「ねえ、幸鷹。この写真もらってもいいかな？」
　ダンボールから出された書物の山の中から幸鷹は顔を上げると、荷物整理をサボっている翡翠に眉を吊り上げる。
「早く片付けないと今晩寝る場所すらないぞ。大体、明日から仕事だといったのはお前のほうだろう！｣
「ん、ちょっと待って、こっちの写真もいいなぁ」
　まったくもって人の話を聞いていない翡翠に我慢ならなくなり、幸鷹は本の中から立ち上がった。ドサドサと積みあがっていた本の山が崩れる。
「一体何をやって……っお前、それは！！！」
　翡翠が興味深そうに覗き込んでいたのは、緑色の皮の表紙もはげかけている古いアルバムだった。
　それは当然、この世界に来たばかりの翡翠の物ではなく、幸鷹の幼い頃のアルバムである。ダンボールから出して未整理だったものを、翡翠が手にとって見始めていた。
「人のものを勝手に見るんじゃない！！｣
「あ、これはダメ。あの男がいない写真は〜、と」
「人の話を聞けっ！！」
　バッと、翡翠の手からアルバムを取り上げると、途端に笑っていた顔が不服そうな表情に変わった。しかし怒りたいのは幸鷹のほうである。
「まだ途中だったのに」
「人のアルバムを勝手に見るんじゃない！」
　そう言うと、翡翠は少し淋しそうな笑みをこぼす。
「……私にはアルバムなんてないからね……」
　異世界で生まれ、育った翡翠には当然アルバムなんてものはない。写真などというものがまったく存在しなかったのだから仕方ないが、翡翠は思い出の品さえも何一つ京からは持ってこれなかった。
　いつも平気な顔をしていたから気づかなかったけれど、もしかしたら翡翠も京を思い出して淋しい思いをしていたのだろうか。
「せめて君の昔の姿を見れば、伊予でのことくらいは思い出せると思っていたのだが…」
　伊予で彼と出会ったのは幸鷹が１７の時。
　アルバムは１５歳までの写真しかないが、それでも今よりは彼と出会ったときの面影が残っているだろう。
「う……」
　別に見せてもまずいことはないのだが、やっぱり恥ずかしい気もする。
　でも人助けだと思えば……
「か、片付けが終わったら見せてやる。ただし、私がいいと言ったものだけだ！」
　そう言って古いアルバムを抱えたまましゃがみこむと、また幸鷹は荷物整理に取り掛かり始める。なので、その時翡翠が口元に物騒な笑みを浮かべていたのを幸鷹は知らずにいた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　その夜、翡翠はニヤニヤと誰にも見せられないくらい顔を崩して笑いながら、アルバムを見続けた。
　翡翠の知らない幸鷹の姿が、思った以上に見ていて微笑ましい。
　小さい頃から賢そうで、あまり笑顔の写真がない。かしこまったというよりは、真面目な表情のものばかりだ。
　結構幸鷹は見せたくない写真を抜いたようだが、昼間見たときもどこか作ったような表情の子供の姿しかなかったように思う。
　うーん……
　自分が出会ってからの幸鷹は記憶がなかったとはいえ、表情がくるくる変わって随分と楽しませてくれた。今もそれは変わらず、毎日見ていて飽きない。

　小さい頃の幸鷹の笑顔も可愛かっただろうに。
　その場にいて見れなかったのが残念なくらいだ。
　見てみたかったな……

　と、アルバムを抱えたまま、翡翠を睡魔が襲い始めた。荷物の片づけやらで、今日は忙しかったのだから仕方ない。
　そのまま、眠気に身をゆだねて翡翠は目を閉じていく。

　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　ドンドンドン！！

　な、なんだ？
　熟睡していた翡翠はまだけだるい身体をゆっくりと起こす。どうやら自室のドアがすごい剣幕で叩かれているようだ。ノックのつもりだろうが、何か焦りを感じさせるものがある。
「幸鷹？　開いてるよ」
　翡翠には鍵をかける習慣がない。だからこう言えばすぐに幸鷹がドアを開けて入ってくると思ったのだが、まだドアを叩き続けている。
「開けられないんだ！！」
　妙に甲高い声で言われたが、何のことだか判らない。手がふさがっているのならドアを叩くことは出来ないはずだし、開けられない理由はないはずだ。
　ドンドンドン！！
　まだ叩き続ける音に、仕方なく翡翠は腰を上げる。
「はいはい、今開けるから」
　ガチャ。

