うーん、うーん、うーん……
　幸鷹は困っていた。
　今日は一日家にいるつもりだったのだが、翡翠が自分の店まで幸鷹を連れて行くと言い張ったのだ。もちろん、一人で留守番くらいできると、頑固な幸鷹も言い張ったのだが、何分この小さな身体ではトイレに行くだけでも人の手を借りなければいけない。
　どう考えても一人でこの部屋に残すには危なっかしいということで、翡翠は幸鷹がこの部屋に残るなら自分も今日は休むと言い張った。
　さすがにそこまではさせられないので、渋々幸鷹は出かける準備を始めたのだった。
　服は透夜が用意してくれたものを着て、ようやくぶかぶかのシャツから解放される。ただ半ズボンなのはどうも落ち着かないのだが、文句を言えた立場でもない。
　メガネの方はさすがにないが、子供のときの視力は大人になってからよりも良いようで、裸眼でも困ることはなかった。
「幸鷹、準備は出来たかい？｣
　リビングから幸鷹を呼ぶ声がする。
　できた、といえばできたのだろうが……
　幸鷹は目の前の荷物を見て小さい頭をちょこんと傾げた。

　資料の分厚いファイルが２冊。
　ノートパソコン。

　以上が今日の持っていく道具である。問題はこれをどうやって運ぶかということなのだが。この手では勿論運べるはずがない。
　いつもの感覚で何かしようとしても、この小さくて非力な手では失敗するのみだった。それだけで悔しくて憂鬱な気分になる。翡翠を相手にしている間はいつもと変わらないので、特に気落ちはしないのだが、こうして一人になるとやはり気が滅入った。
　おそらく翡翠はそういうことも含めて、自分を外に連れ出そうとしているのだろうが……
「幸鷹、荷物はそれだけかい？」
「え、ええ」
　部屋に顔を出した翡翠が幸鷹の前に並んでいるファイルとノートパソコンを指して訊いてきたので、小さな頭を縦に振る。
　すると翡翠の横から透夜が出てきて長い体躯を折り曲げると、ファイルとノートパソコンを両腕に抱えた。
「お持ちします｣
「あ、ありがとう…」
　やはり何の感情もなさそうな声で、透夜は幸鷹の荷物を抱えると先に部屋から出て行く。彼は自分の名前が幸鷹であると知っても、何の反応も示さなかった。翡翠の子供という誤解は翡翠の絶対零度の笑みで溶けたようだが、幸鷹に関して特にそれ以上訊こうともしない。
　どこか泰継に似ていると思ったのだが、透夜の無感情さはそれ以上だった。泰継はそれでも疑問に思ったことはすぐに口に出したし、無感情というほどではない。
　まぁ、下手に詮索されないのはありがたいか。
　翡翠も他人には話せないような過去を持った男だし、透夜のような男が一番ありがたい存在なのだろう。
「さ、行くよ｣
　ひょいっと幸鷹の身体を軽がる抱っこして、翡翠は大股で歩き出す。
「降ろせっ！　一人で歩ける！！」
「服は用意したけど、さすがに靴はないから我慢しなさい｣
「うう〜…」
　まだ納得してない様子でぷっくりと頬を膨らませる幸鷹を抱えて、翡翠は部屋を出るのだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

「あれ？　翡翠さんお出かけですか？｣
　部屋のドアを閉めたところで、近くから声がかかった。優しそうなしゃべり方に、面影。黒目がちの大きな両目にはメガネをかけて、真面目な印象の青年。
「鷹通、おはよう。そう、これから仕事でね｣
　おそらく彼も家事を終えて、今度は手伝いをしている喫茶店に向かうのだろう。その喫茶店の店主はやたら翡翠に気に触る男で、鷹通の同居人でもある。
「そうですか、頑張ってくださいね。……そちらの子供は……？」
　翡翠の腕の中の幸鷹は、さすがに気まずそうに翡翠の肩にしがみついて鷹通の顔を見ないようにしていたのだが、鷹通のほうはそんなことを知る由もなく興味を持ったようだった。
「ああ、抱っこしてみるかい？｣
　と、幸鷹の身体をひょいっと鷹通のほうへ向けて差し出す。
「翡翠っ！！！」
　またしても怒った幸鷹は翡翠の長い髪の毛をつかんで引っ張った。その小さな身体を受け取った鷹通は苦笑する。
　小さな手は翡翠の髪の毛をつかんだまま離そうとしないし、その大きな両目は楽しそうにしている翡翠の顔をにらみつけていた。
「ああ、お父さんのことが好きなのですね。離れたくないようです｣
　またしても誤解。
　今度ばかりは翡翠も怒るわけにはいかず、ははは、と乾いた笑みを浮かべるだけだった。
　そんなに私に子供がいるように見えるのだろうか……
　うーん、たしかにこんな子供だったらいいかもしれないが……
　まさか自分に似たりしたらそれは嫌だし……
　と、考えてもどうしようもないところまで翡翠の妄想は進んでいっていた。
「私はこんな奴好きじゃないっ！！」
　と、別のところを気にして怒る幸鷹は、まだその小さい手に翡翠の髪をつかんでいた。
　ぐいぐいっ！
「いたた……」
「こら、そんなことをしてはいけませんよ」
　優しく諭すように鷹通は幸鷹を叱る。
　さすがの幸鷹も彼には何も言い返せないで、その手につかんでいた髪を放した。まだその柔らかそうな頬をぷっくりと膨らませているところが、翡翠の笑いを誘う。
　鷹通の手が幸鷹の頭をいい子いい子するように撫でたときには、もう翡翠は我慢ならなくなって、思い切り吹き出した。
「くくくっ」
「翡翠！！！！」
「？」
　笑う翡翠と怒る幸鷹の様子に、鷹通はわけがわからなくて首を傾げる。
　しかし元の姿の幸鷹と鷹通も性格こそ違えど、結構似通った顔立ちをしているが、こうして鷹通とその腕に抱いている小さな幸鷹という二人の姿は、歳の離れた兄弟そのものだ。
　見ていて大変に微笑ましい。
　もちろん、幸鷹だけは不服そうだったが……

