ヒュッ！
　勢いよく突き出された練習用の剣が宙を斬る。
　それをいともたやすくひょいっとかわしたのはヒューバートだった。重厚な鎧に身を包んでいるとはとても思えないほど身軽に次々に剣をよけていく。
「ヒューバート様！！」
　我慢できなくなってクリスはまた叫んだ。
「いい加減剣をお抜きください！　練習にならないではありませんか」
　そうなのだ。ヒューバートは腰にさしたまま剣を抜こうともせずに練習に付き合っていたのだ。ヒューバートの部隊の騎士たちは恒例とばかりに遠巻きに二人の訓練を眺めている。一人怒って殺気を撒き散らしているクリスに、さらに油を注ぐヒューバート。
　この間に入ろうという勇敢な、いや愚か者はいなかった。
「クリス、脇が甘いぜ」
「っ！」
　ガッ！！！
　右脇腹に鎧の上から強烈な衝撃が走る。
　一気にクリスの体が左方向に弾き飛ばされた。
　ドサッ！
　尻餅をついておのまま床をすべる音がする。そしてすぐに身を起こそうと顔を上げたクリスの首元に突きつけられていたのは……

「俺の勝ちだな｣
　ヒューバートの剣の切っ先はぴたりとクリスの白い首筋に当てられている。
　そしてニッコリと微笑むヒューバートの笑みは、若い女性たちなら思わず見惚れてしまうだろうくらいに綺麗だった。
「け、剣の訓練で足を使うなんてっ！！」
　もちろん、そんなヒューバートの笑顔は彼女には微塵にも通じず、やはりクリスは形のよい眉を吊り上げて怒り始めるのであった。
「戦場でそんな甘ったるい事は言ってられないぜ。使えるものは全部使わないとな｣
「ですが……っ！　う……」
　剣を鞘に納めてすでに練習をやめようというヒューバートに、まだ突っかかろうとするクリスは立ち上がろうとして右脇腹の鈍痛に顔をゆがめてまたうずくまることになる。
　このやたら厚い鎧をつけていてこの威力。
　おそらくは服の下は痣ができることだろう……
「お前ら、全員時間までサボるなよ！」
　自分のことは棚に上げて、観客となっていた自分の部下にそう言うと、座り込んだままのクリスの元に歩いてきて、いきなりクリスの体を抱え上げた。
　いわゆる『お姫様抱っこ』というやつである。
「！？」
「暴れるなよ。鎧が重くて大変なんだから」
「だ、だったら、降ろしてくださいっ！！」
「かなり強く蹴ったから、しばらく立つのもつらいだろうが」
　たしかにそのとおりだった。こうして前かがみになっていればまだいいものの、身じろぎ一つで鈍い痛みが走る。
　すぐに立つのは無理であったが、だからといってこういう風に運ばれるのは我慢ならない。
「で、ですが、こんな格好で城内を歩くおつもりですか！？」
「我慢しろ。俺だって重いのを我慢してるんだからな」
　そんなところで我慢などしなくていいのに！
　これ以上言ったところで、ヒューバートの行動は止められないだろう。死に物狂いで抵抗したいところだが、腹部の痛みがそれを許さない。
　大人しくしているのが一番の良策のようだった。
　このあらゆる意味で苦痛の時間が過ぎ去るのを………
　仕方なくクリスは忌々しそうに顔をゆがめて、ヒューバートの腕の中におさまることにしたのだった。


「一つだけお聞かせください。どうしてそうまでして剣を抜かないのですか？」
　騎士の宿舎の中はさすがに人はほとんどいなかった。城を歩いている間は気が気ではなかったが、ここまで来るとようやく落ち着くことが出来た。
　あとは階段を上り、つきあたりまで行けばクリスの部屋である。普通騎士は相部屋なのだが、さすがにクリスを他の男の騎士と相部屋にするわけにもいかず、特別措置として一人部屋を与えられていた。
「……誓ったから」

