「うぷ……」
　さ、さすがに大人ランチはたいらげるのに苦労した。
　隣で幸鷹がずっと見ているので、食べきらないわけにもいかない。とりあえず詰め込めるだけ詰め込んでみたのだが、今度は胃が重くてしばらく休まないと仕事になりそうもなかった。
　皿を下げにきた透夜に、翡翠は毛布を持ってくるように言いつける。
　仕事部屋のソファは、ソファベッドだったので向きを変えるとベッドのマット部分を広げて、そこに翡翠は長い体躯を投げ出す。
　う……気持ち悪い……
　顔色も冴えなくなってきた翡翠を、幸鷹もさすがに心配せずにはいられない。ソファベッドの横に座り込んでノートパソコンに向かいながらも、時折ちらちらと様子をうかがう。
「翡翠、毛布です｣
　特に心配した様子もなく、やはり淡々と事務的にしゃべる透夜は、毛布を寝転がっている翡翠の上にかけて立ち去っていく。

　そして二人で残されてみれば、うつ伏せで寝転んでいる翡翠の様子がまた気になって幸鷹はノートパソコンを打つ手をとめた。
　寝てしまったのだろうか、ぴくりとも動かない。
　ノートパソコンを閉じて、幸鷹は翡翠のそばに行くとちょこんとしゃがみこんで様子を窺う。
　大丈夫だろうか……
　何も無理してあんなに食べることもないだろうに、とも思うのだが、自分が煽ってしまったこともあり、少しは責任を感じる。
　そうだ、胃薬でも……
　だが、ここは翡翠の店。救急箱の在り処も幸鷹にはわからない。仕事の邪魔かもしれないが、とりあえず透夜に訊いてみるしかないだろう。
　思い立つと、すぐに幸鷹はドアのほうへと向かった。ドアノブは取っ手が付いているタイプだったので、背伸びをして取っ手をつかむとそのまま体重をかけて下に引く。
　ガチャ………
　翡翠が寝ているかもしれないから、起こさないように静かにドアを開ける。
　仕事部屋を出ると、そこは小さなキッチンへと続いていた。先ほどまで昼食を作っていたので、まだキッチン内はケチャップの匂いがしたが、キッチン周りは綺麗に片付いていた。
　きょろきょろと見回すが、透夜はいない。そして視界に入る場所には救急箱も置いていないようだ。とはいえ、今の幸鷹の視界に入る場所などに置いてあったらそれこそ危ないであろうが。
　仕方なく、店のほうへと続く扉をゆっくりと開ける。

　ショーウィンドウのおかげで、店の方は光があふれていた。しかし、その部屋の中に黒い影が一つ動いている。漆黒の髪に、黒のタートルネックのシャツ、スラックスも黒、それがいつもの透夜のいでたちだった。
　幸鷹に背を向けて、透夜は机の上にのっているモニターに向かっている。その長い指は滞りなくキーボードの上をすべり、カタカタと打つ音も止むことはない。

　これは、話し掛けたら仕事の邪魔だろうか。
　うーん、うーん……
　でも翡翠のことは自分にも責任があるのだし、このまま放置していくわけにも……
　とりあえず、もう少し自分で探してみよう。家捜しではないから漁るわけにはいかないが、少し探すくらいならいいだろう。
　せめて見えるところくらいは自分の目で確認しておこう、と幸鷹はドアを閉めてキッチンをまた見渡す。戸棚あたりが怪しいが、幸鷹の今の身長ではとても上のほうは見えない。中ほどにある引き出しの中すらも見えないのだから、これは足場が必要だろう。
　しかし翡翠も透夜も平均身長を遙かに上回っているので、当然踏み台などというものはない。きょろきょろと、大きな瞳を泳がせると、部屋の隅に掃除用だろうか青いバケツが置いてあった。
　これなら運ぶのも軽いし、今の自分の重さなら底が抜けることもないだろう。
　幸鷹はバケツを用意すると、それを戸棚の前に逆さに置く。そしてゆっくりと足をかけるが、結構丈夫なバケツなので大丈夫そうだ。
　それでもまだ戸棚の上のほうは見えない。
「……あとは……」
　引き出しを引いて、それを足場にするしかないだろう。
　あまり引きすぎると戸棚ごと倒れてしまうだろうから、この程度なら……
　そろそろと引き出しを引っ張ると、手で体重をかけてみる。戸棚はぐらつくことなく立っていたので、幸鷹は今度はそろりと今まで以上に気を遣って引き出しに足をかけた。

