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■Ｆｉｎａｌ　Ｄｉｓｔａｎｃｅ■―後編―　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

「え？　日本に帰る？」
　ハワード邸で幸鷹を迎えてくれたシャロンに、帰国の旨を伝えると彼女はただ驚いた顔を見せる。そしてそのあとには眉を寄せて淋しそうな表情を。
「はい。しばらくはこちらに戻れそうにないのでお別れを言いに来たのです」
「そう……淋しくなるわね。で、いつ帰るの？」
「準備が整い次第です」
「そんなに早く？」
　荷物も元々物持ちのいい幸鷹は多くはなかったし、住むところが決まるまではホテルかウィークリーマンションを借りるつもりなので、当座の着替えだけがあればいい。それに資料や書物の類も必要なものだけ抜粋してまとめるだけだ。
　研究者にありがちな物を溜め込む癖も幸鷹にはなかったので、準備はすぐに終わるだろう。
「でもヒスイはすぐに動けないでしょう？　ショーの企画も出ているし」
　ショーのことは初耳だったが、どうせ彼には関係のないことだ。
　幸鷹は微笑して首を横に振る。
「彼はこちらに残りますから」
「…………え……」
　日本へ帰ると言ったときよりも、一層シャロンは大きな瞳を見開く。
　すぐには何を言ったのか理解できないようだった。
「ヒスイは帰らないの……？」
　その言葉は正しくない。元々翡翠は日本で生まれて育ったわけでもなんでもないから。
　彼が帰る場所、といえばあの世界だろう。
「ええ」
　翡翠にはまだ何も伝えてなかった。
　それを伝えたときの反応を想像するだけで不安になったから、口に出すことができずにいた。もう成人してだいぶ経つというのにこの青臭さはなんだろうと自分でも嘲笑するしかないが。
　まだ彼との距離を測りかねていた幸鷹は足踏みをすることしかできなかった。
「一緒にいたくないの？」
　ストレートなシャロンの問いには苦笑するしかない。
　一緒にいたい、と思っても駄目なのだ。
　彼は誰にも捕まえられないから。
　どこまでだって追いかけるとは言ったものの、実際こういったしがらみからそれはできない。ましてや彼を捕まえることなどできないことくらい長い付き合いで知り抜いていた。
　たとえ日本へ帰ってもここへ来れば翡翠はいる。
　それで十分だった。
「１日たりとも離れていられないほど、彼に依存はしてません」
　シャロンはさらりと綺麗なブロンドの髪をかきあげて、それでもまだ曇った表情のままスリムジーンズを身につけた長い足を組みかえる。
「……そう言うならそうしてみればいいわ」
「シャロン？」
　気に入らないという態度を隠す様子もなくシャロンが挑戦的な目を幸鷹に向ける。当然、そんな反応が返ってくると思っていなかった幸鷹はややしりごむことになった。
　戸惑う幸鷹を横目に、シャロンは花が咲いたように満面の笑みを浮かべる。
「ユキタカ、日本でも頑張ってね」
「え、ええ……」
　別れの挨拶というにはやたら好戦的な口付けを頬に受けて、ぎこちなく微笑みを返す。
　彼女の妙な自信はいったい何なのだろうか。

　幸鷹がその意味を知るのは少し先の話になる……

■■■

　必要な荷物はしばらく幸鷹が泊まることにした日本のホテルに送るようにし、残りの荷物は宅配業者に一字預かってもらい、住居が決まり次第送ってもらう手はずを整えた。
　あとは空港に向かうだけ……なのだが。
「ふぅ……」
　翡翠は家を留守にしていた。今日だけではない、先週からずっと泊まりの仕事となっていた。おそらくはシャロンの言っていたショーの準備だろうか。
　おかげで彼に知られることなく日本へ帰る準備を整えることができたのだが、まさか帰るその日まで彼が戻ってこないとは思わなかった。
　幸鷹は腕時計を見つめてため息をつく。
　しばらく会うこともないのだから、一目くらい見ておきたかった。
　その姿を焼き付けておきたかった。
　その声を耳に残しておきたかった。
　その髪に触れておきたかった。
「……時間だな」
　時計の針が無情にも出発のときを告げている。
　もう少し、もう少しと引き伸ばしたのだが、これが限界だった。
　電話の隣においてあるメモ帳に、『しばらく日本へ行く』という一言だけを書いてテーブルの上に乗せる。他にも何か言いたいことがある気がするのだが、こういうときに限って言葉は浮かばない。
　……何を迷っているんだ。
　二度と会えないわけじゃない。
　ここ帰ってくれば彼はいるのに。

