最後の光景は、地平線が見える平原だった。
「そんな無茶な！！｣
　荒げた声を上げたのはクリスだったが、ここにいる誰もが同じことを思っていた。
「無茶だろうがなんだろうが命令だ。やるしかないだろう」
　そう冷たく言い放つヒューバート自身も無茶は承知している。それでも騎士である以上は上からの命令には絶対服従しなければならない。
　納得の出来ない命令ならともかく、この命令は苦渋の選択だということもわかっている。
　ここは敵地にかなり入り込んだ場所。
　ゼクセン騎士団の善戦により、グラスランドの領地へどんどんと進軍している最中である。そのテントの中でヒューバートは自分の大隊の中隊長を集めて、先ほどの作戦会議で決まったことを報告した。
　全員の感想はクリスが代弁したとおりである。
「というわけでこの中から半分、明日俺といっしょに特攻をかけることになった。志願者はいるか？｣
　すっ。
　挙げられた手はこの中でひときわ小さく、細い指。
　まめがつぶれたり、剣によるたこが出来たりして、お世辞にも綺麗な手とは言いがたかったが、この騎士団の中で認められるほどの努力の結果である。
「私は行きます｣
「……クリス、自分の部隊の状況を把握してから言え。昨日の戦で怪我をしてないのはお前くらいだ。とてもじゃないが連れて行けないな。お前は撤退組だ｣
　ヒューバートは反論する余地もないほどに、クリスの志願を即座に却下する。
　下唇を噛んでうつむく彼女に、誰も声をかけようとはしなかった。そんな彼女を気遣う余裕は他の者にはない。
　今まさに命の選択を迫られているのだ。
　明日の作戦はヒューバートの部隊半分を投入して、残りは全軍撤退というしんがりの役目。いくらこれまで善戦をしてきたからといって、これ以上は騎士たちの体力も物資も限界に近づいていた。
　比べてグラスランド側は援軍がカラヤクランから数日中に到着するとの報告がある。それが到着する前に撤退をしなければならない。
　いや、こうしている今も到着しているかもしれないのだ。
　だから、明日の特攻は陽動でもあり、足止めでもある。
　この役にヒューバートが選ばれたのは今までの功績もあるだろうが、おそらくは彼の存在を快く思っていない輩が多かったせいだろう。
「うちは出ます。他よりも負傷者は少ない｣
「わかった。他には？｣


　テントを出ると、当然もう陽は沈んでいるのに暗さをあまり感じなかった。
　野営のための炎のせいもあるが、何よりもこの広大なグラスランドの地と同じように広がる夜空には零れ落ちそうなほどの星が輝いている。
　漏れてくるのは騎士たちの明るい声。おそらくは明日の特攻に参戦する者たちの。
　最後の晩餐、になるかもしれなかった。
　クリスはというと、あの後ヒューバートの抜けた後の大隊長代行を任され、自分ひとりが残るとも言い出せない状況にいた。
　悔しさのあまりヒューバートの顔を思い切りにらみつけてやったが、それに効果があったとはとても思えない。
　夕御飯を済ませてからも、まだ怒りはおさまらず、こうしてテントを抜け出して気を紛らわせようとしていた。あのまま誰かと一緒にいたら、誰彼かまわず当り散らしてしまいそうだったから。
　ヒューバートを責めるわけにもいかない。
　彼は一番最善の人選をしたに過ぎないのだから。
　……それでも……
　連れていってほしかった。
　置いていかれるのはもう嫌だった。

「浮かない顔だな｣

　その原因であるヒューバートは口笛でも吹くかのように軽やかに言ってのける。ズボンのポケットに両手を突っ込んで、野営地点から少し離れた岩場へと向かう彼の後を、クリスはまだ腹立たしく思いながらもついていく。
　ゼクセン寄りの岩場なので当然見張りの騎士もおらず、ここなら誰にも邪魔されずに話が出来そうだった。
「……何をそんなに思いつめてるのかねぇ、クリスちゃんは」
「ヒューバート様！！」
　からかうようなしゃべり方にクリスはまたも眉を吊り上げる。将来眉間に皺ができるようなことがあればそれはヒューバートのせいだと思った。
　思ったとおりにすぐ怒り出したクリスを見て、ヒューバートは微笑む。
「俺が死ぬと思っているのか？」
「そんなことはありませんが……でも……」
「だったら、そんな顔をするな。せっかくの綺麗な顔が台無しだぜ」
　そう言って、ヒューバートはクリスに軽く口付ける。
　だが、そんなことで気を紛らわせることなど生真面目なクリスにはとても出来ず、逆にヒューバートをさらににらみつけることとなった。