「…………」
　いない。
「翡翠！！」
　いない。
　奇怪だ。
　声はすれども、姿は見えず。

　まさか朝から幻聴でもあるまい、と思っていると何かにぐいぐいとパジャマのすそを引っ張ってられた。
　視線を下におろすと、そこには―――――

「………」
「…………私だけか？　こうなったのは」

　目線は翡翠の長い足の膝。
　さらさらの黒髪を肩で切りそろえた３、４歳くらいの子供が、身体に似合わぬ大人物のシャツをかぶって、翡翠をその大きな黒い瞳で見上げていた。

　見覚えのあるその顔。
　昨日アルバムで見た写真と同じ少年……。

「……幸鷹？」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　ドアノブまで手が届かないので、自分の部屋からは荷物を踏み台にしてドアを開けたらしい。
　しかし、そんなことより……

「……じゃ、透夜頼んだよ｣
　翡翠は携帯電話の通話を切ると、おそるおそる視線を背後に向ける。未だに信じられないが、とりあえず夢でもあるまい。
「って幸鷹、何をしてるんだ！｣
　珍しく声を荒げたのは、電話をかけている間どうも大人しいと思ったら、小さな幸鷹は今キッチンでやかんをコンロに乗せている最中だったからだ。
　わざわざカウンターの椅子を引きずっていったらしく、流し台の前に置かれている。それをよじのぼって椅子の上に立ち、小さな手で水の入ったやかんをぶるぶると重そうに運んでいる。

「幸鷹！｣
　声をかけると、途端にカウンター用の小さくて高めの椅子がグラリと揺れて、傾き始める。
「わっ！！」
　小さくなった幸鷹の身体を抱え、やかんを慌ててつかむ。
　ガターン！と大きな音を鳴らして椅子が倒れるが、とりあえず幸鷹は翡翠の腕の中におさまり、やかんもそんなに水が入っていなかったので（おそらくは幸鷹の力で持てる範囲だったのだろう）、中身はこぼれずにすんだ。
「はあ〜〜〜〜」
　危なかった。
　がっくりとうなだれて、翡翠は大きなため息をこぼす。
　だが、そんな翡翠の安堵は知らずに、腕の中におさまっている幸鷹はその柔らかそうなほっぺを赤くして怒り出した。
「急に声をかけたら危ないだろう！」
「それはこっちの台詞だよ。そんな小さな身体で火を使うのは危ないだろう｣
「子供扱いするな！」
「心はそのままでも、身体は小さいのだから無茶だよ。見ているこっちのほうが危なっかしくて仕方ない｣
「私は子供じゃないっ！！」
　とりあえずやかんをコンロにおいて、火をつける。流し台の上を見るに、どうやらお茶でも淹れようとしていたらしかった。
　そんな中でも翡翠の腕にくるまれたままの幸鷹はばたばたと短くなった手足を暴れさせて、なんとか翡翠の腕から逃れようとしている。大人の姿ならともかく、今の姿では死に物狂いで暴れたところで、船乗りだった翡翠の腕から逃れることは不可能だ。
「放せっ！　翡翠っ！！」
「お茶なら私が淹れるから、ソファに座っていなさい。今後のことも話さないといけないだろう？｣
「それは……そうですね……」
　今度は打って変わって大人しくなる。
　というよりは落ち込んでいるのか。
　それはそうだろう。いきなり目が覚めたら、子供の姿になっていたのだ。幸鷹はもっと混乱していてもおかしくない状況である。
　ただ昔から波乱万丈な人生だったので、耐性があっただけのことだ。
　異世界に飛ばされたり、記憶を封印されたり、元の世界に戻ってきたり……今度は子供の姿になってみたり。
　見ている分には楽しいが、本人はたまったものではないだろう。
「……………」
「幸鷹……」
　腕の中の小さな幸鷹は顔をうつむかせて黙り込んでいる。
　もしかしたら泣いているのだろうか、と翡翠が顔を覗き込もうとした途端、幸鷹が勢いよく顔を上げた。
　意志の強そうな大きな黒い瞳に迷いはない。
「今日はとりあえず授業は休講するしかないな。あとは花梨殿に連絡を取ってみよう。何かわかるかもしれない｣