　？
　ふと、ヒューバートが今までに見せたことのない表情をする。
　普段の不真面目な表情でも、戦場でのきりりとした顔でもない。
　………懐かしんでいる……？

　今までにない瞳で見つめられて、クリスはようやく慣れたこの態勢に先ほど以上の居心地の悪さを覚えた。
　跳ね上がった心臓はこれでもかというくらいに激しく打ち付けている。
　……早く。
　……早く。
　……早く。
　心の中はただ早くこの状態から解放されるのを望んでいる。
「俺はお前にだけは剣を向けない」
「……な、何を……」
　まるで愛の告白のようだと、勘違いしてもおかしくないほどに優しいセリフ。
　だが、その後の一言がクリスの心を凍りつかせた。

「ワイアット様との約束だからな」

　　　　　　　　　　　　　　　　　□

　突然に帰らない人となった父。
　いつもどおり笑顔で「行ってくる」と言った父。
　もう顔すら思い出せない父。

　……捨てていかれたと思った。

　邸に仕える者はみんなそんなことはないと言ったけれど、クリスにはわかっていたのだ。自分は置いていかれたのだと。
　父が帰ってこないことを、幼いクリスは知っていた。

　……どうして？
　……どうして？
　……あたしが悪い子だから？
　……嫌いになっちゃったの？

　いい子でいたら、父が帰ってくると思った。

　もうワガママ言わないから。
　なんでも一人でできるようになるから。
　……もう泣かないから。

　そして待った。
　来る日も来る日も……
　勉強もした。行儀もよくした。ただどんなに頑張っても家事の才能はなかったけれど、それでも頑張った。

　……でも、ただ待つのは嫌だった。
　だから騎士団の入団試験を受けた。その門も道も険しいとは知っていたけれど。
　それでも父のことを知りたかった。
　この道を追いかけていけば、いつかは父のところへたどり着ける気がしたから……

　　　　　　　　　　　　　　　　　　□

　腹の痛みなんてどうでもよくなっていた。
　呆然としたまま部屋に抱え込まれて、その体を硬いベッドの上に降ろされる。それでもまだ信じられない思いで、クリスはヒューバートを見つめていた。
「……ち、父のことを知っているのですか？｣
「俺はワイアット様の従者だったからな｣
　と言いながらヒューバートはベッドの脇にしゃがみ、クリスの鎧の止め具をはずして鎧を剥ぎ取る。吸汗性のよい濃い茶色の服の上から右下腹に彼の大きな手が触れた。
　っ！！
　苦痛に顔をゆがめるクリスに、ヒューバートは端正な顔を苦笑させる。
「ちゃんと手当てしたほうがいいようだ。救急箱を取ってくる」
「待って！」
　立ち上がったヒューバートの腰布をクリスは慌ててつかむ。余裕がないため敬語ではなくなったが、ヒューバートは気にするような男ではない。
　今は自分の腹の怪我などよりも、父のことが知りたかった。なんだかんだで、父の話は誰にも切り出せなかったので、この騎士団に入ってから父のことを直に知っている者から話を聞く機会などなかったのだ。
　ようやくめぐってきた機会。
　父の後を追って、ようやく見つけた足跡。
「あの…父の話を聞かせていただけませんか？｣
「あまり昔の話はしたくない。恥をさらすようなものだしな」
　眉を上げてヒューバートは肩をすくめる。
「お願いします｣
　真剣なまなざしでヒューバートを見上げるクリスの紫色の瞳。いつもの気丈さはなく、ヒューバートに向かって頭を下げる。
「クリス……」
　さすがにクリスにここまで頭を下げられて頼まれては、ヒューバートもそれを無げにするわけにもいかない。
　ふう〜、と大きなため息をこぼして、ヒューバートはクリスの隣に腰をおろす。うるさそうに肩口までの髪をかきあげると、鎧の止め具をはずしだした。
「言いたくないことは言わないからな｣
「ありがとうございます」
　ふっと、クリスが瞳を細めて表情を和らげる。
　ヒューバートにとっては初めて見る彼女の笑顔。
　思わず見惚れてしまって、その薄い青色の瞳がクリスの顔を真顔で凝視する。
「何か？」
　当然、クリスはそんなヒューバートの様子に首をかしげる。
　あまりそういうふうに見つめられることに慣れていないクリスは、少し顔を赤らめてヒューバートの顔をいつものようににらんだ。
「いや、クリスは笑うと大分印象が変わるんだな、と思って。いつもそんなふうに笑っていれば、騎士団の全員を虜にできそうだ」
「そんなことに意味はありますか｣
「まったくないとは言えないだろう。少なくともいつも怒った顔をしているより、周りも気が楽だし。ワイアット様も訓練や戦場では厳しかったが、普段は温厚な方だった｣
　そう言われてしまえば、クリスも考えるしかない。
　女だとなめられないように、いつでも毅然とした態度でいるよう心がけていたつもりだったが、周りに威圧感を与えてしまっていたとは誤算もいいところだ。
「で、ワイアット様の何が知りたいんだ？｣
「先ほど言われた約束、ってなんですか？」
　ヒューバートのほうから訊いてきたくせに、クリスの答えにやや眉をひそめる。
　なんだか言いにくそうだったが、やがて観念したようにため息をまたこぼした。
「剣を教わるときに約束したんだ。いつかクリスと会うことがあったらこの剣で守れって」

