−ため息のクローバー//前編−
「ご主人様に食事を作らせるとは何事ですか！」 ぱぁん、と衝撃とともに鳴り響く音。 目から火花が散るとはこういうことだったのかと、当のルークは不思議と冷静だった。いや、というよりも自分が突然どうしてぶたれたのか状況が分かっていない。 「使用人として恥を知りなさい！」 ひりひりし始めた頬を押さえながら、目の前にいる人物がどうやら誤解していることを悟った。宮殿へ行く時は一応正装に近い格好をしているが、住んでいる邸ではそこまで気を遣った格好をしていない。料理を任されるようになったルークは昼食を作っていたから、今エプロンを身につけている。自分を親善大使と知らなければ誤解するのも無理はないかもしれない。 突然叩かれたのだけは納得がいかないが、妙な迫力に圧されているのも事実だった。 なんというか口を挟む隙もない。 「ジェイド様、このような者即刻解雇なさってください」 どうやら自分はクビになるらしい。 背後に立っていたジェイドがくすくすと笑いながら、ルークの前に進み出た。今日は非番で一緒に厨房に立っていた彼もまたエプロンを身につけている。 「残念ですが、それは出来ないのです。この方は使用人ではなく、キムラスカ・ランバルディア王国の親善大使ルーク・フォン・ファブレ子爵ですので。まあそう見えなくても仕方ないのですが」 「見えなくて悪かったな」 最後にわざわざ余計なことを付け足した男にルークは口を尖らせて抗議する。そんなものが通用する相手ではないが。 しかしルークの頬を叩いた人物は「まあ…」と口元を手でおさえると、みるみるうちに表情に影が落ちていった。他国の親善大使に暴力をふるったばかりか、無礼なことまで言ってしまったのであれば仕方ない。 「それは大変申し訳ございません！」 青い顔で謝る人物にルークは苦笑する。 自分が誰であれ、あんな行為はするべきではないし、態度を一変させても説得力に欠ける。しかし昔の自分も似たり寄ったりだったかな、と思うと怒る気にもなれない。 「いいって。それよりも中に入ったらどうだ？ ジェイドのお客さんだろ」 玄関に立っているのはティアやナタリアとそんなに歳が変わらないだろう女性。 着ているものは上等な布で作られたドレス。すくなくとも帝都とはいえその辺の街娘が普段着るようなものではない。それを違和感なく着こなし、使用人の扱いに慣れているのであれば貴族なのだろう。門の外には馬車を止め、執事風の男が汗を拭きながら立っていた。 口調といい雰囲気といいどこかナタリアに通じるものがある。だからそんなに見知らぬ他人という感じがしなかったのだろう。 「名乗るのが遅れました。私はクレマチス侯が娘イクシアと申します」 侯爵の娘といえばそれなりに身分が高いものである。たしかに彼女は気品に溢れていたし、貴族の娘の見本そのものといったような感じだった。 礼をするその仕草も優美なものだ。 しかしジェイドの知り合いにしては歳が離れているように思えるし、ましてや軍人にも見えない。一体どんな用事があるのかさっぱり見当もつかない。 その疑問は続く彼女の言葉ですぐに解けた。 「――ジェイド様の許嫁でもありますわね」 ああ許嫁。 自分とナタリアのようなものだということだろう。 その役目はアッシュに譲ってきたけれど。 「……え？」 やっとそこまできて彼女の言葉の意味がどういうことなのか把握できた。 ジェイドの許嫁ということは、そのうち彼と彼女は結婚するということ。 結婚して、父と母のように夫婦となるわけだ。 いや、結婚というのはそもそもそういうものである。 男と女が婚姻の誓約をするということ。 「ルーク、すみませんが私は外に出てきます。昼食は一人で食べてください。作りかけのものは夕食にでも完成させますので」 エプロンをはずして上着掛けに掛けると、ジェイドは振り返りもせずに外へ出て行く。イクシアと名乗った女性の腰に手を回して馬車のほうへ階段を下りていった。 何も言えないまま立ち尽くすことしかできなかったルークは、彼女に続き馬車に乗り込んでいくジェイドを見送るしかない。 引き止めることもできない。 引き止めたって何もいえない。 自分はキムラスカの親善大使、彼はそのお目付け役の軍人。かつては旅の仲間だったが、それにしても彼に何かを制限する権利を持たないのだけは確かだった。 扉を閉めてからルークは昼食を作りかけの厨房ではなく、自分の部屋に向かう。 一人で食べてくれといわれても、何となくそんな気にはなれなかった。 非番の日は大体一緒にいて、一緒にご飯を食べている。 特に約束をしているわけではなかったけれど、いつもそうなっていた。だから怒る理由もないのに、何故か胸の辺りがもやもやとしてどうしようもない。食欲など一気に失せてしまった。 覚悟はしていたつもりだったのに。 そばにいればいつかこうなるかもしれないと分かっていたつもりだったのに。 自分と違って地位も名誉も家族もある彼。 何もないどころか人間ですらない自分。 それでもそばにいたくて、ここまできた。 邪魔になるようだったら去るつもりでいたけれど、いざとなったらそんなこともできない。ここにいたくて、そばにいたくて、淋しく思う自分がいる。 「はーーーーーーーーーーーーー」 ベッドに転がると、大きなため息をついてぼふっと羽根枕に顔を埋める。 幸せにしてやるのが自分の役目だと思っていた。 自分に出来ることなら何でもしようと思っていた。 なのに結局自分は何も出来ていない。ジェイドが何かをしてくれといったり欲しがることは一つもなかったから、毎日ただ一緒にいるだけ。 