−ため息のクローバー//後編−



　ぺたぺたぺた。
　ぺたぺたぺたぺた。

「おいおい、なんだよルーク。誘ってるのか？」
　胸を服の上から撫で回された男が目の前にいるルークの身体を抱き寄せようとしたが、するりとかわして身を離す。本人はまったく意識していないのだが、男にしてみれば宙を切った手が虚しい。
「やっぱりねーよな」
「何が？」
「胸」
　ルークは真面目な顔だが、発言を聞いたピオニーは目を丸くする。
　突然宮殿に泊めてくれといわれて何も訊かずに了承した皇帝であったが、さすがにこの発言には驚いた。ルークよりも一回り大きな身体で胸があったら困るだろう。
「ジェイドが女と浮気でもしたか？」
「っ！！」
　目に見えて顔をこわばらせたルーク。それでは是といっているようなものである。単純さこそが彼らしいといえなくもないが、傷ついた顔にピオニーは罪悪感を覚えないでもない。
　図星を容赦なく突いてしまったようだ。
「う、浮気じゃねーよ。俺とジェイドは別にそんなんじゃねーし」
　それでもルークは強がって頬を膨らませる。大きくなったとはいえそんな仕草はまだまだ子供だなぁ、とピオニーは自分の子供の成長を見守るような視線を向けたが、ふと何か引っかかるものを感じた。そしてその原因に気づくと思わず声をあげてしまう。



「―――はぁ？！」



　叫び声でもないから私室に誰か飛び込んできたりもしないが、ルークはなんだなんだとピオニーを不思議そうな目で見る。
「ちょっと待てよ。お前ら何か月も一緒に暮らしてて一体何してたんだ？」
「何って……普通だよ」
「そんなことじゃねーだろ。キスとかセックスとかしてねーのか」
　包み隠すことを知らぬ皇帝の言葉にルークの顔が見る見るうちに赤くなっていく。そしてそれはピオニーの言葉を肯定しているようなものである。
　ピオニーははあああぁぁぁ、と盛大なため息をついてソファに身を沈めた。
「…キスはした、けど……だから俺とジェイドはそんなんじゃないって！」
　ともに旅をしていたころ、二人は少なからず深く交わっていたはずだ。ジェイドが他人の存在を必要とするところは初めて見たから、いい傾向だと思ってそばにいられるようにしてやったのだが。しかしあの男が何か月も何もしてないなんて、悪い病気か何かではないだろうか。
　ピオニーがちょっとでもルークにちょっかいを出せば、すぐに不機嫌になるくせに。
「大体、ジェイドには婚約者がいるだろーがっ」
「婚約者ぁ？　あ、クレマチスのとこの嬢ちゃんか。へー、まだ諦めてなかったんだな」
　ルークは自分で言っておきながら傷ついた顔になり、さらにピオニーが否定しなかったことで落ち込んだようだった。どうやらここへ飛び込んできた原因はそれだったらしい。
「……俺、やっぱここに戻る。ジェイドが結婚するんだったらあの邸はあいつのものだし……」
「もう国のものにしたけどな。しかし結婚ねえ。あいつの身体のこと聞いてないのか？」
「子供が作れないってことなら聞いてるけど…」
　自分のことを話すことが嫌いな幼馴染がそこまで話すとは珍しい。やっぱりルークは特別なのだな、とピオニーは笑みを深める。
　昔から本気の人付き合いは不器用だったと懐かしく思いながら。
「だから結婚は難しいだろうな。子供なんていらないっていう相手が見つかったとしてもだ、そのことが周りに知られればジェイドだけじゃなくて、相手まで巻き込むことになる。貴族ってのは体面が大事みてーだから、どこの家も可愛い娘を嫁がせたりしないだろ」
「でも……」
　さっきの行動といい、今の行動といい、自分に自信がないのだろう。
　ルークの生い立ちや過去を考えればそうなるのもわからないでもないが、ピオニーにしてみればそんなことくらいでめげてもらっては困る。
　ジェイドにもルークにも幸せになってもらいたい。
　真実を知れば、よく知らぬものはみんな彼らを責めるだろう。無論罪は罪。それを否定するつもりもないが、取り返しのつかないことをしてしまった彼らは自らを責め続ける。
　だから強く出ることが出来ないのだ。
　離れることも出来ないくせに。
　見ているほうの歯がゆさなど知るまい。
「ルーク、お前は女になってジェイドと結婚がしたいのか。そりゃあないものねだりってものだぞ」
「ち、ちげーよ！」
「お前がそのまんま受け入れてもらえなきゃ意味がないだろ」
　その存在のままでいい。
　他の誰かの代わりが欲しいわけでもない。
　代わりなど誰もなれないと一番分かっているのはルークだろう。身代わりの完全同位体として生み出されたルークが知らないはずがない。
「怖いか？」
「……………」
　いい傾向だと思う。
　ルークは少しばかりいい子になりすぎだ。
　嫌われたくない。
　必要ないと思われたくない。
　誰もが持っている心だろうが、過去のことがあって彼はそれを必要以上に恐れている。特に相手が自分にとって大切な存在であればあるほど、怖くなるのは道理だ。
　失いたくないから。
　ピオニーはふと失敗した過去のことを思い出して目を細めるが、ルークは気づかずにこちらを眺めている。

