紅楼藍海…間章 ■
| 今、空を落ちたのは流星か？ それにしては妙に心がざわざわする。 どことなくいてもたってもいられないような焦燥感。 「…ここは立ち入り禁止にしてください。もしも宮様の使いだ、と言う者が来たらその者だけ通してください｣ 幸鷹は検非違使たちにそう言って石原の里の警護を固めた。 気乗りはしないが、相手は皇族。 むやみに逆らうわけにもいかず、こうして部下を引き連れ宮の客人とやらを出迎えに来たわけだ。 荒くれ者だとは聞いたが、他には情報は一切ない。本来なら聞くべきであろうが、あの宮に限って素直に言うとは思えなかったし、幸鷹も不愉快な思いをしてまで会話をしたくはなかった。なので早々に宮の願いを聞き届け、用事を済ますに越したことはない。 こうして石原の里で準備を済ませたときには、さっきまでの暗雲が嘘のように晴れていた。 さっきのは何だったのだろうか。 今の京の民や貴族たちの末法思想に沿うような暗星。 あれが、京のすべてを滅ぼすのか？ 「……私らしくもない…」 川の水面を眺めながら、幸鷹は一人漏らす。 どうやら周りの雰囲気に徐々に自分も流されつつあるようだ。 自分だけはああはなるまいと思っていたのだが。あんな他力本願な思想は幸鷹の最も嫌悪するところであった。 自分で何かしなければ、事態は好転などしないのだ。 自分から動かなければ、何も見えない。 あきらめたらそこで終わりなのだ。 さらさらと流れる川辺で、幸鷹は一人座り込んで水面を覗く。 ずいぶんと疲れた顔をしている。 仕方のないことかもしれない。 ここしばらくゆっくりと休む暇もないほど、幸鷹は事故処理に追われていた。強盗や殺人、放火などの事件が耐えなく続き、その調査やら報告などで空き時間もなかなか取れないほどだ。 こんな世の中に唯一の救いが『龍神の神子』と呼ばれる姫。 院の御所で今は祈りをささげる少女。 みんなはそう信じている。 幸鷹自身は信じていなかったが、民や貴族たちがそれで心穏やかになれるのなら、それだけでもいる価値はあるだろう。 偶像崇拝にすがりついてでも救われたいと思えるうちはまだいい。 何も信じられず、他人を傷つけるよりは。 昔、自分にも覚えのある感情だ。 何も手段が残されていないと、味方もいないとそんな状況で唯一幸鷹が取れた行動は、憂いを根源から断ち切ることだ。 ある一国を任された幸鷹は、前任の者たちの悪政により民の信頼も、何より民も失ったままの土地に赴任することになった。 民たちも最初のうちは幾度となく期待をしていたのだろう。国守が変わればきっと良くなると。だが、願いもむなしく続いてくる国守はただ民を虐げていった。民は耐え切れず土地を離れ海へと向かうことになる。 一度離れた心はちょっとやそっとでは戻ってこない。 幸鷹はあきらめずに呼びかけるが応える者はいない。いや、応えるどころかその呼びかけすら耳に届いてはいないのだろう。 そんな幸鷹に、周りには馬鹿にしたような笑みしかない。何をしても無駄なのに、前のまま民のことなど放っておけばいいではないか、と。前の国守たちに寄り添うようにして甘い密をすすっていた者たちは一様に幸鷹をあざ笑う。 「取引をしよう」 現れた一人の男の提案を呑んだ。 もう他に打つ手がなかったのだ。 平穏無事とはいえなかったが、国の膿を出し切り事態は収束した。民たちは約束された土地に戻ってきて、海賊の数も激減した。 幸鷹の心に傷を残して。 今でも海や大きな川を見るたびに思い出すあの男。 忘れたいのに忘れることも出来ない。 恩人でありながら、天敵。 彼が自分を憎むように仕掛けたのがわかっていながらも、憎まずに入られないこの感情。 このどろどろとして鬱屈とした感情をどこにも吐露できないまま、今日まで幸鷹はきた。 ただ憎しみだけならきっと楽になれたのに。 もう二度と会わなかったら、いつかは薄れていくとだろうか。 水面に手を伸ばし手を川に入れてみる。川の流れに沿うようにして幸鷹のしなやかな指先に水があたる。 