海の見える丘にその墓はあった。
　まわりはただ見渡す限りの草原。舗装された街道からはだいぶ離れているため、ここに一つだけある墓の存在は誰も知らないといっても過言ではないかもしれない。
　潮風にのせて、銀色の髪が海と同じ青い空になびく。
　日の光に照らされた髪は輝き、まるで鳥の羽のようにふわりと舞っている。

　さわ……

　だが、その誰もが見惚れるような髪の持ち主は墓の前に座り込んだまま微動だにしない。顔の前で両手を組み膝をついたまま目を閉じていた。

　さわ……

　風になびく草のさざめきと、海の鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。
　こんなに静かな時間は久しぶりだった。
　グラスランドとの抗争で騎士団長らを亡くし、まさか自分に騎士団長が任命されるとは思っていなかった。さらにハルモニアとももめ、仮面の男との対決、いろいろ立て続けにいろいろなことが起こったせいで、ここに来るのは３年ぶりくらいだろうか。

　やがて、彼女の目を縁取る銀色の毛が混じった長い睫毛が重そうに持ち上がると、そこから今度は澄んだ菫色の瞳が覗いた。
　それを見計らったかのように、背後から声がかけられる。

「……クリス｣

　……まさか……
　……まさか、彼では……
　柔らかな声に、クリスは慌ててハッと振り向く。
「どうした？　そんなお化けでも見たような顔をして｣
　そうして見せる柔らかい笑顔も、柔らかい笑い声も、柔らかな薄い金の髪も、全部クリスが知っているものに似通っていた。
　けれど、それが彼でありえないことくらい痛いくらい理解している。
　思いを断ち切るようクリスは男にわからぬ程度に唇に自嘲の笑みを浮かべて、それからいつものように隙のない目で見返した。
「どうしてお前がここにいるんだ、ナッシュ？｣
　ここに来ることは誰にも伝えていない。
　騎士団のほうには休暇届を出しているので、その間は関与されないはずだし、たとえクリスの行き先を知っていてもこの胡散臭い男に伝えるはずはない。
　それに家のほうにも何も言わずに出てきたのだから、クリスの居場所は誰も知るはずはないのだ。
「恋する男の勘てやつかな」
　……相変わらずな男だ。
　出会った頃からこの調子で、女と見るや食事に誘ったりと忙しい男だった。さして男に興味もないお堅い騎士団長であるクリスにまで声をかけてくる始末。
　仮面の男との一件が終わり、別れを言って以来姿を見せなくなったと思ったら、またこうして突然に現れる。
「冗談も休み休み言え。用件は何だ？｣
　これまた相変わらずに冷めた口調で返すクリスに、ナッシュはおおげさに肩をすくめてみせる。
「あんたに会いにハルモニアから飛んできたっていうのにつれないなぁ」
「……帰る｣
　付き合ってられないとばかりに、クリスは小さな墓に背を向けて歩き出す。方向的にはナッシュのいるほうなのだが、あえて遠回りをして馬をつないである木に向かって足を向けた。

「これ誰の墓なんだ？｣
　背中に声がかかり足の動きが一瞬止まったのをナッシュは見逃さなかった。
　名門ライトフェロー家の墓がまさかこんな閑散とした地にあり、誰も見向きもしないような小ささをしているはずはない。
　十字架には何も文字は書かれておらず、ただその前にはクリスが持ってきたと思われる花束が供えられていた。
「…知り合いの墓だ｣
「ふぅん。知り合いねぇ｣
　納得したのかしないのか、ナッシュはそれ以上詮索しようとはしない。
　クリスもそれ以上説明する気もなかったので、振り返りもしないで早くここから立ち去ろうと歩を早めた。
　本当はこの上なく動揺していたのだけれど、それも彼に見せるつもりはない。彼だけではなく誰にも見せるつもりはない。
　……だから一人でここへ来たのに。