　未練を吹き飛ばすように、幸鷹はぶんぶんと首を横に振る。そしてスーツケースの取っ手を思い切りつかんで歩き出した。
　日本へ戻ってからやることも山積みなのだ。
　翡翠のことなどかまっている時間はない。
　そう振り切って幸鷹は意識的に彼の事を考えないようにすることにしたのだった。

「はあ……」
　ホテルのセミダブルのベッドに持っていたキャリングケースを投げ出すと、幸鷹はふかふかのソファに沈み込むようにして座った。
　畳で眠ることに慣れていた幸鷹は、アメリカでも固いマットを好んで使用していたのでこのホテルのベッドは不慣れで落ち着かない。
　それにソファがここまで安定しないというのも、休息をとるためならいいのだろうが仕事をするには不向きだろう、といらないことばかり考えていた。
　そんなつまらないことでしか気を紛らわせることができなかったのだ。
　部屋の隅にある電話が視界の片隅に入って、幸鷹は目を細める。
　まだ日本に来て十日しか経っていないというのに……
　この部屋の何倍広い家に二人だけで住んでいても平気だったというのに、どうしてこんなさして広くもない部屋が淋しく感じられるのだろう。
　広い……いや、自分が小さくなっただけか。
　この部屋が大きいのではなく、自分が小さくなっている……
　大の男がホームシック？
「ふ……」
　唇から自然とゆがんだ笑みがこぼれた。
　人に言われるよりも自分が弱いことなどとうに知っていたのに、どうしても翡翠の前では虚勢を崩せなくてこの様か。
　ソファから立ち上がって備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルを引くと、一気にあおるようにして飲む。そうして飲み干した缶をゴミ箱に投げ入れると、次の缶を開ける。
　こんなことで気がまぎれるとは思えなかったけれど、それでも何かせずにはいられなかった。
　酒で嫌な事を忘れようとするなんて、初めてかもしれない。
　宴や飲み会などでそういう人物を蔑視していた自分が。
　……情けない。
　こんな自分は知らない。
　こんな情けなくて弱い自分は知らない。
　ただ一人の人がいないだけで泣きそうになってる自分は知らない。
「……バカだな……」
　彼がいなかったら、私の些細なプライドなどないも同然なのに。
　何も行動しないで後悔するよりも、できる限りの事をして後悔するほうがずっといい。
　それで傷ついたとしても、きっと納得できるから……

　もう遅いけれど……
　シャロンの妙な自信もこうなることを見越していたのだろう。
「…けほっ」
　冷蔵庫の中を空にせんとばかりにゴミ箱に瓶や缶がたまっていく。それでも呑むのをやめられないのは、どこまでも愚かな自分を自嘲する意味もあった。
　そして記憶をなくすほど呑めば、少しは楽になれるかもしれない。
　この半身が欠けてしまったような喪失感から、逃れたかった……

■■■

「大丈夫ですか?」
　大学の助教授室、幸鷹にあてがわれた部屋で、見かねた生徒が医務室から持ってきてくれた錠剤を口に放り込む。それを水で流し込むが、すぐには薬の効果などあらわれるはずもない。
「……すみませんでした」
　およそ先生が生徒に対する口調でないのは、相手が特別な生徒だったからだ。
　デスクにひじを乗せ、頭を抱えるようにした幸鷹は薄く目を開いて目の前にいる少女を見る。赤毛の少女は出会った頃よりも表情が少し大人びてきてはいたものの、その瞳や意思はちっちも変わりなかった。
　龍神の神子としてかつて幸鷹や翡翠がいた『京』を救った少女。
　偶然にも学部は違えども同じ大学に在籍していたのだった。
「今日はもう帰ったほうがいいですよ」
「……午後にも一つだけ授業がありますから…」
　今日はあとそれだけだったので、まだ痛む頭を抱えつつそれに耐えているのだった。
　二日酔いだなんて同情の余地もない。まさかそんなことで大学を休むわけにはいかない、と真面目な幸鷹は真っ青な顔をして出てきたのだが、午前の授業を1回やっただけで倒れそうになっていた。
「逆に言えばあと一つしかないんですよね？　だったら帰って休んでください。休講っていうのは先生の特権ですからね！　生徒に迷惑がかかると思っているんでしょうけど先生たちだって人間なんですから、こういうときのための当然の権利ですよ」
　すごい理屈だ。
　どう考えてもそんな道理はないのだが、彼女に強く言われてはそれもありかなどと思ってしまうのは何故だろう。彼女の言葉には人の心を動かす力があるということか。
　痛む頭を抱えつつも幸鷹は苦笑する。
「もう！　笑ってる場合じゃないでしょう！　顔が真っ青ですよ。車を呼びますから今すぐ帰って休んでください。いいですね？」
　こういうときの女性に逆らってはいけないことくらいは分かる。
　そうと決めるとてきぱきと動き出す花梨を見ながら微笑ましく思う。こんなふうに自分の事を心配してくれる人物というのはそう多くはないから。
「翡翠さんがついていればこんなことにはならないのに」
　！