この流れにこの腐った感情を流してしまえたらいい。 自分に絶望していた。 あの時と同じように。 どうにも出来ない状況に、どうにも出来ない自分が歯がゆくて。 京も救えないどころか、自分自身すら救えない。 何も出来ない…… 「身投げでもするつもりですか？」 背後から声がかかった。 あの時と同じように。 「………どうして…貴方が……」 二度と会わないと思っていたのに。 二人の道は決して交差することはないはずなのに。 なのにどうして彼はここにいるのか。 会いたかった…… 会いたくなかった…… きっと自分は情けない顔をしているだろう。 泣きそうで、でも泣くことは出来ない。 相反する感情をこの胸に持っていたから。 「翡翠…殿………」 彼に伝えたかった。 彼ならば答えをくれるはずだ。 何から伝えればいいのかわからなかったが、それでも何か言いたくて。 口から漏れたのは掠れたような声と彼の名。 あのときのように答えて欲しかった。 翡翠はただそんな幸鷹を見ていた。 振り返り、自分に懇願するような目つきで見上げてくる幸鷹の大きな黒い瞳。 苦しんでいることはすぐにわかった。 自分の求めているのは、きっと救いか絶望か。 極端なものであるから問うことも出来ない。 どうして彼がここにいるのか、訊きたいのは翡翠のほうだった。宮からの使いだと聞いたのにどうして彼がここにいるのか。 京に赴くときに、ふと面影が脳裏に浮かんだが、広い都で、まさか身分も程遠い彼と接触する可能性は皆無に等しかったのに。 こんなことなら来るのではなかった、そう後悔しながらも自分が彼に会いたかったという気持ちも否定はできない。 会って、なおさらに。 「………久しぶりだね、国守殿」 だから傷つけた。 もう一度、昔の傷をえぐるように。 未練の残らぬように。 「………次に会った時は、貴方を海賊として追捕すると言ったでしょう｣ だから傷ついた。 もう二度と、彼に傷つけられぬように。 自ら傷を見せて、彼に傷つけさせた。 彼にはもう私を傷つけることはできない。 これ以上の痛みなどないのだから。 「そうだったね。でも私を今追捕はできないだろう。用件をすまそうか｣ 「……ええ。私と宮様の元まで来てもらいましょう｣ 「断るよ｣ そして検非違使別当と、海賊は冷たい視線を絡めあった。 「貴族の馬鹿馬鹿しい命令に従う義務は海賊にはないよ」 「………では、どうあっても駄目だというのですね｣ 「交渉は決裂した。これ以上の話し合いは無駄だろう｣ 互いに一歩も譲らずににらみ合う。 河の流れる音と歯のこすれる音。 そんな中、二人はたったまま動こうとはしない。 「では、これより貴方を海賊として追捕します｣ 幸鷹がためらうこともなく翡翠に向かって言い放つ。 その言葉にはもう憎しみしかなくて。 横目で草むらに視線を向けた翡翠は、そこに隠れていた人物に腕を伸ばす。 翡翠の腕にとらわれたのはまだ幼き少女。大きな瞳をさらにくりくりと丸くさせていて小動物を思わせるところがある。 「きゃあ！」 「……どうしてここに人が？」 第３者の乱入に、幸鷹も驚きを隠せない。たしかに部下たちを配置して人払いを済ませておいたはず。さらに翡翠が来る前にここら辺には人はいなかった。 この少女は一体…、と幸鷹が思うとともに翡翠が不敵な笑みを浮かべる。 「君には貸しがあるはずだよ。一度は見逃しなさい。さもなければ、この子の身の安全は保証しないよ｣ 「く……!」 二重に痛いところを突かれては、幸鷹に打つ手はない。 「…わかりました。ここは引きましょう。次に会うときは覚悟してください｣ 次に会うときには手加減はしない。 もう憎むことにも躊躇しない。 だから振り返らずに幸鷹は歩き出す。 この少女を中心に、自分と翡翠の道が交差することなどまだ知らぬまま……。 |
冬の新刊｢紅楼藍海｣の先行ＳＳです。
本の中では第４部とＥＤの間にはさまる
ことになります。ネタバレはちょっとだけ。
気になる方は、まぁ見てください、と(ＣＭ？)