　………つ、強い。
　伊達に修羅場はかいくぐっていないようだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　とりあえず大学に連絡をして休講にしてもらい、花梨には相談したいことがあるので彼女の学校が終わったら連絡をくれるように頼んだ。
「お前は仕事に行かなくていいのか？｣
　幸鷹はその小さな手のサイズにそぐわないティーカップを両手で持って、目の前のソファに座って同じように紅茶をすすっている翡翠に問い掛ける。
「ああ。特に今日は約束もないし、問題ないだろう。透夜が今からくるから、そのあとで店のほうに行くよ｣
　透夜というのは翡翠の仕事仲間らしい。
　幸鷹が聞いた話だと、どうやら透夜は翡翠の仕事の雑用の類を一切合切やっているようだ。何度か会ったことがあるが、無表情でやたら平坦なしゃべり方をする青年。アジア系の顔立ちをしているが、純粋な日本人ではない気がした。
「私のせいで……迷惑をかけているな｣
　その沈んだ声に、翡翠はティーカップを口から離して、幸鷹に微笑む。
「いや、楽しませてもらっているからお互い様だろう｣
「楽しませ……って、お前はこの状況が楽しいというのか！？｣
　落ち込んだと思ったらすぐに可愛らしい眉を吊り上げて怒り出す。それがまた翡翠を楽しませることになるのだが、本人は気づきもしないでぷんぷんと大人のときよりも丸みを帯びた頬を膨らませている。
「今一時だけだったらそれでもいいかもしれないが、この先ずっとこのままだったら困ったことになるだろう！？｣
「たしかにね……その姿のままじゃ、さすがに私も何かをする気にはなれない」
「何か……？　っひ、ひひひ翡翠！！！！」
　もう幸鷹の顔は怒りのあまり真っ赤である。
　子供のほうが体温が高く、大人のときよりも血行はよさそうだ。だがほどほどにしないと頭に血が上りすぎて倒れてしまうだろう。
　それでも怒っている間は、少なくともこの先のことへの不安は感じずにすむだろうが……

　ピンポーンと、ホームフォンが鳴る。マンションの入り口のキーは教えておいたので、どうやら透夜が部屋の前に到着したらしい。
　ドアを開けると紙袋を持った透夜がいつものように無表情で立っていた。
「おはようございます。言われたものをお持ちしました」
　青年は淡々と業務をこなすかのように感情のない声で言うと、手に持っていた紙袋を翡翠に差し出す。だが、翡翠はそれを受け取らずにドアを大きく開けてにっこりと笑ってみせた。
「ああ、ちょうどお茶が入っているから上がるといい。面白いものが見られるかもしれないよ｣
「はい」
　興味も何もなさそうに二つ返事で透夜は翡翠のあとについて部屋に上がりこんだ。
「ほら、服が届いたよ｣
　リビングの中に向かって声をかける翡翠。
　その声に振り向いたのは、ソファに座ってお茶を飲む子供だった。身体にまったく合っていない大人物のシャツの袖をまくれるだけまくって身につけている。やたらと大きな黒い瞳が翡翠と透夜の姿を映し……そして。
「ひっ翡翠！！　私の姿を見られたらまずいだろう！！｣
「そんなに心配しなくても誰も信じやしないよ｣

　怒り出すその子供。
　見た目よりもしっかりとした口調。
　翡翠と仲は良好のようだ。
　そして透夜が出した結論は……
「透夜、この子誰だと思う？｣
「翡翠！！」
　怒ると判っていながら、翡翠は子供の身体を抱きかかえて楽しそうにしている。そして、その目が透夜に答えを期待しているようなので、透夜は口を開いた。

「あなたの子供ですか？｣