「っ、幸鷹！｣

　えっ？
　急に身体がふわりと浮く。
　しっかりと引き出しに足をかけたつもりだったのだが、急に声をかけられたことで靴下を履いている小さい足がズルッとすべる。
「わ……っ！！」
　必死で手を伸ばすが、つかまるものはない。
　重力によって背中のほうへと身体が倒れ、幸鷹は反射的に目を瞑る。

　ぐいっ！
　腰をつかまれ、思い切り強い力で引き寄せられた。
　その大きな瞳を開けてみれば、翡翠の端正な顔がまだ青いまま間近にあった。
「はあ〜……またこのパターンか……」
「それはこっちの台詞だ！　またいきなり声をかけるから……」
「目を開けたら君の姿がないから探しにきたのだよ。危ない真似はするなと言ったのに」
「お前が……！」
　具合が悪そうだったから、と言いかけて幸鷹はその小さな口をつぐむ。
　それを言ったら翡翠のことを気にかけていたのだと知られてしまう。
「まったく……いつだって目が離せないね、君は｣
　呆れた顔から一転して、仕方ないといった笑みを見せる。その表情の変化に見惚れていた幸鷹はそのまま抱えられて仕事部屋へ戻されたことにも、文句を言うことが出来なかった。

　……いつもこの男はこんな目で私を見ていたのか？
　何もかも許したような目で……

「私の目の届かない場所に行ってはダメだよ｣
　幸鷹の身体を抱えたままソファベッドに戻ると、翡翠はそのまま寝転がる。当然、腕の中にいた幸鷹も同じように横になった。
「放せっ」
「放したらまたどこかへ行ってしまうだろう？　少し休ませてくれないか」
「翡翠………」
　そういえばまだ顔色も悪い。
　朝も自分のせいで叩き起こしてしまったし、そのあともこの状況では落ち着くことなどなかっただろう。
　……疲れているのかもしれない。
　しかもそのほとんどは自分が原因で。
　ならば、せめて今一時だけでも彼を休ませてやろう。
　幸鷹はそう決めると、翡翠の腕の中に大人しくおさまることにした。慣れた男の匂いと、体温がそのうち幸鷹の眠気を誘い始める。
　…どうせこの男の腕から逃れられないのだから、私も大人しく休むことにしよう。
　そう決めると、幸鷹も朝からいろいろなことがあって疲れていたのだろう、すぐにまぶたが重くなり、眠りに落ちていった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

「透夜さん、お久し振りです。翡翠さんと幸鷹さんはこちらですか？｣
「こんにちは。奥のほうにいらっしゃいます。お呼びしましょうか？｣
「いえ、急いでいるので。これを渡しておいてくれますか？　龍神から今朝届いてたものだ、とお伝えください｣
「はい、わかりました」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　………パラ……