彼女ならもっと何かあげられるのだろう。 子供は無理でも、パートナーとなることが出来る。それを周りに認めさせることが出来る。結婚が出来るということは、最期まで彼のそばにいられるということ。 「……いいな……」 二度も死を選んできた自分だけれど、次があるとしたらやはり彼のそばがよかった。 けれどその望みはとんでもなく遠いところにあって。 手の届く場所にはない。 せめて肉体が女だったら。 せめて普通の人間だったら。 ないものねだりと分かっていても、望まずにいられない。 未来のなかった以前はそんなことで悩む必要がなかったのに。生きてここにこうしているだけでありがたいと思うべきなのに、つまらないことで悩んでいる。 自信満々に啖呵切って国を出た割に情けない。こんな姿をアッシュに見られたら怒鳴られるだろう。 もう戻れない場所。 自分はこの道を進むしかない。 ―――苦しくても。 ■ ■ ■ カタ、と階下から音がしてルークは勢いよく顔を上げた。 部屋は真っ暗になっていたから、もう夜なのだろう。鳥目ではあるものの手探りながら部屋の入り口までたどりつきドアを開ければ、帰って来たジェイドがスイッチを入れたのか廊下は譜石の灯かりが満ちていた。 階段を上ってくる音が聞こえなかったので、まだ下にいるはずのジェイドの姿を探す。 一棟しかない邸だからそれなりの広さはあるが、それでも行き違いになるような構造にはなっていない。もう夜だから浴室だろうか、と通路の分かれる玄関できょろきょろしていると、片方の通路の先にある部屋からジェイドが姿を見せた。 出て行ったときと全く変わらない様子に少しだけ安堵する。 「おかえり、ジェイド」 「昼食の支度の途中ですみませんでした。今見たらそのままになっていましたが、食べなかったんですか？」 「ああ、うん。面倒くさくなって…」 「夕食もまだですね」 「ジェイドはあの子と食べてきたのか？」 「昼食はいただきましたが、夕食はまだですよ。ちょうどいいからあれを完成させましょう」 上着掛けからエプロンを手に取ると再び身に着けて厨房へ向かう。 何事もなかったかのような態度はルークの心を安堵から不安へと変えていく。気にしなくていいのだろうが、彼女と結婚をすることになれば非番だからとこんなふうに四六時中一緒にいることは出来ない。 きっと自分のそばにはいない。 「ルーク？」 厨房で作りかけの料理の入った鍋を片手に持っているジェイドのエプロンのすそを思わずつかんでいた。 どうしたのかと自分の名を呼ぶ彼の表情は優しい。 でもそれは自分だけに向けられるものではない。 欲しくても、欲しがってはいけないものだ。 「何かあったんですか」 「あ…その、だな…」 歯切れ悪いルークの言葉に、ジェイドは微笑んだまま次の言葉を待つ。 嫌味なところは何もない、ただ笑っている彼。 多分、心配しているのだろう。挙動不審な自分のことを。それくらいには想われてると自惚れている。 「いつ…結婚するのかなって」 「ああ―――気になりますか？」 気にならないはずがない。 今の生活が壊れるのが怖かった。嫌だった。 だから、いつまでか分かっておけば心の準備くらいは出来るだろうと思っていた。今自分がどんな顔をしているかも分からない。ちゃんといつもどおり笑えているだろうか。 幸せになって欲しい人だから。 祝福しなきゃならないのに。 ……無理だ、まだ。 ルークはつかんでいた手を放すと、ふいっと踵を返す。 顔の筋肉が引きつりそうで彼のほうを見ていられない。 「結婚祝いとか用意しなきゃならねーし。みんなにも知らせてやんねーと」 「………」 ジェイドが黙ったまま鍋を元の位置に置く。 声だけは明るさを装ったつもりだが、何かおかしかっただろうか。おそるおそる背後を振り返ると、あたたかな笑みが絶対零度の笑みに変わっていた。 まずい。 思うのと同時にジェイドから距離を取ろうと足が動いている。 よくわからないけれど、彼の機嫌を損ねてしまったようだ。 「つまりルークは私の結婚を祝ってくださるんですね」 ズキン。空腹なだけで身体の調子は悪くないのに、胸の辺りが突然痛む。こんなときはおめでとうと言うべきなのだろうが、それだけは茶化すようにしても言えなかった。 「…めでたいことだろ。幸せになるためにするんだろ、結婚って」 どう頑張ったって、自分には出来ないのだ。 結婚して彼を幸せにすることは出来ない。 怒りたいのはこっちのほうだ。そうしたところでただの八つ当たりにしかならないと分かっているから、自然と泣きそうな顔になる。 「その認識は間違ってませんよ。たしかにそういう側面もあります。親が勝手に決めた許嫁の場合はあなたも知るとおり、ほとんど政略結婚ですけれど」 「でもあの子はお前のこと好きそうだったぞ。だからここまで来たんだろ」 ジェイドを見る目つきで分かってしまった。 彼女はこの男が好きなのだ。許嫁だからなのか、その前なのかなんて分からない。でも今日が初対面でないことは確かだし、今までだって付き合いがあったのだろう。 何も知らなかったのは自分だけ。 ジェイドに恋人がいないことは知っていたけれど、許嫁がいるなんて聞いていない。 「結婚するんだろ！」 そうわめきながらも、本当は期待していた。 結婚などしないと。 ここからいなくならないと。 否定してくれることを望んでいた。 「―――ええ」 彼の返事は肯定だった。 ルークは顔をくしゃりと歪めて厨房を、邸を飛び出していく。とにかく彼から離れたかった。今口を開いたら、余計なことを言ってしまいそうで。 おめでとうなんて、絶対言えない。 言いたくない。 |