■音叉…一■
| その日、治部省の奥にある戸籍の棚に囲まれていた鷹通は、調べ物をしながらも心ここにあらずといった様子で眉をひそめた。 もう陽も落ち、治部省にはあまり人は残っていない。 特にここまで奥にいる人間は鷹通と、入り口に腰を下ろして楽しそうに鷹通の姿を見ている男だけであった。 その男のせいで鷹通はどこか落ち着かない。 ……私などのどこが面白いのか…… どちらかといえば、周りの者の評判、自分の評価ともに堅物でつまらない男だろう。 なのに自分と正反対のこの男は鷹通のことを気に入った様子で、暇さえあればこうしてただ見に来ていた。 同じ内裏の公達とはいえ、本来なら交わることのない人種だ。 権力者の家の出ではないといえ、帝の信頼も厚い左近衛府少将という武官。 さらには女性関係も派手で、彼のことを知らない姫や女房などはいないだろう。 そんな彼との出会いは帝から八葉の命を承ったときのことだった。その時に紹介された自分と同じ白虎の加護を受ける者…… 知り合った当時もこうして近くにいるだけで不安定になったな、と鷹通は懐かしそうに目を細める。 彼はどんなことにも真剣にならずに、それでいて真面目な鷹通を面白そうに見ていた。それが真剣な鷹通の気に障って仕方がなかったのだ。 ……彼のことを知って、もう彼の笑みに惑わされない自信はあったのに。 「ねぇ、鷹通」 「……なんでしょう」 振り返ることはしない。鷹通は手に持った本を開いてそれに目を落とす振りをしながら、何気なく返事をしつつも男に対して神経を張り詰めていた。 動揺を見せてはいけない。 彼に悟られてはいけない。 「訊きたいことがあるのだけれどね」 ……きた！！ この言葉を彼がいつ言うのかと、鷹通はここ数日待ち続けていた。だが、それに対しての答え自体はまだ用意されていなかった。 だから彼に会いたくなかった。 「……この間の私の言葉、覚えているのかと思ってね」 覚えているも何も、忘れようがないではないか！ そう……先日とある一件の最後に彼の言った言葉。 その時はすべてが解決した安心感で聞き流してしまったのだが、思い返してみればあれは間違いなく…… 「君の返事が聞かせてくれないか」 「……何の話でしょう？」 今の私にはそう逃げるのが精一杯だった。 何も知らない振りをして、もう少し考える時間がほしかった。 『私は君のことが好きなのだよ』 初めて聞いた彼の本心、それがまさか……告白だとは。 「やっぱり覚えてないのか……」 少し機嫌を損ねたのか、彼の声はどことなくぼんやりとしていた。 彼がいったいどんな顔をしているのか見てみたいと思ったが、今振り返っては嘘がばれてしまう。今の自分の顔はおそらくこの上なく赤くなっているだろうから。 このまま彼がおとなしく引き下がってくれることを鷹通は祈っていたのだが、彼が自分の思い通りの行動をしたことなど一度もないのだ。 そして今も…… 「鷹通が私のことをどう思っているのか知りたいのだよ」 ……それに答えられるくらいなら、嘘などついたりしない。 友雅のことは……嫌いではない。一応八葉として共に行動をするようになってから、彼が思ったよりも実直であることはわかっている。存外仕事や役目をそつなくこなすのだ。 だけど、彼の問いはそんなことが訊きたいのではないのだろう。 私が彼に恋心を抱いているかどうか…… それは…… 鷹通は手の中の本をぎゅっと握り、唇を軽くかむ。 「…どうと言われましても、頼りになる方だと思っています」 まだ言えない。 こうしてはぐらかすことしか今の自分にはできない。 ……本当はわかっていたけれど。 彼との口付けも、彼との交わりも、合意の上でのものではなかったが鷹通は拒まなかった。 ……それでも信じられなかったのだ。 彼が自分のことを想っていると。 その想いが今までの彼の女性との関係のように、ただ一時のものではないかと。先日の一件で彼が自分のことを思いの他大事に思っていてくれていることはわかったのだが、それが仲間意識を超えるものなのかどうかはわからない。 自分が面白みのない人間であることを知っている以上、今の彼の気持ちがどうあれ、すぐに彼は自分に飽きてしまうだろう。不用意に彼に近づけばただ自分が傷つくだけだ。それに自分が耐えられないことを知っている。 また捨てられるのは、置いていかれるのは…嫌だった。 「……鷹通」 ！！ いつの間にか入り口に座っていた彼は鷹通のすぐ背後に回っていた。 耳元で甘く囁くような自分の名を呼ぶ声に鷹通は驚き、手に持っていた本をバサリと取り落としてしまう。硬直した鷹通に対して、男は彼の落とした本を拾い顔をあげる。 「……あ、あの…」 やっぱり彼の顔を真正面から見ることができず、鷹通は赤くなった顔をそむけて身をこわばらせた。 顔を見られた時点で聡い彼のことだ、鷹通のついた嘘なんかとうにお見通しだろう。 だからといって謝ることもできず、早くこの気まずい雰囲気から逃れたいと切に思った。 「……っ！」 呼吸が止まる。 後頭部を抱えられ口を塞がれた。それが何を意味しているのかは明白だった。 彼に口付けをされているのだ。 いつもこうなのだ。 強引に奪い去ってしまう。 唇も、身体も、心も…… 「私の気持ちなんて知っていて、ひどいことを言うのだね」 あ……！ 