　ふと紙をめくる音が聞こえた。

　………パラ……

　まただ。
　一体誰が自分のそばで紙をめくっているのだろう？
　うとうとしながらも、幸鷹は小さな手でしょぼしょぼする目をこすると、視界を確認する。
「……ひ…すい？」
「ああ、起きたかい？｣
　自分の隣で横になっていたのは翡翠だった。
　彼くらいしかいないだろうこともわかっていたが、何かに違和感を覚える。
　……なんだろう？
「いつの間に部屋に戻ってきたんだ？｣
　ここは翡翠の仕事部屋ではなく、自分たちのマンションの部屋の翡翠のベッドの上だった。幸鷹のベッドの周りはまだ片付け終わっていない書物で床は散らかっている。
「よく寝ていたから、起こさなかったんだよ。君のファイルとノートパソコンはリビングに置いてあるから」
「……すまない」
　まさか、移動までしたのに起きなかったとは……
　少し気恥ずかしい気もするが、それだけ幸鷹も疲れていたのだろう。
「そうそう、私たちが寝ている間に店に花梨が訪ねてきたそうだよ」
「え？　それで……」
「これを龍神から預かったそうだ｣
　翡翠が差し出したのは、先ほどまでめくっていた本だった。
　やたらと薄くて大きな本はどう見ても子供向けの絵本。
　まさか龍神まで幸鷹のことを馬鹿にしてるのかと、幼い眉を胡散臭そうにひそめつつもその本を受け取り、タイトルを読む。

『眠り姫』

　遠い過去に読んだことがある気もするが……
「あとこれも」
　もう１冊渡された絵本のタイトルは……

『白雪姫』

　２冊の絵本を前にして、幸鷹は凍りつく。
「どちらも初めて読んでみたんだけど、こういうのがこの世界の子供には面白いのかな？」
　よくわからないといった様子で、翡翠が感想を言う。
　まさか、この男はこの本を小さくなってしまった幸鷹の暇つぶしに送られたと思っているのか。二つの話を知っている幸鷹には、こんな本は不要なのだ。
　ならば、その意図は……

「……翡翠……」
「何？」
「……この本の共通点は？」
「王子様とお姫様と魔女」
　たしかに。
　まずはそれだろう。
「……これが私の身体を元に戻す方法みたいだな……」
　龍神の意図はまったくもって不明だが。
　どうしてこんな目に私が遭わなければいけないのか……
「その本に？　………ああ！！」
　翡翠はやっと納得いったという声を上げると、今度は声を上げて笑い出した。たしかにこの男にとっては面白いことこの上ないだろう。
　だが幸鷹にとっては……
「何がおかしいんだ！」
「ふふふ……だってねぇ？　魔法を解くには王子様のキスが必要なんて。ぷっ」
　まだ笑い足りない翡翠は、口元を抑えてまた吹き出す。

　……うぬぬぬ〜〜〜〜！！！

「……王子様を私は探さなければいけないということか」
「え？　幸鷹？」
「王子様とキスしないと私の身体は元に戻らないんだからな」
「だから……」
　何か言いたそうな翡翠を、幸鷹は横目でちらりと見ると、ふんっと鼻を鳴らす。そして龍神から送られてきたという絵本を２冊つかむと立ち上がって部屋から出て行くことにした。
「ねえ、幸鷹」
「うるさいっ」
　怒鳴り返して部屋から出ようとするのだが、ドアノブがうまくつかめず入り口から動けなくなった。

　…なんで私ばかりがこんな苦労をしなくてはいけないんだ！！
　京を救ってくれた龍神は、どうして自分にばかりこんな苦労をさせるのだろう。
　……もう嫌だ……

「幸鷹……」
　いつの間にか翡翠もベッドから降りて、ドアの前にいる幸鷹の背後に膝を付いている。そしてそっと小さな幸鷹の肩をつかむと、自分のほうに向かせて顔を寄せていく。
「……ん……っ」
　触れ合った唇から小さく息がこぼれる。
　そして、その瞬間―――

　ボンッッ！！！

「わっ！」
　何かが弾けたような音とともに、幸鷹の身体が一瞬にして元の大きさに戻る。さすがの翡翠もその変化に目を丸く見開いた。
　座り込んでいる二人の目線は、もうさほど変わらない。
　わけがわからぬまま二人は見つめあい、そして――――

「わわわわ！！！」

　幸鷹が自分の今の姿に慌ててうずくまる。
　それもそのはず。
　透夜が買ってきてくれた子供用の服は見るも無残に破けていた。かろうじて靴下だけは伸びきっていたが破けてはいなかった。

「幸鷹、この後の話も知ってる？｣
「な、何が！？」
「王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしました、だろう？」
「ば、ばば馬鹿っ！！」