サァァァ……

　まだ窓の外では雨が降り続いているようだった。カーテンは閉められたままだったので外は見えないが、開けたところで今はもう真夜中。見えるのは近くの木くらいだろう。
　この雨がやめばここから出なくてはいけない。
　そしてここから出れば、また別れが待っているのだろう……
　二人をつなぐものは、もう何もないのだから。
　生まれた国も、育った環境も、いるべき場所も異なる二人。
　なのに出会って、旅をして、同じ志を持って……そして別れた。

「……どうしてここに来たんだ？｣
　ベッドの上で上体を起こし、立てた片膝に頬をついてクリスは静かに問いかける。
　隣で寝転ぶナッシュはその器用な指に彼女の銀色の髪をからめては梳いていく。普段は触れることさえ出来ない髪は、想像していたとおり柔らかくて羽根のようだと思った。
「ちょっとお使いでこっちまで来たんでな。せっかくだし挨拶くらいはと思ってブラス城へ寄ったら、あんたがここにいるって言われてさ｣

　本当に挨拶だけのつもりだった。
　ブラス城で会ったならば、きっとそうなっていたのだろう。
　騎士団長のクリスと会ったのなら……
　なのに彼女は銀の鎧を脱いでいた。いつもまとめて結い上げている髪もほどいて。
　草原の中の小さな十字架に跪いて祈る彼女の姿は、どこか神々しさを感じた。戦乱の中に身をおいて、その手は血で汚れているはずなのに、そんなことは微塵にも感じさせない。
　どこかで見覚えのある姿だと、ふと記憶を探ってみれば、それは彼女と一緒に見た光景。
　森林の奥の村、アルマ・キナンの少女……
　この世の体を捨て、精霊となりこの地を守る少女。
　その少女の最後の姿に、目の前のクリスの姿が重なって、ナッシュは思わず声をかけたのだ。

「あいつが俺にわざわざ教えるくらいだから、よっぽどあんたのことが心配だったんだな｣
　六騎士は多かれ少なかれ、ナッシュに対して警戒をしている。サロメだけは以前から知っていたので、少しは対応もよかったのだがそれでも彼のクリス至上主義は健在であった。理由がなければクリスのことを任せたりはしないだろう。
　その理由は……来てみて少しだけわかった気がした。
　いつもの張り詰めた緊張感はなく、無防備なその背中。
「……あいつらは心配性だからな」
「それだけお前さんを大事に思ってるってことだ。好意はありがたく受け取っておきな｣
「その好意の顕れが、こんなことをしているわけか」
　ナッシュは苦い顔になる。
　そう言われては答えようもないというか、ミイラ取りがミイラ…という気分だ。
　照れを隠すようにナッシュは軽く身を起こして、クリスの白い肩を後ろから抱え込むと再び布団の中に倒れこむ。
　柔らかいスプリングで二人の体が軽く跳ねるが、すぐにその重さで沈んで止まった。
「なぁ、クリス。この家は誰の家だったんだ？」
　ピク………
　案の定、腕の中の細い身体が一瞬こわばって動きを止める。
　きっと言いたくないのだろう。
　本当は詮索すら許されないのかもしれない。
　過去の古傷に触れていることは百も承知だった。普通はここから先に踏み入ることをためらうものなのだが、ナッシュはあえて踏み込む。
　多分、サロメたちには許されていない領域。
　それでも、この腕に抱いてしまったのだから、もう後戻りは出来なかった。

「……私に英雄になれ、と言った男の家だ｣

　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　第一印象は『いい加減な男』だった。
　ゼクセン騎士団騎士隊長である六騎士の中でも一風変わった男。仕事はサボる、女を連れ込むのは日常茶飯事。
　おかげで騎士団の中では異質な存在。誰からも疎まれるような、そして本人もそれをわかっていて、その上でそうふるまっているようであった。
　同じようにただ一人の女騎士のクリスも、勤務態度は真面目でさらには剣の腕も他の男どもに引けをとらないとはいっても、その存在自体はやはり浮き上がっていた。
　そこで騎士団長の取った最良の人事策といえば、厄介者は厄介者に預けるに限る、ということでクリスをその男の補佐につけたのだった。