　……私？

　意外な答えだった。
　自分を捨てていったはずの父が、彼を残していったというのか。
　……どうして？
　……どうして？
　ここにいるのは父ではなく、代わりに彼を残したのは何故？

「今思えば、自分が死ぬことを知っていたのかもしれないな」

　死んだ……？

　グラスランドとの抗争で死んだ、大きくなってからそう聞かされたが、死体も何もなかった。遺品の一つでさえ家族のもとには帰ってこず、運ばれてきたのはブラス城に残された日用品だけだった。
　だから今までクリスはワイアットの死を知ってはいたが、理解しようとはしなかった。
　自分の目で見るまでは信じない。
　……だが、ヒューバートは決して嘘をつく男ではない。
　いつもいい加減な行動をしているが、こういうところで嘘をつく男でないことだけはわかっている。
「父は……グラスランドで死んだのね……」
　ワイアットの従者だったのなら、彼はその場にいたはずだった。
　聞けば真実を知ることになる。
　それは耳を今すぐ塞ぎたくなるくらい信じたくない現実。

　もともとの白さにもまして、血が通っていないのではないかと思えるほど白いクリスの顔。
　いつもの気丈さも抜け何の感情もないその顔は、まるで精巧な人形のようだった。
「クリス……」
「……大丈夫です……」
　ただ、自分の歩いてきた道の先が見えなくなっただけ。
　この先、父がいないのならどこへ向かえばいいのかわからなくなっただけ。

　……そして、なぜ自分が今ここにいるのか……

　何も考えられなくなっていたクリスは、近づいてくるヒューバートの顔を避けようとしなかった。クリスの薄紅の唇に、彼の薄い唇が触れても身じろぎ一つしない。
　長い長い口付けだった。
　唇が触れているだけの軽い口付け。

「……っふ……ぅ……っ」
　離れた唇から漏れたのは、低い嗚咽。
　紫色の双眸から、透明の涙が白い頬を伝う。
「クリス……クリス……」
　ヒューバートはそんなクリスを胸に抱いて、耳元でずっと名を呼び続ける。
　その声は低く、それでもいつものような軽さは感じず、心地よかった。
　鎧をはずした二人のぬくもりが服越しに伝わって、それが温かかった。

　……こうしていつも泣いている自分を抱きしめていた腕。
　……いつも呼んでいてくれた声。

　……父様……