「彼は関係ないです｣
　しまった……
　こんなあからさまな反応を示しては、彼女は疑問に思うに決まっているのに。一応仕事があるから自分だけ日本へ帰って来たと言ってあるが、いらぬ詮索をされては翡翠に黙っていたことが露見してしまうだろう。
　そうなればまた彼女は怒るに決まっているのだ。
　怒られても仕方ないか……
　その結果がこれでは何を言われても仕方ない。
「幸鷹さん、翡翠さんとケンカでもしたんですか？｣
　ケンカのしようもない。黙って出てきてしまったのだから。
「…いえ。彼とは別に何もありません｣
「ならいいですけど」
　半分はまだ疑っている様子だが、これ以上いらぬ心配をかけることもないと、幸鷹はそれ以上何も言おうとはしない。
　言ったところで、どうしようもない自分をさらけ出すだけだ……
　これ以上惨めな思いをするのはごめんだ。

「では、お先に失礼します｣
「気をつけて帰ってくださいね｣
　しっかりとした足取りとは言いがたいが、とりあえず彼女が呼んでくれたタクシーへと向かって幸鷹は歩き出すのだった。

■■■

　大学からそう距離はないが、この体調の中歩いて帰れるほど近くはないホテル。新しい住まいの方は話したら花梨が用意してくれるとのことだったので、その準備が整うまでこのホテルを借りたままにしていた。
　荷物を持たない幸鷹はホテルのフロントの人々の挨拶を横目にそのままエレベーターに乗り込む。
「……はぁ」
　薬のおかげで頭痛はおさまっているものの、体も重い。頭も重い。
　そして気も重いとあっては三重苦だった。
　寝たら二日酔いは少しは覚めるかもしれないが、気分が晴れることはないだろう。
　睡眠薬でも処方してもらおうか、とも考える。以前に倒れたときのように最近また眠りが浅くて、夜中に何度も目を覚ましていた。
　カチャン。
　カードキーでロックをはずすと幸鷹は滑り込むようにして部屋に入る。
「はあ～……」
　誰の目も気にしないでいいので、盛大なため息をついた。
　このままベッドに倒れこみたいが服を着替えなければ……
　と、ネクタイに手をかけたときのことだ。

「ずいぶんと大きなため息だね｣

　誰もいないはずの部屋から声がした。
　部屋の掃除に来たホテルの清掃係だろうか、とも考えるのだがそんなわけはない。ホテルの人間が客の部屋でしかもソファにふんぞり返って堂々としているわけがない。
　それにいくら二日酔いだからって、こんな昼間から幻聴や幻視の類でもないだろう。
　カタ…。
　カーペットの上に持っていたキャリングケースが音を立てて落ちる。
　目はこれ以上開けないくらい大きく見開かれていて、口は声を失ったかのようにぽかんと開けたままずいぶんと間抜けな面相になっていることだろう。
「ど、どうして………」
　そこまで言うのが精一杯だった。
「どうして？　ああ、ここにいるのかってことかい。ここのホテルはジョンの持ち物だからね、彼から今日1日だけこのホテルを買い取らせてもらってマスターキーを使ったんだよ。日本人は相変わらず権力に弱いな」
　ひ、非常識な……
　そもそも幸鷹はそんな事を聞きたかったわけではないのだが、本人は知っていて話をそらし余裕の笑みを浮かべている。
　その見慣れた笑みを。
　………面白がっている。
　彼の姿を見た瞬間から、二日酔いの頭の重さは吹っ飛んでしまった。ただ、今の状況に眩暈がしそうにはなっていたが。軽くこめかみをを右手で押さえ、ずれてもいないメガネをくせで直そうとしてしまう。
　……どう考えても彼は今の状況を楽しんでいる。
　今度は別の意味で頭痛がしてきた。これは気分的なものなので、薬などでおさえきれるものではない。
「……お前はアメリカにいるはずだろう。何故ここにいる｣
　なるべく抑えた声で話そうとしているのだが、口の端が引きつり始めているのが自分でも分かる。
　だがそんな様子にかまうこともなく、ソファから投げ出していた長い足を床について立ち上がり、入り口に突っ立ったままの幸鷹の方へ歩み寄ってきた。
「おやおや、綺麗な顔がむくんでしまっているね」
　手が頬に触れた途端、恥ずかしくなって顔を背ける。しかし逃げることは許さないと言わんばかりに、片手を腰に回し、もう片手でそらされた顎をつかみ幸鷹の体を押さえつけてしまう。
「っ放せ……」
「別当殿らしくないね。自分をなくすほど呑むなんて｣
「うるさい！」
　男の厚い胸板に手をついて離れようともがくが、男はびくともしない。それどころか幸鷹の髪に頭をうずめて笑みをこぼす。
　この男は知っていてここに来たのだ。
　幸鷹が二日酔いになった理由も知っていて、それでからかっているのだ。
「大体どうしてここに私がいると知ってるんだ！」
「ああ、協力者がいるからね、私には。ふふふ……」
　そこで浮かぶのはシャロンと花梨の顔だった。おそらく二人ともこの男に情報を喜んで、というか自ら提供したに違いない。
　裏切り者……ここにいない二人に少しだけ怒りを感じるが、二人とも幸鷹の事を考えた上での行動だと分かっているからこそ、その憤りは行き場をなくしてすぐに消えてしまう。
　そしてこの男に会えて嬉しいと思っているのに、やはりこうして直面してしまうと素直になれないのはもう仕方ないことなのだろう。
　この男が自分を苛立たせるせいだ、と人のせいにしてしまっても、この男は気にも留めないに違いない。
　……まったく。
　遠いと思っていた距離は意外にも近くて。
　あれだけ悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってくるではないか。
　もう見えない距離に悩まされるのはごめんだ。彼は手を伸ばせばすぐ触れられる距離にいるのだから。

