だから彼女はここまで歩いてきた。
　決して楽な道だったとは思えない。それでも真っ直ぐに歩いてきた。

「私の周りの男はみんな自分勝手だな。一人で決めて、私を置いていく…」
　それは独り言だった。
　クリスのその身体を両腕で包み込んでいる男に向けられたものではない。この男はハルモニアの特殊工作員。最初から去っていくのがわかっている分、下手な期待をしなくてすむ。
　割り切ってしまえば、こんな関係もそう悪いものではない。
　どこか乾いてしまった自分の心を、クリスは自覚していた。

　英雄であるということは、独りであるということと同じ。
　もう淋しいと思う感情すら麻痺してしまったのかもしれないな。

「……ナッシュ？　寝たのか？」
　黙りこんだままのナッシュを不審に思い、男の厚い胸から顔を上げてみれば、寝てはいなかったがなんだかふてくされた顔をしている。
「ナッシュ？」
「面白い話じゃないな……」
「それは当たり前だろう。人の過去なんてそう面白い話ばかり転がっていないわ。お前も話したがらないからにはそれなりに理由があるんだろう？」
　それにはナッシュも顔を半分ゆがめて皮肉な笑みを浮かべて、肩を軽くすくめるだけで何も答えない。この男の秘密主義は今に始まったことではないので、クリスも別に答えを期待していたわけではなかった。
「そういう意味じゃないさ。他の男の話をされるのは気持ちよくないってこと！」
　………。
　嫉妬？
　それに思い至ると、クリスはぷっと吹き出して肩を揺らして笑い出す。
「お前が聞きたがったんだろう」
「でもなぁ、思った以上に不愉快だったんだよ」
「それは告白のつもりか？」
「ん〜？　告白ならもう何度もしてるんだけどなぁ」
「本気じゃないくせに」
「俺はいつだって本気ですよ。誰も信じてくれませんけど」
　当然だろう。
　この軽い口調に、言動。
　さらに妻帯者と公表しておきながら、自分を口説く始末。
　どこをどう信用しろというのだろうか。
「全然信用してないって顔だな」
「まあな」
　わざとらしく傷ついた顔をして見せて、ナッシュはがっくりと肩を落とす。だがすぐに真面目な顔に戻って、クリスの顔を覗き込む。

　……こういう表情をするときは、いつも自分に何か伝えるときだ。
　自分より長い時を生きてきた男は、まだまだクリスの知らない世界を知っている。
　
「置いていかれることに慣れるなよ。あんたが思っているほど、あんたは強くもないし、独りじゃないから」

　………だったら……
　さっきまで過去に思いをはせていたせいで、どうも自分がもろくなっているのを感じる。だけど、泣くのは嫌だった。
　父に置いていかれた日から、もう泣かないと決めたのに。

「……お前だって、私を置いていくだろう」
　ハルモニアに帰って、ナッシュの気が向かなければ会うことも出来ない。
　自分がいくら会いたくても、居場所すらわからない。
　―――卑怯だ。
　自分の中にこれだけ入っておいて……それでいなくなる。
　だったら最初から期待しないほうがいい……
「英雄ってのは一人じゃなれないものだろう。周りに人がいて初めて認められるものだ。クリスの周りにはサロメたちだっている。その気になればヒューゴもゲドも味方するだろう。立場が例え違ってもな」
　……それはそうだ。
　彼らは確かに自分を裏切ったりはしないだろう。例え敵として現れたとしても、そんなことくらいで先の絆を崩したりするほど小さい人間ではない。
　でも自分が欲しがっているものはそんなものじゃない。
　英雄のクリスではなく、一人の人間としてクリスが欲しいのはそんなものではない。

「……お前はどうなんだ？」

　その紫水晶のような瞳が、ナッシュの明るいエメラルドグリーンの瞳を覗き込む。
　先に聞いておけばいい。
　そうしたら期待もせずにすむ。
「…………」
　無言でクリスを見返したと思ったら、両腕をクリスの身体から離して身を起こす。

　……それが答えか？
　期待していなかったつもりでも、やはり心は痛んだ。
　きっと理性では望んでも叶わぬと知っていても、本心は割り切れていないのだろう。
　まだまだ修行が足りないな……

　ガチャ。
　ナッシュが腕を伸ばしてベッドの脇にある窓のロックをはずして、窓を開けた。外はいつの間にか雨がやんだようで、薄闇が段々と東の空から明るくなっている。
　夜明けは近いようだ。
　心は晴れなくとも、夜は明けるし、雨もやんでしまう。