離れた顔にはいつもの悠然とした笑みではなく、どこか皮肉げな、それでいて瞳はどこか寂しそうな笑みを浮かべていた。 それを見てようやく鷹通はひどく彼を傷つけてしまったことに気づいた。 「…わ、私は……」 そんなつもりはなかった。 彼を傷つけるつもりはなかった。 そんな風に自分に言いわけをするのがひどく滑稽だった。 知らず知らずのうちに彼から離れるようにして、じりじりと後ろへとさがっていく。 そんな眼で見ないで……！！ 責めるような瞳ならまだ我慢できたのに、彼はどうしようもなく傷ついた瞳をして鷹通を見ていた。自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに、今更ながら後悔をする。 ドン… 後退していた鷹通の背に、戸籍やらの書物がたくさん置かれている棚があたる。 「鷹通！」 え…？ 珍しく焦った彼の呼び声に、鷹通は伏せていた瞼を開ける。 次の瞬間からだが温かいものに包まれて、視界が暗くなった。 「友雅殿……！！」 ■■■ まだ彼は目を覚まさなかった。 あの時倒れてくる棚から鷹通をかばった友雅は頭を少しぶつけたらしく、意識を失っていた。彼が運び込まれた先は左大臣邸で、藤姫も神子も、八葉の面々がそろって友雅の見舞いに来ていた。 医師の話ではただ頭を打った衝撃で脳震盪を起こしているだけなので、程なくして気がつくはずとのことだったが、一向に友雅が目を覚ます気配はなかった。 とは言っても時間的には一刻ほどしか経ってはいない。ただ心配をしている鷹通の気が急いているだけだ。 早く……早く目を覚ましてくれないだろうか。 私のせいでこんなことに…… 私が彼から逃げたから…… 彼の心を傷つけて、さらにはこんなことになるなんて。 私は何を疑っていたのだろう。 彼の気持ちがどう変わっていこうと、私の気持ちは決まっていたのに。 ……目が覚めたら、彼に伝えよう。 「大丈夫ですって、鷹通さん。お医者様もすぐ気がつくだろうって言ってたし」 よほど思いつめた顔をしていたのだろう。鷹通を励ますようにあかねが笑顔を見せる。彼女の笑顔はいつも力を与えてくれた。 そう、大丈夫…… 「……ここは…？」 「友雅さん！」 長い睫毛に縁取られた目を開くと友雅が見慣れぬ天井に当然の声を上げる。 目を覚ました友雅にあかねが声をかける。部屋の中にいた他の八葉たちもほっと胸をなでおろしながら、口々によかったと言って喜んでいた。 そして鷹通も安堵のあまり体から力が抜けて、ただそんなみんなの姿を見ていることしかできなかった。 「心配をかけてすまなかったね」 「いえ。頭のほうはもう痛まないですか？」 「大丈夫だよ、神子殿。不甲斐ない姿を見せてしまったかな」 よかった…… 本当によかった…… 「鷹通さんも心配してたんですよ。ね？」 突然にあかねから話を振られて、鷹通は驚く。少し落ち着こうと大きく息を吸い込んで、鷹通は笑顔を浮かべることに成功した。 「はい。私のせいで怪我を負わせてしまい、すみませんでした」 しかし、その言葉に対する友雅の反応は心配していたようなものではなかった。先程までのような瞳をされたらと思うと少し心配をしていたのだが、友雅の瞳はあかねに向けられたものと差はなかった。 「私は君のせいで怪我をしたのかい？」 「友雅さん、覚えてないんですか？」 え……？ まさか頭を打ったときの衝撃で……？ 友雅は少し考え込むようにして顎に手を添える。だがしばらくして首を横に振っていつもの笑顔を見せた。 「すまないが、覚えていないようだ。何かあったのかな？」 そう訊かれても鷹通には答えることはできない。 「うーん。事件のときのショックで、その時のことだけ忘れちゃったのかなぁ」 「あ、僕も聞いたことがあるよ。でもそれって心にダメージがあった時、自己防衛のために記憶を改竄するんだって…」 あかねと詩紋が彼女たちの世界の言葉を使って話しているが、なんとなく雰囲気でその言葉の意味を理解してしまう。 それだけ自分は彼を傷つけてしまったのか… 「ただの痴呆じゃねーのか？ それとも鷹通、友雅と何かあったのか？」 天真のからかうような言葉にも、鷹通はぎこちなく笑うことしかできなかった。 忘れたいと願うほどに、傷つけてしまったのか。 私が自分の保身ばかり考えたために… でも、だからこそ今度はちゃんと伝えなければならない。 鷹通は両手にぎゅっと拳を作って、きちんと友雅の顔を見つめる。覚悟はきちんとできた。あとは二人になった時にでも…… そう思っていた矢先、逆に鷹通の顔を見ていた友雅が少し首をかしげて笑みを見せる。 「君は鷹通というのかい？」 「は…？」 部屋の中にいる全員が一斉に友雅をぎょっとした眼で見る。 その注目されている友雅は、そんな視線にはお構いなしにいつものように余裕の笑みを浮かべていた。 「友雅さん……まさか鷹通さんのことも覚えてないんですか？」 「うーん。見覚えがないんだけれど、やはり私は何か忘れているのかな」 見覚えがない…… 私のことを忘れた…… それは…… 頭を殴られたかのようなショックを受けたのは鷹通のほうだった。目の前が真っ暗になって、ただ呆然とすることしかできなかった。 |