−嫉妬02−
閉められるドア。 残される二人。 拓朗は騒ぐタイミングを失ったようで、上体を起こすとぼりぼりと首筋をかいている。慎は床にぺたりと両手を突いて座りこんだまま動けなかった。 ドアの向こうで、もう一枚のドアが閉められる音が聞こえる。 慎の部屋の向かいは諒の部屋であるから、着替えるために中へ入ったのだろう。おそらくは何事もなかったかのように。 出て行け、と口に出して言ってくれたほうがまだいい。 それはそれで傷ついたけれど、無視されるよりはずっとマシだ。 「おい、慎？」 「……なんだよ……」 ごしごしごしごし。 シャツの袖で力任せに唇を拭う。 汚いとかそういうことではなく、ただ嫌なだけだった。誰かに触れられるのを拒んだだけだった。諒としか触れ合ったことのない場所に触れた、それがとてつもなく嫌だった。 拓朗だって好きで触れ合ったわけでもないから、そんなことで傷ついたりはしない。変な現場を友達の家族に見られて誤解されてしまった、どう取り繕ったものか必死で探している最中だった。 「ちょっと俺、あの人に話して……」 「いいよ！ いいから……ごめん。今日は帰って」 そんなことしたって、諒の態度に変わりはない。 もともと兄は自分と洵を追い出そうとしていたのだ。 慎がどこで誰と何をしていても構わない。それはここから出て行っても同じこと。十年間顔を見せもしなかったのはそういうこと。 「呼び出しておいて悪いけど…」 「それはいいけどよ」 先に立ち上がると拓朗を見送るために、閉められたドアを開ける。目の前のドアは慎を拒むかのように閉まったままだ。 今すぐ諒に言い訳したい。それから問い質したい。 ぐっとそれをこらえて階段を下りていく。 「慎兄ちゃん、拓朗さん、ただいま」 階下には今帰宅したらしい洵がバッグを肩に下げて立っていた。 おかえり、と反射的に口にした慎の顔を、大きな瞳でじっと見つめてから、慎の背後にいた拓朗に視線を移す。 「拓朗さん、お願いがあるんですけど」 「ん、なんだ？」 「今晩寮に泊めてもらえませんか」 それを聞いて慎は黙っていられない。 これまでそんなことを言い出したことはなかったのに。泊まる先が学校の寮であれば、拓朗もめぐみも、寮監の戌井もいるから安心ではあるが、突然すぎてついていけない。 「何言ってるんだよ！」 「別に俺はかまわねーけど…」 「じゃあ、支度してくるから、少し待ってて」 おい洵、と声をかけるが本人は慎を無視して、階段をとんとんと軽やかに上がっていく。 慎の考えていることがもしかしたら分かったのかもしれない。 そんな弟の能力に気づいたのはいつだったか。もともと隠し事のあまり出来ない性格であったから、慎はそれを素直に受け入れてそばにいられた。 今は諒に対しての怒りがあるから。 だから気遣って、そんなことを言い出した可能性が高い。でもそれを問い詰めることは拓朗の前で出来ない。みんながみんな、慎のように洵を受け入れられたら、東京の学校でいじめられることはなかったはずだ。 拓朗を信頼していないわけではないけれど、自分が今話していいことではない。本人が判断するべきことだろう。 「…………」 「慎、いいのかよ？」 止めたい。 慎と諒のもめごとに洵まで巻き込むつもりはなかった。 ここに残ることと、寮へ泊まること、どちらが巻き込まずにすむだろう。迷っているうちに、デイパックを背負った洵が部屋から出てきた。 「じゃ、行ってくる」 「……ごめん」 巻き込んで。 どちらにしたって洵に迷惑をかけたのに変わりはない。 「ケンカするほど仲がいいって言うじゃない。僕、別に心配してないよ」 やっぱり、洵は気づいている。 拓朗と一緒に出て行く洵を玄関から見送ったあと、慎はどうしたものかと吹き抜けのある天井を見上げた。 『誰とどう付き合おうがとやかく言うつもりはない』 慎が拓朗とキスをしていた現場を見ての、諒の感想。 別に拓郎でなくても、慎が誰とどうしていようとかまわないということ。 キスは特別に好きな人とすることと教えてくれたのは諒なのに。 これまで諒としかしたことなかったのに。 なんで……なんでそんなこと言うんだ。 帰ってきてから笑わなくなった諒。出ていけの一点張りで、自分と洵を遠ざけようとする諒。 変わってしまったのだろうか。 この十年の間に、自分は特別ではなくなったのか。 「…………」 慎は自分の唇を指でたどる。 触れた記憶はまだ新しい。拓郎ではなく、諒と。 自分から仕掛けても拒んだりしなかった。病気で苦しんでいたときは諒のほうからしてくれた。 それは誰とでも一緒？ 自分以外にもするのか？ もう慎にだってキスの意味なんて分かっている。いつまでも子どものままじゃない。 ただ、自分の気持ちを認めていいのかわからなくて、拓郎に相談してみたけれど。この気持ちが本物なら、諒は慎にとって特別。 友情じゃなく、兄弟愛というだけでもない。 それだけじゃすまされない感情。 飢えるように相手を求める欲望。 「アニキ、いるんだろ」 二階へ戻ると諒の私室の部屋のドアを拳を横にして、どんっと叩きつけた。先ほどの怒りはまだ冷めていないということを示すために。 「――静かにしろと言ったばかりだろう」 出てきた諒は制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンをはずして、ネクタイも緩めている。これから入浴でもするつもりなのか、太いフレームの眼鏡も今はない。そうして見れば少しだけ相手の武装がおろそかになった気がして、慎は強気になることが出来た。 けれど相手は諒だ。 感情的になっている慎を見ても、顔色一つ変えない。 本当に腹が立つ。 全部諒のせいなのに。 半分は八つ当たりとわかっていても、感情を抑えきることができない。ずいっと胸を張って慎は諒の部屋へと足を踏み入れる。 「何の用だ」 わからないのか。 どうして怒っているのか。 というか、怒ってもいいのは諒のほうだ。 「キスして」 切れ長の諒の目が、わずかに見開かれる。そんなにも意外だっただろうか。 十年前の別れのときは届かなかった。 けれど今は顔を上へ向ければ、そこにすぐ諒の顔がある。 背伸びをすればすぐにでも触れられるほど、近く。 「…………」 互いの呼吸が肌をかすめる。 それほどまでに近いのに、諒は身動きもしなかった。 「彼と付き合っているのに、他人とそういうことをするのは感心しない。不誠実な人間は嫌いだ」 ――他人？ 「お前もその歳なら、行動に責任を持て」 いつもと変わらない硬い口調。 その中で聞き捨てならない言葉を耳にした。 ぷちん、と慎の中で何かが切れる音。と、ともに諒のシャツの胸元をつかむと、ぐいっと引き寄せ、まだ小言を放とうとしている口を自分のものでふさぐ。 「――――」 他人？ 生まれたときからそばにいたのに？ 一緒に暮らしているのに？ そもそも条件付でキスを許したのは諒なのに。 あのころは中学生だっただろうか、いくらなんでもキスの意味を理解してないはずがなかった。 今更だ。 事故だろうと、過去に何があったとしても、揺るがない。 最初にキスをした相手と言う事実は変わらない。 何年経っても、何処にいたって変わらない。 「…責任取るのは、兄ちゃんのほうだろ！！」 |
これ、どう終わればいいんだろう…と思いつつ