　ポツ……
　そんなクリスの晴れない心の中を表すように、あれだけ青かった空はいつのまにか灰色の雲で覆われて、さらには雨がぽつぽつと降り出し始めた。
　空を見上げてみれば雨雲ばかりで、青空は遠い西の彼方。
　これはもっとひどく降り始めるだろう。
　さらに足を速めて木の下へと急ぐ。見事な肢体の白馬は主が戻ってきたのを悟るとその長い四足で立ち上がった。鼻を鳴らして顔を近づけてきたので、クリスはその細長い頭の首を撫でてやる。
「こりゃあ、ビネ・ゼル・ゼクセまでは戻れそうにないぜ｣
　少し遅れて同じ木の下に入ってきたナッシュが自分の少し濡れた服を見て顔をしかめた。
「……何故ついてくるんだ｣
「どうしてお前さんは俺を避けようとするんだ？｣
「……別に避けているつもりはない｣
　だが、相手の顔も見ようとしない上に、この一瞬の沈黙が図星であることを教えている。
　クリス自身もそれをわかっていて、さらに気まずくなって唇を軽くかみ締め黙り込んでしまう。そんな彼女をナッシュは横目で見て隣に聞こえない程度のため息をこぼした。

　サァァ……

　一向にやむ気配もなく雨の勢いは増すばかり。このままではこの木の下から出られなくなってしまうだろう。まだ降り始めの今なら急いで馬を飛ばせば、首都へ戻るのは無理でも近くの街まではそうかからない。
　だが、隣に男がいることを考えると、まさか一人馬に乗っていくわけにもいくまい。いくらこの男が野宿に慣れているとはいえ、置いていってしまうことはクリスにはとても出来ない。
「あーあ、雨やみそうにないぜ？」
「……仕方ないか……」
「え？　なんだって？｣
　雨音に隠すようにクリスはポツリとこぼす。当然ナッシュの耳には届かずにクリスが何を言ったのかわからず首をかしげている。
「馬に乗れ、今のうちに移動しよう｣
「そうだな。よっと」
　鐙に足をかけてナッシュが身軽にひらりと白馬にまたがる。そして鞍の後ろのほうに腰をずらしてとクリスが前に乗れるように場所を譲った。
「重くなってすまないな｣
　そう言って軽く首を叩いてから、クリスも慣れた動作で騎乗した。後ろに乗ったナッシュはいつもと違って鎧をまとっていないクリスの細い腰に手をまわす。
「………行かないのか？」
「……どうして両手を回すんだ」
　こんな草原なら回す手は片手でも十分なはずなのに、何故かしっかりと両手はクリスの腹に回されている。
「落馬したら危ないからな｣
　どう考えても下心満載なのだが、これ以上突っ込んでは意識していることを自ら暴露することになる。それは好ましくないので、クリスはふと良案を思いつくと前を向いたままうっすらと笑みを浮かべた。
「そうだな。ちゃんとつかまってなさい」
「ああ……って、うわ！　ちょ、ちょっと……」
「口を閉じてないと舌を噛むわよ｣
　クリスが馬の腹を強く蹴って合図を送ると、白馬は雨の中の草原をひたすらに駈けていくのだった。

　　　　　　　　　　　　　　□□□

　洋館の裏手にある厩に白馬をつないで水と餌を与えてから、クリスはようやく邸の中に入る。そんなに大きくない洋館は人が住んでいないにもかかわらず定期的に掃除をしていることがわかる程度には小奇麗だった。
　それもそのはず、この洋館の手入れを頼んでいるのはクリスだった。この敷地も建物もすべてクリスが所有者となっている。
　ドアをくぐってから玄関で上着を脱ぐ。ナッシュの前に座って雨に打たれたものだから、さすがに全身から水が滴り落ちている。
「ほら」
　バサッと頭から乾いたタオルがかけられた。どうやらナッシュがどこからか探して持ってきたらしい。
　ありがたく、というかクリスの物なのだがタオルを使ってとりあえず顔をふき、さらに髪の毛をぬぐう。そしてそのまま勝手知ったる我が家とばかりに、玄関から少し奥にある書斎のほうへと足を向けた。
　ガチャ。
　ドアを開けるとすぐに暖炉の脇にある道具で火を熾して薪をくべる。ついでなので部屋の明かりもつけようと、備え付けのランプにもその火を燈した。
「ここはあんたの別荘か何かか？｣
　あとからついてきたナッシュもクリスと同様タオルで髪をぬぐっている。だが、いつもは上げている前髪が雨に濡れて落ちてきているので３７歳とはいえ童顔の顔がさらに童顔に見えた。
「そんなところね。この家のものは好きに使ってくれてかまわない」