　その色素の金色の髪と、少し冷たい印象を与えるアイスブルーの瞳が彼の目印である。

「失礼します」
　硬い喋り方で女性の持つ柔らかな声を冷えた事務的な口調に変えて、執務室のドアを開ける。
　すると、その紫色の瞳に飛び込んできた光景に少女は目を大きく見開くことになった。
「きゃっ」
　短い叫び声は女性のものだが、クリスの声ではない。
　同じように驚きのあまり声を上げそうになったが、息を飲むことでかろうじてそれをこらえたのだった。
　そんなに大きくない騎士隊長の執務室の中にいたのは二人。
　重なり合った体が離れ、男の膝に腰掛けるように座っていた女性が慌てて立ち、乱れた着衣をかきあわせる。
　青年の方はといえばまずいところを見られたとも思っておらず、椅子に腰掛けたまま薄い金色の髪をさらりとかきあげて、これから起こるであろう波紋にため息をこぼした。
「し、失礼しましたっ」
　適度に着衣を直すと、女性はお盆を持ってドアの前に立ち尽くすクリスの横を駆け抜けて部屋から出ていった。
　どうやらお茶を運んできたらしい、がこの男に引っかかったということだろう。
　上官にあたるのだから当然「この男」などと思ってはいても口には出せないが。
「……で？　今日のお仕事は何かな」
　何もなかったようにティーカップを傾けて、すでに冷めてしまった紅茶を飲んでいる。
　いつもこの調子なので、この騎士団内で彼の存在は浮いていたし、他の六騎士たちも彼を快くは思っていないようだった。だが当の本人はそんなことどこ吹く風で、自分のしたいことをしている。
　これで実力もなかったら、とうの昔に騎士団を追放されているところだろうが、六騎士の中で一番の若さなのにその戦歴は騎士団の誰にも引けを取らない。
「この書類に目を通してください。それから執務室での女性との情事はおやめください」
　内心の苛立ちを隠すようにしてクリスはつかつかと机の前まで歩いて、そこに書類の束をドンと置く。
「クリスちゃんが俺の相手をしてくれるのなら、考えてもいいな」
　むかっ。
　女であるからと軽んじられるのは慣れているが、こういうからかわれ方は好かない。ライトフェロー家という名門の家柄と、そこらの騎士よりもよっぽど強いその腕で、他の誰も表立ってはクリスを馬鹿にはしない。
　女、女と入隊した頃から奇異の目で見られ、いつしか自分が女であることを忘れるようにした。男に負けないように努力もしたし、父の好きだった銀色の長い髪も短く切りそろえた。
　だから女扱いされること自体に我慢がならない。
「ヒューバート様！！」
　その細い眉を吊り上げて男をにらみつけると、男はただ苦笑するだけだった。
「そんなに怒ってばかりいると、すぐに小じわが出来ちゃうぜ？｣
「だったら私を怒らせなければいいんです！　それとも騎士の名誉にかけて決闘でも受けてくれますか？｣
「やめておけ。俺は女には剣を向けない主義なんだ｣
　フェミニストならフェミニストらしく、自分を女だからと馬鹿にしないでもらいたい。
　どうして自分がこの男の面倒を見ることになっているのだろうか。
　そろそろ移動願いを出さなくては、そのうち本当に小じわが出来てしまいそうだった。まだ１７になったばかりだというのに、どうしてこう心労の絶えない生活を送らなくてはいけないのだろう。
「そんなことを言っていると、カラヤの族長に首をかかれますよ」
「ああ、あれで子持ちだとはなぁ。惜しいよなぁ｣
　……この男は……
　相手が敵であろうと、夫がいようとおかまいなしという、この節操のなさ。
　本人に言わせると、これは生まれついての病気みたいなものだから治せないらしい。呆れるしかない、とはこのことだ。

　そんなふうに考えながら怒ったり、あきれたりと表情のくるくる変わるクリスの顔を、ヒューバートがその冷たさを感じさせるアイスブルーの瞳を細めて楽しそうに毎日眺めていたのを、クリスは知る由もなかった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　ぽつりぽつりと、語りだした男の話は懐かしさを感じさせるよりも、クリス自身の至らなさを感じさせるような話ぶりだった。
　何も知らなかった自分……。
　後悔だらけの過去……。
　それはナッシュにも覚えのあるものだった。そして、それで失ったものは数多く、ほとんどのものは取り返せないものなのだ。
　傷痕は深く、消えないものもある。
　そして今クリスはその傷痕をさらけ出そうとしていた。

　今までずっと痛み続けていた傷。
　ずっと誰も気づかぬまま、流し続けていた血。
　ナッシュと出会ったことで、さらに思い出した傷もあるだろう。
　
「……そして私が女であることを思い出させたのも、この男だった」