　ピーッ。
　ナッシュが右手の人差し指と親指を口に咥えて笛を鳴らす。
「……？」
　一体なんだろうと、クリスが首をかしげていると、ナッシュはシーツを腕に巻きつけてそれを窓から差し出す。
　バサッ、と音がしてその腕に明るい茶色のナセル鳥がとまった。
　どうやらナッシュの合図で飛んできたらしいが、そこまで慣らしてあるということはこの鳥は伝書用に仕込んであるようだ。
　ゼクセンでは見かけない伝書用の鳥をこんなに近くで見るのは初めてだったので、クリスは紫色の瞳を丸くして興味深そうに覗き込む。
「クリス、シーツを腕に二重に巻いて」
「え？」
「素手だと怪我をしちまうからな」
　言われたとおりにシーツを腕にぐるっと巻くと、ナッシュが鳥を乗せている腕を近づけてくる。かなり大きな鳥なので、さすがにつつかれたら痛そうだと緊張してしまう。
「ドミンゲスジュニア、行け」
　羽根を少し広げて、ドミンゲスジュニアという変な名前のナセル鳥が右足をクリスの腕にかけてくる。結構重いが、それでもいつも振り回している剣に比べたらどうってことはない。
　普通の女であったら多分無理だろうが……。
「彼女を覚えろ」
　これはさすがにクリスに向かって言われたものではない。
　鳥が大きなくちばしをクリスの白い肌に寄せてくる。見を硬くしてその様子を窺うが、どうやらナッシュに言われたとおりにクリスのことを覚えようとしているだけらしかった。
「利口な鳥だな。こんなに人に懐くものなのか？」
「まぁ、産まれたときから面倒を見ているからな。こいつの親も同じように俺が育てたんだ」
　それでジュニアというわけか。
　動物を見ると不思議と気分が和む。先ほどまでの胸の痛みから少しは気が紛れた。

「クリス、俺を雇う気はないか？」

　ドミンゲスジュニアをまた自分の腕に戻しながら、ナッシュは変わらぬ口調でさらりと言った。一瞬、何を言われたのかわからずにクリスはただ腕から鳥の重みがなくなったのを感じながら、ぼんやりと考え込む。
「え……？」
「騎士団に騎士以外はいちゃいけないかもしれないけど、お前さんが個人的に雇う分にはかまわないだろ？　まぁ、できることっていったら、諜報活動くらいしかないけどな」
「はあ……」
　何とも間の抜けた返事しか出来ない。
　目の前にいる男が一体何をしゃべっているのかも、驚きのあまりぼんやりと聞こえるだけだった。
「クリス？」
　ナッシュがドミンゲスジュニアをまた窓の向こうへ放つと、クリスの目の前で手を振って見せる。だが彼女は何の反応も見せない。
「……だけどお前はハルモニアの特殊工作員で……」
「ああ？　そんなものとっくの昔に首になってるさ」
「でもこの間、ササライ殿と……」
「ちょっとした借りがあってな。それをこの間返し終わったんだ」
「ハルモニアには妹さんがいるのだろう？」
「妹だっていい年だ。それに俺には帰る家はないからな。この年で無職っていうのもあれだし、ぜひとも雇ってもらいたいね。腕は知ってのとおりだ｣
　腕についてはたしかに言うことはない。
　だけど、だけど……
　信じられなかった。
　ナッシュの言葉ではなく、今の状況が。

　……いつか去っていく人たちばかりだったから。
　どんなに心寄せても、自分はただ置いていかれるばかりだったから。

「永久就職ってことで｣
　いたずらっぽく笑うナッシュの笑みに、クリスはようやく顔を赤らめて眉を上げる。
　本気で怒っているわけではないが、こうでもしないと頬が自然に緩んでしまいそうだったから。そして、そんな顔をナッシュに見せたらつけあがるだろう。
「普通逆だろう｣
「そうかもな。まぁ、いいじゃないか」
「……私は寝る｣
　はぁ〜と、ため息をこぼしつつもクリスの胸は満たされていた。
　ぼふんと柔らかい枕に顔をうずめて、クリスは眠る体勢に入る。もちろんすぐには眠れそうにないが、それでも少し休まなければゼクセまで戻るのに差し支えるだろう。
「おやすみ、クリス」
　窓からは朝日が差し込み、眩しいくらいだ。
　それでもきっとよく眠れるだろう。
　子供の頃以来、いつも寝るときは何かに怯えていたから、何の心配もせずに眠れるのは久しぶりだった。

　この眠りがいつまでも続くように―――

　ただそれだけを祈った。