夢幻花影6
閉じた瞼からも朝の柔らかな光は差し込み、まぶしさに手の甲で目の上を軽く抑える。
そうしたままじっとしていると、外から鳥のさえずる声が聴こえて、朝を告げる。
起きなければと思い、鷹通はゆっくりと上体を起こす。ゆっくりと目を開けば、そこは鷹通の知らない部屋であった。
まだだるさの残る頭で記憶をたどる。
「あ……」
そうだ。ここは友雅の邸。
泣き疲れて眠ってしまったのだった。
思い出すとき恥ずかしくなり、頬を染める。
泣いたのは久しぶりだ。養母が死んだときは悲しみのあまり泣くことも出来なかった。
実母に置いていかれたときも涙は出なかった。何の価値もない自分は捨てられて当たり前だと思ったから。考えてみれば、前に泣いたのはその後養母に優しくされたときだった。
何故、忘れていたのだろう。
悲しみに流されて、すべてを失った気になって、身を汚して……
私は何をしていたのだろう。目の覚めた鷹通は、邸の主の姿を探すが部屋の中には鷹通一人しかいなかった。
角盥が部屋の外に用意されていたのでとりあえず洗顔をして身支度を整える。この部屋は離れにあるらしく、母屋のほうからは炊事の湯気が立ち込めていた。遠目にそれを見つつも、呼ばれもしない客人が勝手に動くのもためらわれたので、庭でも眺めながら人を待つことにした。
朝露をのせた緑の葉が、重さで揺れ露が零れ落ちる。
鳥たちはさえずりながら木にとまったり、花をついばむ。
静かな朝……。泣いて何もかもすっきりした鷹通はいつになく落ち着いていた。
憑き物が落ちたかのように心は穏やかで、今の自分を目をそらすことなく見つめることが出来た。
逃げるように、あの人に殺されることを望んでいた自分はもういない。
あの人と、ようやく正面から向き合える。
「………友雅殿…」
「おはよう鷹通、と…驚かせてしまったかな」
何気なく口に出した名前に、突然背後から返事が返ってきたものだから、鷹通は驚きのあまりに大きな瞳を見開く。
相変わらず気配を感じさせずに忍び寄ってきた友雅は鷹通の様子を見て楽しそうに目を細めた。
「はい、驚きました。おはようございます友雅殿」
「なんだか妙にすっきりした顔をしているね。気分はいいようだ」
「……昨夜は取り乱してしまい、すみませんでした」
「かまわないよ。それより、怪我の具合はどうだい？」
「大丈夫です。かすり傷程度ですから」
友雅は鷹通の細いあごに手をそえ頭を上げさせる。傷のほうは化膿することもなく、この調子でいけば３日ほどで治るだろう。
「………なんであんな真似をしたんだい？」
表情には出ていなかったが、声音はいつもより低く静かな怒りを感じさせた。
「あなたの枷にはなりたくなかったんです」
まっすぐに友雅の目を見て答える鷹通。その視線に友雅のほうが耐え切れずに目をそらす。
「……君にはすべて知られてしまったね」
「ええ。彼らが何者なのか、何のつながりがあるのか、貴方の目的も知りました。……そして、貴方に役目を言い渡した人物もうっすらと……」
「そうか……」言ったきり友雅は黙り込む。
鷹通もかける言葉が見つからず、同じように沈黙する。
春の終わりのあたたかな風が、葉のさざめく音や、鳥の声をのせて吹く。鷹通は瞳を閉じて、この場の心地よさに浸っていた。
友雅の存在を感じながら、こんなふうに時を過ごすだけで穏やかな気持ちになっていた。
……この感覚だけは忘れたくなかった。「鷹通」
「はい、友雅殿」
「……君は死にたいか？」
どれくらい二人で過ごしただろうか。
友雅に名を呼ばれて、鷹通はゆっくりと目を開いていく。
「……昨日まではそう思っていました。貴方に殺されるのならいいと」
本気でそう思っていたのだ。
その覚悟もあった。
今は…もうおぼろげにしか覚えていないけれど。
「私はただ汚れていった自分を嫌うことしか出来ませんでした。だから、あの桜の中で貴方の姿を見たとき幻想に囚われてしまったのですね。貴方なら私の赤を白く染めてくれるのではないかと」私の汚れを消してくれるのではないかと。
それが死であってもかまわないほどに惹かれていた。
白の中の白の、この人なら私の赤をも……と。白い花の散る中。
この人の腕の中。頭に浮かぶ幻想を振り払うように、鷹通は首を横に振る。
もう迷わないと決めたから。「私は生きたいです」
そう友雅をまっすぐ捉えて言い放つ鷹通の姿は、凛として潔くてとても綺麗だった。
生きたい、それを言うだけの強さ。
友雅の思ったとおり、少年は闇に染まる者ではなかった。
この陽の下を前を向いて歩くのが彼の道だ。「……君が望むのなら、この手で殺す覚悟はあった。だが、君はそれを選ばなかったんだ」
泣きそうな、淋しげな友雅の笑顔。
そのとき、初めて鷹通は彼の素顔を見た気がした。
「友雅殿……」
触れたいと思った。
理屈ではなく体中がそういう衝動に突き動かされる。
「…鷹通……？」
友雅の胸に鷹通は抱きついた。
突然の行動に友雅はやや驚いたものの突き放そうとはしない。
「……私を殺さなければならないのでしたら、殺してください。貴方が望むのでしたら私は…っ」
友雅のつらそうな笑顔を見るのは自分もつらかった。
自分が原因なのもつらかった。
「鷹通…すまない」
そう言うと友雅の両手が鷹通の顔を包みこみ、その端正な顔が寄せられて一気に視界が暗くなった。
「……っ！ ん……」
鷹通が息をつぐ暇もなく、友雅は鷹通の唇をふさぐ。
何度も、何度も角度を変えながら。
「…鷹通……鷹通……」
幾度となく名を呼びながら。
だんだんと気分が高揚していき、瞳を閉じて、受け入れながら夢見ごこちで鷹通は自分の名を呼ぶその優しい声を聞いていた。「………私には君を殺すことは出来ない……もう出来なくなってしまったんだ……。だから、お別れだ」
友雅殿……？
朦朧とする意識の中で、鷹通は身動きどころか目を開くことも出来ない。友雅殿…
友雅…殿……
ともま…さ…………「……また、あの場所で君を待っているよ……」
目が覚めたとき、鷹通は一人だった。
長い夢を見ていた気がする。
長くて、儚くて、せつなくて……。
でも肝心の内容は何も思い出せない。
誰かを、誰かの名前を呼んでいた。
自分も誰かに呼ばれていた。誰……？
握り締めていた手を開くと、白い花弁が一枚。
桜の花弁が。