「――ちゃんとケンカしてこい。怖いのはな、お前がジェイドのこと何も知らないからだ。ちゃんと向かい合ってケンカして、あいつのこともっと知れば怖くなんてなくなるさ」

　もっと早いうちにケンカをしておけばよかった、そんなふうな後悔だけはして欲しくない。親子ほども歳の差のあるピオニーは自分の今までの経験を糧に助言をする。歳を実感するのはこんな時だろう。
　ソファから立ち上がるとぽんぽんとルークの頭を大きな手のひらで軽く叩いてやった。
「まあ、もし駄目だったら俺と結婚するか」
「あんまいい冗談じゃないぞ、それ。でもありがとう」
　問題が解決したわけではないが、少しだけ元気が出たのかルークは口元に笑みを浮かべてみせる。以前はどこか儚げだった笑顔も、今はそんなものを一切感じさせない。自分に自信はないようだが、どこか吹っ切れてもいるのだろう。
　距離を置こうとはしても、逃げようという気は全くないようだった。
「陛下は結婚しないのか？」
「ん、俺？　相手がいなくてなー」
　お家騒動で親族のほとんどが死んでいる。娘を皇后にと差し出してくる貴族も少なくなかったが、自分の子供を不幸にするつもりかと一度恫喝してからというもの、逆らってまで嫁を取らせようとはしなかった。それくらいに一時は宮中は荒れたのだ。
　そんなこと露ほども知らぬルークはまたしても冗談だと思ったのだろう。
「すぐ見つかると思うけど、陛下なら」
「そんなこと言うとルークに本気になるぞ」
「え……遠慮します」
　ぱっと身を翻して部屋を出て行くルークを苦笑しながら見送る。
　親友の恋人を奪おうとするほど、自分に情熱はない。少なくとも今は。けれどもこの先は分からないから、くれぐれも油断しないほうがいいだろう。
　本気になったら自分でもどうするか分からない。
　ピオニーはふと目を細めると青年が出て行ったドアから視線をそらす。


■　　■　　■


　邸まで戻ったはいいものの、どうしようかと玄関の前でうろうろしていると、中から扉が開かれてルークはびくっと身構える。
　もちろん出てきたのは元邸の主。
「……あ、ただいま……」
「――――――」
　時間も経ったし、少しは機嫌も直ったかと思えば、前にもまして不機嫌そうに冷えた目をルークへ向ける。まったく怒りがとけてなくてしょんぼりとするが、扉を開いて待っていてくれているあたり、追い出すつもりはないのだろう。
「いつまでそこにいるつもりですか」
　慌てて中に飛び込むと、ジェイドが扉を閉めて鍵をかける。
　重たい空気は変わっていないが、また宮殿へいくわけにもいかない。自分にはしなければならないことがあるのだ。ちゃんと向き合うところから始めよう。
「あなたは親善大使ですよ。護衛もつけずに夜ふらふらと一人で出歩くとは、少し軽率すぎると思いますが」
「あ、悪い。それは俺が悪い。ごめん」
　早々に謝ってしまえばジェイドはそれ以上怒る必要もない。というよりも、素直に謝られて少し意表を突かれた様子である。腕を組んで構えていたのだが眼鏡の位置を直す仕草をして、誤魔化すようにその場から去ろうとする。
　ここぞとばかりにルークは握った拳に力をこめた。
「次からは気をつけてください。風呂の準備が整ってますから、すぐ入れますよ」
「――ジェイド」
　遠ざかろうとしていた背中がぴたりと動かなくなる。
　まだ怒ってるかもしれない。
　けれどジェイドは感情を隠すのが上手だから、何事もなかった振りを明日にはするだろう。そうしたらまた繰り返すだけなのだ。
　自分の感情と彼の感情はまったく違う。だから知りたいのだし、知らなければいつまでもこの距離は縮まらない。
　――怖い。
　相手のことを知るのと、自分のことを知られるのは同義だ。
　もしも自分を受け入れてもらえなかったら、否定されたらと思うと怖くて何も言えなくなる。
　それでも、信じたいから。
　彼が自分のそばにいることの意味を。