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　ブルブルブルブル………
　幸鷹の小さな手が割り箸を持ったまま小刻みに震えている。
　その顔はうつむいたまま真っ赤になっていて、何とも形容のしがたい表情だった。
「幸鷹、食べないのかい？｣
　その声は身体の後ろから。
　翡翠の店の奥にある仕事部屋には翡翠の仕事用のアンティーク調の大きな机と椅子があるのだが、その他にも来客用のソファとテーブルがある。
　店に入ってすぐの応接室よりも、奥のほうが広くて立派なのは翡翠らしい。
　ただ、ソファとテーブルの高さが、小さい幸鷹には合わなくて床のカーペットに座り込んでファイルを見たり、ノートパソコンを打ったりしていたのだが、食事ばかりはそうもいかない。
　おかげで今の状況なのだが……

「早く食べないと冷めてしまうよ？｣
「頭の上で、うるさいっ」
　そうなのだ。今、幸鷹は翡翠の膝の上に座っている。
　おかげで恥ずかしいやら、落ち着かないやらというところなのに、さらに目の前に置かれた昼食に怒っていいのやら困っていいのやら複雑だった。
　お椀の形に盛られたチキンライスの真ん中には、国旗がプリントされた紙がついている爪楊枝。
　ハンバーグ、ほうれん草のソテー、そしてとどめはデザートのプリン……

　―――――お、お子様ランチっ……

　用意してくれたのは透夜だった。事情を知らない彼のことなので、怒るわけにもいかない。あの無表情のままこれを作ったと思うと、おもしろいような気もするのだが今の幸鷹はそれどころではなかった。
　せっかく自分のために作ってくれたものを、無駄にするような真似は幸鷹には断じて出来ない。仕方なく幸鷹は割り箸を持つのだが、これも手のサイズに合わなくてうまく持てなかった。
　それでもなんとか箸を使って口の中にぱくりとチキンライスを含む。
「どう？　おいしいかい？」
　おいしかった。
　うーん……意外な特技というか……
　とりあえず見た目がお子様ランチだということを除けば、非常においしく満足のいくものであった。わざわざ翡翠の下で働かなくとも、いろいろ特技があるのだから十分一人でやっていけそうだと思うのに。
　まぁ、あの無表情を考えればちょっと無理かもしれないか……。

　そんなことを考えながら食べていると、翡翠が近くからティッシュを二枚ほど取り出して幸鷹の口の周りをぬぐい始める。
「ほら、考え事をしてるから、顔にご飯を食べさせてるよ｣
「んぐ……」
　小さな幸鷹を膝に乗せて、その口元を拭く。二人を知っている者から見れば、驚くほどに仲良くなったと思うだろうが、当然幸鷹は子ども扱いされて膨れている。
　いつもどおりに食べているつもりなのに、口が小さくて入りきらずに横にケチャップが付着してしまうし、箸も長くて使いづらいことこの上ない。だからといってプリン用のスプーンで食べるのもチキンライスならともかく、おかずなどはつらいだろう。
　お子様ランチは小さくなった幸鷹の身体に丁度いい量で、お手製のプリンを食べ終わるころには心地いい満腹感があった。

　食べ終わると翡翠の膝の上から隣の席に移され、今度は翡翠が昼食を取る番だ。
　見計らったかのようなタイミングで透夜がお盆に皿を乗せて、翡翠の昼食を運んでくる。トントンと次々に皿を置いていくのだが、それを見て翡翠が低い声を思わず漏らした。
「……透夜……」
「では、失礼します｣
　置かれた皿は３つ。
　一つはチキンライスがお椀型に盛られている。いや、その大きさはお椀ではなくどんぶりに近かったが。その上にはやはり国旗つきの爪楊枝。大人用のチキンライスの量に対して、その国旗は小さかったが問題はそこではない。
　あとは大きなハンバーグと、大量のほうれん草のソテー。
　そして……小さい幸鷹の顔ほどもある巨大プリン……。
　言うなれば大人ランチ、というものだろうか。

「出されたものは残さず食べましょうね｣
　隣であどけない表情でにっこりと笑う幸鷹。
　今までの仕返しとばかりに、楽しそうに微笑んでいる。
「あ……」
　―――これだ。
　見たかったのは。
　昨日アルバムで見つからなかった、幼い幸鷹の笑顔。
「早く食べないと冷めますよ？｣
「あ、ああ…」
　すぐにその笑みは消えて、いつもの生真面目そうな表情に戻った。もう少し眺めていたかったが、幸鷹がいつまでも自分に対して笑顔でいるはずもない。
　写真に残しておけばよかった、とも考えるがそれこそ幸鷹が笑ってくれるはずもなかった。

　うーん……
　でもまぁ、自分だけがこの笑顔を見られたのならそれでもいか。
　と、翡翠は結構単純だった。