しそうな顔でシャロンを見ていた。 まだ笑い続け、涙目になっているシャロンは指で涙をすくうようにして幸鷹に微笑む。 「心配して損したわ｣ 「シャロン、どういうことですか？ 私にはさっぱりわからないのですが」 どうして体は恭平に触れることを拒むのか。 どうしてそれをシャロンは笑ったのか。 「くそ……っ！」 その声に殺気を感じて振り向くと、恭平がシャロンの腕をつかんで引き倒していた。 「きゃあ！」 シャロンはうつぶせのままベッドに倒れこんで、ベッドのスプリングが弾む。 「幸鷹、動くな｣ 動けなかった。 倒れているシャロンの首筋にボールペンの先が触れている。 そのまま力任せに押し込めばシャロンの首にそれを刺すことなど、大の男である恭平にはたやすいだろう。 「……恭兄さん……」 どうしてこんなことを…… 一体どうしてこんなことに…… 何も分からなかった。 あの優しい恭平兄さんがこんなふうに人を傷つけようとするなんて。 「幸鷹、僕の言うこと聞くよね？｣ 「恭兄さん……やめてください。彼女を解放してください」 「うるさい！」 「つっ！」 シャロンの長い金の髪を右手で力任せにつかんだ。 なんでこんなことをするんだ…… 恭兄さんはどうしてしまったんだ…… 自分の記憶にある恭平と食い違っている。 でも、目の前のこれが現実だとしたら…… 記憶が間違っていたとしたら…… シャロンも言っていたではないか、自分は忘れていると。 「どうしてだ！ 僕は幸鷹が欲しかっただけだ！！ どいつもこいつも邪魔しやがって！！ こけにしやがって！！」 バン、と音を立てて入口の扉が開いた。 ガードマンではない。この部屋は防音が完全になされていて中の騒ぎは聞こえないはず。 「まったく、こりない男だな｣ |