■■■

「何を聞いたが知らないが、私はお前に会いたいなんて思っていなかった！」　
「ぷっ」
　自らそんな事を言うのは、そう思っていた証拠ではないか。
　それに胸の中でそんな真っ赤な顔をされても、まだ否定しようとする態度は素直じゃないというか、意地っ張りというか、強情というか。
　こらえきれずに吹き出してしまうほど、この部屋に忍んで現れた翡翠は愉快な気分だった。
　幸鷹が寂しがり屋だということくらい、伊予にいる頃から知っている。頭の回転も速いし、大人びたところもあったがそれでもやはりまだ精神的に未発達なところとの微妙なバランスが、幸鷹に興味を持たせた原因だったのだ。
「はいはい。私が会いたくて来たのだよ｣
「え……？」
　翡翠の口から出た言葉に腕の中の幸鷹は、部屋に現れたとき同様その大きな目を零れ落ちんばかりに見開いている。
「と言えば、君はもう逃げないのかな｣

「………だ、誰が逃げたというんだ！｣
　その一言に驚くほどの反応が返ってくる。
　まぁ、それも見越しての発言だったのだが。
　黙って家を出て行った事を知ったときの自分のショックに比べれば可愛いものだろう。
　ここまで自分を振り回せるのは、あの世界でもこの世界でも幸鷹と花梨くらいだろう。しかし、彼女に振り回されるのは自分の興味ある範囲だけだ。
　幸鷹の場合、自分の世界そのものまで振り回してくれる。
　誰かを振り回すことはあっても、振り回されることはなかったというのに。
　それも無自覚なのが始末に終えない。

「翡翠！　聞いているのか！？」
　ぐいっと肩から流れ落ちた長髪を幸鷹は遠慮なく引っ張った。
　そしてこんなふうに振り回されている自分が、それほど嫌いじゃない。
　これは重要なことだった。自分の気に入らないことはどうあってもやらない人種なのだが、彼に振り回されるのは構わないとある。
　つまりは、こういう関係を結構気に入っているようだ。
「一つだけ言っておくよ｣

　いつもはからかうような翡翠の声に少しだけ真面目な意図を感じ取ったのか、腕の中の幸鷹は大人しくなって真っ直ぐに視線をぶつけてくる。
　何だろう、とためらいもなく人の目を真っ直ぐに見られる人間は少ないだろう。その視線に翡翠はにっこりと微笑んで見せる。

「私は大人しく獲物を逃すような真似はしないのだよ｣

　その言葉が理解できなかったのか、幸鷹は大きな瞳をきょとんとしてしばし考え込む。
　だが彼がその答えを出す前に幸鷹の唇を自分のそれで封じてしまうのだった。酸素が供給されなければ思考はまとまりにくい。
　さらにこうした行為が幸鷹の思考の妨げになるのは当然分かっていた。
　幸鷹も素直ではないが、自分もかなりひねくれているかもしれない。
「……ん……」
　かすかに漏れた幸鷹の吐息に、翡翠は瞳をうっすらと開く。
　今の言葉をこれからゆっくりと理解してもらおうじゃないか……

　そうして翡翠の復讐は達成されるのだった。

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