夢幻花影１
『……夢か、幻か。花の影に貴方の姿があった』
視界いっぱいに広がる白。
月明かりの下、満開に咲いた桜の木の下にいたのは少年。
ひらひら、白い花弁が舞い落ちる。
白。
そこにはただ白だけがあった。
自分以外すべてが白い。自分は赤。
白く薄い胸が覗く小袖に、薄い青の単を羽織るようにしている。
着ているものは確かに白くても、私は赤。
もう、汚れに染まっている。「…………貴様は！」
静寂を破ったのは切羽詰ったような男の声。
少年は見た。白い花弁の闇の向こう、
ひとりの青年のたたずむ姿。
どこかでどさりという何かが倒れるような音がしたが、少年の耳には届かない。桜の花弁の舞い降りる、白い闇の中、少年は目を奪われる。
花弁と同じ、白の衣をまとった青年は、ゆっくりと顔を上げていく。そこだけ時間が止まった気がした。
白の中の白。
青年のかぶっている衣が顔を上げるとともに肩に落ちていく。サァッ……。
吹き抜ける風が青年の頬を掠め、衣がひらりと花弁と舞う。
差し伸べた手のしなやかな指がそのはためく衣の端をつかむ。サァッ……。
また風が吹きぬけ、青年の長く緩やかに弧を描く深緑の髪が流れた。
「あ……」
あらわになった青年の横顔に、少年は思わず声を漏らす。
慌てて手で口を塞ぐが遅かった。
青年は横目で少年の姿を捉えると、その端正な顔の長い睫毛にふちどられた瞳を細め、口の端は上向きにゆがむ。
「……こんな遅くに夜桜を愛でているのかい？」
こぼれた言葉は青年のもの。低く甘い声は楽しげに、軽やかに風に乗り少年の耳に響く。
「…あ……」
驚きと緊張のあまり、少年は身を固くし、うまく思考が働かない。
青年の顔を大きな瞳を更に大きく開いて動けずにいる少年のほうへ、青年はゆっくりと歩み寄っていく。
それでも動けずにいた少年の細いあごを青年の手が捉え、上向きに顔を上げさせられた。
「見られてしまったかな」
「え……？」
青年はあくまで口調も表情も乱さない。ただ目の前で身を縮めて自分を見ている少年を見返していた。胸の丈ほどしかない細い少年の、はだけた小袖の白く薄い胸に赤く散る痕を見て取る。
気付かれない程度に目を細める。
どこぞの邸の小姓にしては品もあれば、目には理知的な光がある。
「君は、貴族かな？」
「……あ、はい…」
少年には、何故そんなことを訊かれたのか分からなかった。しかし今の自分の姿を思い出すと、一気に両手で前の着物をかき合わせ青年から身を引きうつむく。
「……では、このまま返すわけにはいかなくなってしまったな」
そんな少年にはお構いなしに青年は独り言のようにしゃべる。
何かされるのだろうかと、小袖の襟を合わせていた両手を更に強く握り締めた。
「見てしまったのだろう？ あれを」「………っ!?」
青年の素顔を見たときとは別の衝撃が、少年の体に走る。白い花弁の落ちた地面は一面の白。
その中にあった。
先刻青年が立っていた位置のところに、人の姿をしたものが倒れていた。
それからは白い花弁を染めるように赤がひろがって。
「あ……」
もともと色素の薄い顔が、更に白くなる。
「おや？ どうやら気付いてなかったようだね」
「あ、あの方は……」
「もう人ではないよ」
何でもないように言い切る青年が、得体の知れないもののように感じられて、少年はじりじりと無意識にあとずさる。
未知のものへの恐怖が少年の体を支配していた。
目の前の青年がこれをやったのだろう、そう結論付けるしかない状況だった。
ならば何故こんなにも平然のしていられるのだろうか。
こんな状況に慣れているのだろうか。
だとすれば自分は……「……怖い?」
！
いつの間にか距離をとったはずの青年の姿が視界から消えたと思ったら、思いがけず背後から声をかけられる。
驚きのあまり声も出ない少年は、指でつつくだけで崩れそうなほど全身から力が抜けていた。
青年はそのまま両腕を少年の細い体に回し、後ろから抱きかかえる形になる。
「ふふ……」
密着した体から、青年の鼓動と熱が伝わってくる。
恐怖と緊張のせいか、それとも青年のせいか、いつもの嫌悪感はない。
触れられるだけで自分が腐り落ちていくような、あの感覚が。
それに気付くと、ふと青年が自分に危害を加える気がないように感じられる。
「どうしようか？」
「………殺されるのですか、私は」
かすれながらも小さな声で囚われた少年は問い返す。
「君の細い首なら片手でも折れてしまいそうだ。でも、まだ咲く前の花を手折るのはもったいない気がするね」
囁くように声を抑えて話す青年は、目の前にある少年の頭に乗っている花弁を一枚ずつ手に取る。艶やかなまっすぐに綺麗に伸びた髪にもからむ花弁もそっと丁寧に一枚、また一枚と除いていく。
綺麗な濃緑の髪に、白い花弁はとても映えていたので惜しい気もしたが、彼の髪に触れていたかった。花弁をつまんだ指からさらさらと少年の髪が流れる。
その途端、さっきも気になった胸元にあった赤い鬱血の痕がうなじにも見えた。白く細い首筋に痕がいくつも。
花弁を取り除いていたひとさし指が、そっと鬱血の痕をなぞる。「っ！」
腕の中でビクンと身をすくませた少年に、青年の目が細められる。
「……貴方もですか？」
この青年もやはり同類なのか。あのケダモノたちと。
そんな臭いも気配も感じさせない触れ方をしてはいるが同じなのか。
静かな少年の言葉には、激しい嫌悪と拒絶があった。
そして、最後にはあきらめも。「……見て」
恐怖も緊張もなく、目の輝きも失い表情を無くした少年を腕に抱えたまま、青年は左手を握ったまま少年の顔の前へ差し出す。ふわ。
開かれた青年の手から白い花弁が一枚、風に乗り目の前を舞っていく。
少年の瞳はその花弁を追っていた。ひらひらと。
風に乗り、落ちてはまた舞い上がり、花弁が身を踊らせる。
闇の中に、一つだけの白。月の明かりもなく、ただ暗闇の中にひとひらの白。
いつの間にか少年は一人になっていた。
背後の青年も消えていた。
周りの木々も、花弁も消えていた。あるのは白い花弁一枚。
それはまだ宙を舞っていた。
吹き抜ける風に、青年の声が聴こえた気がした。「今夜のことは忘れなさい」
待って!
無我夢中で白い花弁へと手を伸ばした。触れた、と思ったが手からは何の感触もない。
つかんだと思った手には何もなかった。
…何もなかった……。
■
「…ち。おい鷹通！」
誰、私を呼ぶのは。
「起きろ！ まだ終わりじゃないぜ」
周囲には少年より年上の男が２人。息は荒く、目は異常に血走っている。
少年は目を開けようとはしなかった。
意識はあったが目を開くのが嫌だった。
「もっと足開けよ」
少年の肌に無骨な手が触れてくる。……また、悪夢の続きか。