　それだけ言い残してクリスは書斎の奥にある寝室へと向かった。今朝ここへ来たときに旅の荷物を置いておいたのだ。その中には一応着替えも入っていたので、とりあえず濡れた衣服を脱ぎだす。
「……ふぅ……」
　まさか、今日ここに泊まることになるとは思っても見なかった。
　どうしてよりにもよって今日だったのだろう。
　今日以外のここではないどこかで彼に会ったのなら、何も感じずにすんだのかもしれない。
　でも、ここで今日再会してしまったのは……

「クリス……いてっ！！」
　ひょっこりとドアから顔を覗かせた男にすかさず近くにあった時計を投げつける。見事に男の顔面にヒットし、男は声をあげた。
「貴様という奴は……！！！」
「ま、待てって！　不可抗力だ！　まさか着替えをしてるなんて思いもしなかったんだ！　わぁ、とにかくごめんなさい〜！！」
　クリスの殺気を感じてか、顔を抑えすぐに後ろを向いて言い訳と謝罪を始めるナッシュ。
　さすがに平謝りをする男にこれ以上の仕打ちをする気にもなれず、クリスはさっさとシャツを着てしまうことにした。
「……それで、何か用か？｣
「ああ。旅の途中で替えの服も切らしてるから、どうしたものかと思ってな。まさか裸で家の中を歩くわけにもいかないだろう。俺はかまわないけど」
「痴漢から変態オヤジに格下げになりたくなかったらやめておけ。服ならそこのクローゼットに入っているはずだ｣
「………痴漢……変態オヤジ……」
　腑に落ちずぶつぶつとつぶやくナッシュは言われたとおりにクローゼットを開けてそこに掛かっている服を物色し始める。
　古い服だが着られないことはないだろう。
　なんとなく捨てられなかったものだが、こうして役に立ったのならいいのかもしれない。
　未練がましいとは思ったけれど……

「なんて顔してるんだ？｣
　気づけばクローゼットを覗き込んでいると思っていたナッシュの端正な顔が目の前にあって、クリスはこれでもかというくらいに目を見開く。
「ち、ちょっと考え事をしていただけだ！｣
「それってこの服の持ち主のことか？｣

　――――！！

「あの墓もそうなんだろう？」
「そ、そんなことお前には関係ないだろう！」
　図星を突かれて一気に頭に血が上るのがわかる。自分で自分の感情が抑えきれなくなって、思わず言ってしまった言葉に慌てて口をふさぐがもう遅い。
　―――関係ない。
　それは言ってはいけない言葉だった。
　他人との関係を拒絶する言葉……。

「関係ならあるさ」
　いつもの軽さのない声でそう言った途端、ナッシュは右手でクリスの細い顎をつかむと自分の唇でクリスのそれをふさぐ。
「…っ！　……はな………っ！」
　平手打ちを放とうとした手はたやすくナッシュに捕らえられ、ますます身動きが取れなくなってくる。
　そしてどんどん口付けの方は深くなっていた。いつのまにか口を割られ舌が歯列をなぞり、さらにそれから中へと進入してくる。
「……ん……ぅ……」
　次第に体から力が抜けて、抵抗する気力もなくなってくる。
　こういった行為を受け入れた時点で、きっともうこの男を許しているのだろう。

　自分に触れることも、
　自分の中に入ってくることも、
　すべてを許してしまっている。

　―――今日、この日、この場所で彼を受け入れることを望んでいた。

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「……お前は……私を……………な…」
　そのかすれた声にナッシュは顔を上げて、その紫水晶の瞳を覗き込む。だが、クリスは熱で潤んだその瞳にただ切なそうな光を浮かべて男の姿を映すだけだった。
「何…？」
「……なんでもない……」
　そう言われて気にならないでもないが、今はそんな余裕は男にはない。
　白いシーツに広がる濡れた銀色の髪。そこに横たわる白い肢体に顔をうずめて愛撫を続けていく。

　二人の鼓動と吐息以外は何も聞えないこの部屋で、
　ただ互いのことだけを見つめていた……。