　そんな彼女の表情を見て、ヒューバートは長い睫毛に縁取られた目を伏せる。
　深い深いため息。
　後悔と、何かを吹っ切るかのような。
　
「……クリス、お前は前を行け」

　紫電の瞳が見開かれ、驚いた顔をする。
　白銀の髪、薄い紫色の瞳。
　もともと目を引く容姿をしていることもあるが、彼女が誰よりも人の目を奪うのはおそらく本来の資質のせいだろう。
「え？　……ヒューバート……？」
　そんなふうに悲しい目をするな。
　そんな顔を誰にも見せるな。

「お前は決して後ろを振り返るな。自分の道を真っ直ぐに行け」

　抱いたりするのではなかった。
　それはクリスに自分が女であることを思い出させる結果となり、こんな甘えを許すことになったのだ。そして自分も後ろ髪を引かれる思いをして、離れがたくなる。
　先ほども彼女はただ感情の赴くままに自分についてこようとした。自分の部隊の状況など考えもせずに。
　……そんな馴れ合いには、彼女を成長させる力などない。
　ワイアットはそれを知っていたのかもしれない。
　だから何も言わずに彼女の前から姿を消したのだろう。

　彼女は男も女も関係なく、老人も子供も関係なく、目を奪うことになる存在。
　誰の甘えも許されない、孤独―――――。

「それじゃ…死ぬみたい……」
「俺が死んでも、お前は前を行け」
　それでも彼女は立ち上がるだろう。
　誰の死を目の前にしても、誰を犠牲にしても……
　自分を許せなくなる日が来ても……

「もっと広い世界を見ろ。そして……」

　……ワイアットの消息を探せ。
　クリスには言わなかったが、彼の死をヒューバートも目撃してはいなかった。そしておそらくはあの戦においては彼は死んでいないはず。
　見た目は２０代の若者だったが、その瞳にはもっと深いものがあった。
　身を隠したのにも、きっとそれなりの理由があったはずだ。
　ヒューバートにも、クリスにも言えない秘密……。

「『英雄』になれ」

　たとえつらくても、
　誰もいなくなっても、
　信じる道を……

「ヒューバート…私は……！！」
　そこまでだった。
　彼女の体が足元から一気に崩れ落ちる。
　ヒューバートの手のひらからは残りのクロアニの粉が零れ落ち、そしてそのままクリスの体を鎧ごと抱え込んだ。
　髪と同じ銀色の睫毛が重く伏せられている。
　かすかに開いた唇からは、安らかな寝息。
「……もしも、戻れたら……」
　ぽつりとこぼしたその言葉に、ヒューバートは自嘲して首を横に振る。
　たとえ、この戦で生き残ったとしても、もう彼女の前には姿を現すことはないだろう。
　そして顔をあげると、岩場の影に声をかけた。

「パーシヴァル、隠れてないで出てこい」
　ガチャ、と音を立てて同じ鎧を身につけた黒髪の青年が真面目な顔をして出てくる。
　クリスとほぼ同期でありながら出自の差により彼女より出世が遅れている彼は、明日の撤退において彼女の補佐をすることになっていた。
　普段は斜に構えている彼も、さすがにこの時ばかりは真面目な表情をしていた。
「クリス様を探していたのですが、邪魔をしたら悪いと思い…」
「いや、丁度よかった。彼女を連れてテントに戻れ」
「……よろしいのですか？」
　察しのいいパーシヴァルは、それがどういう意味かもわかっていた。
　だからこそ再度訊かずにはいられなかった。ヒューバートからクリスの体を預かりながらも、顔だけは彼に向けている。
「ああ。あとは城に帰ったらサロメに伝えてくれ、『借りを返せ』と」
　彼ならそれがどういう意味かすぐにわかるだろう。
　そして彼がサポートにつくのなら、大分道は楽になることだろう。

　……もう自分が彼女に出来ることは何もない。

　明日、無事に彼女を帰すことが最後の役目だと、ヒューバートは二人が去る姿を見送りながら誓った。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□

「久しぶりだな、ヒューバート」
「…やはり……生きて……」
「ああ。すべてお前に任せる格好になってしまってすまなかったと今でも思っている」
「……そうでも…なかったです……悪いことばかりじゃなかった……あなたの娘に……逢えましたしね………」
「そうか、クリスに…。元気だったか？」
「……元気…すぎて……手を、焼かされましたよ……」
「昔からあれは気が強かったからな。さすがのお前も苦労しただろう」
「…………ふふ……でも……あなたと同じように……彼女を……泣かせることに……なって…しまいました……」
「そうだな。でもあれはそれくらいでは倒れたりせんよ」
「…ええ……足枷がなくなって……これからは……」

　自由に。
　……どうか自由に。

　泣いても、怒っても、迷っても、信じる道を―――――――