「ケンカ、しよう」



　予告をしてからケンカをするものなどそういないし、売るのならともかく共同作業かなにかのように誘う人間などもっといない。ジェイドはルークの言葉の意味を把握するまでに一瞬の間を要した。
「…なんですかそれは」
「そのまんまだよ。俺がさっき怒った理由を言う。だからジェイドも何で怒ってるのか教えてくれ」
　ジェイドはずり落ちたメガネの位置をまたしても直しながら、やれやれと嘆息する。とりあえず逃げる気はなさそうだったから、ルークはすうと息を大きく吸い込んでから口を開いた。
「俺はジェイドが結婚するのが嫌だったんだ」
　そしてその理由も今なら分かる。
「ジェイドのそばにいられなくなるのは嫌だ。ジェイドがそばにいないのも嫌だ。あの子とか、他の奴がジェイドと一緒にいるのも嫌だ……っと……」
　しまったと思う。
　もう少し整理してから言うべきだったかもしれない。
　これではまるで駄々をこねる子供のようではないか。
　ルークが他にもっと言い方はないかと口をパクパクさせてると、ジェイドは口に手を当ててこらえきれずに噴き出す。
「え、えーと、そうじゃなくって……」
「嫌だばかりでは分かりません。どうして欲しいんですか」
「ああ、そっか。ジェイドにそばにいて欲しいんだ」
　我慢しきれなくなったジェイドは声をあげて笑っている。
　ケンカするつもりでいたのに、一体どこからおかしくなったのだろうとルークは首をかしげるが、とりあえずジェイドの不機嫌そうな様子がなくなったのでいいことにする。しかし今度は逆に面白がっている男の様子が気になった。
「いつまで笑ってんだ！　今度はお前の番だぞ！」
「ふふ……もう怒る理由はないんですけど」
「ダメ。何で怒ってたのか言えよ！」
　これでは自分ばかりわがままを言っているようではないか。
　ジェイドのことが知りたいのに何も分からない。
「ルークが私の結婚を祝ったからですよ」
「は？」
「多分理由はあなたと同じです。あとは自分で考えなさい」
　そう言ってジェイドは再び背を向けて歩き出す。
　残されたルークは考えなさいといわれたので、一人考え込む。
　結婚を祝って何で怒られなければならないのか。普通ならば喜ぶところなのに。

　理由は同じ……そばにいて欲しい？

「そっか……そういうことか…」
　そばにいたい相手から祝われたら、そばにいなくていいと言われているようなものだろう。怒るのも無理はない。もしかしたら傷だってつけてしまったかもしれない。
　馬鹿なことをした。
　自分に嘘をついて笑うんじゃなかった。
　ジェイドのことを知る努力をするべきだった。
　慌てて後を追いかけると、行き着いた先は食堂。テーブルの上には完成された料理が並んでいたが、どれも冷め切っている。
　料理はちょうど二人分。
「ジェイド」
「食べるのならあたため直しますよ」
「食う、けど……このままでいい」
　椅子に腰を下ろすと手を合わせてからナイフとフォークを手に取り、冷えたロールキャベツを口に運ぶ。噛むと中から肉汁としみこんだスープがじわりと口の中に広がった。シェフの味にも負けていないと思うのは気分的なものだろうか。
　向かいに座ったジェイドも静かに食事を始める。
　二人分準備をしていて、玄関まで出たということは探しに来ようとしていたのだ。そう考えるとここにいてもいいのだと思えて自然と笑みがこぼれる。

　怖いのは一緒。
　怒るのも一緒。
　そばにいたいのも一緒。


「またケンカしような」


　ジェイドは夕食を口に運ぶ手を止めると、ふっと息をこぼして微笑んだ。

ケンカすらぎこちなく。
えと、まだ引っ張ってますね、実は(笑)