最終決戦を前に、ビュッデヒュッケ城は今までにないほど人で溢れ返っていた。
　ゼクセンの銀の乙女、または「炎の英雄｣と呼ばれる女をリーダーに、士気は高揚し続けている。そんな中での出来事だった。

「クリス様、本当に大丈夫ですか？」
　英雄であるクリスの従者・ルイスがその大きな栗色の瞳で主の顔を覗き込む。まだ成長途中の少年の背は彼女よりも頭一つ低くて見上げる形になる。
　主の方はといえば、もともと白い肌をしているのだが今日は白いを通り越して青白い顔色をしていた。ルイスでなくとも彼女の顔色を見れば心配になって当然だろう。それでも白粉でなんとか顔色の方は人並みにごまかしているのをルイスは知っていた。
　相も変らぬ太陽の下、城の庭を歩くクリスの姿はどこか儚いものを感じさせる。
「……大丈夫だ。あとは兵舎を見回ってから書類整理だな」
「最近忙しくなってくるにつれて、食事の量も減ってるでしょう？　今朝だってコロクの餌よりもクリス様の食事のほうが少なかったんですよ！？｣
　……何もコロクの餌と比べなくとも……
　そう思ったが、今少年が自分に訴えていることの本質とは何の関係もないことなので、突っ込みは控えておくことにした。
「心配かけてすまない。でも大丈夫だから……う…ぐぅ！」
　と言った矢先に青い顔をしたクリスは口元に手を当てて、その場にかがみこんでしまう。胃が熱くなりそこから押し上げてくるのは、コロクの餌よりも少ないクリスの朝食だろう。しかしまさかこんなところでそれを吐き出すわけにもいかず、クリスは口を抑えたまま立ち上がるとふらりとした足取りで茂みに向かって歩き出した。
　ルイスはといえばそんなクリスを心配そうな目で見ながらも、その場にいても邪魔になるだけと判断して、城の中の医務室に向かってその早い足で駆け出す。

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　そしてクリスが自室に運び込まれると、その部屋のドアの前は黒山の人だかりとなった。
　もちろん真っ先に駆けつけてきたのは六騎士の面々である。彼らを先頭に騎士団の非番の面々、旅の途中で仲間になった者たちと割合男性が多いため、やたらとむさくるしくなっていた。
「クリス様がお倒れになったというのは誠か！？｣
「真っ青な顔で息も絶え絶えだったときいたぞ！！」
「危篤じゃないのか？！」
　段々情報も尾ひれがついていってるようで、城の２階の城主の部屋のドアの前から人は溢れかえり、階段の下までその列は続いていっている。
　入り口の扉も開かれていることから、どうやらそれは外までもずらずらとつながっているらしい。

　そしてみんなが険しい表情をしている中、ようやく城主の部屋のドアが開かれた。
「と、トウタ殿、クリス様のご容態は！！！」
　らしくもなく、どもりながらサロメが焦った様子でトウタに詰め寄る。しかしトウタはニッコリと笑って何も答えず、続いて出てこようとしたミオをかばって、ドアを静かに閉めた。
「命に別状はありません。ただししばらくは絶対安静です。みなさんもこんなところで騒がないで持ち場に戻ってください｣
　そんなことを言われても誰も納得はしないだろう。当然どよどよとざわめきが立つ中、トウタはミオを庇いながら人ごみを掻き分けて階段を降りていく。
　医師の守秘義務から、トウタはおいそれとクリスのことについては口に出来ないのだ。
「命に別状はないって言われても……」
「絶対安静って……」
「一体どんな病気に……」
「クリス様〜〜！！」
　がやがやと大の男が雁首をそろえて情けない声をあげている中、2階のエレベーター乗り場から赤いドレスを着、化粧をした女性が降りてきてボソリと声を出した。

「どうやらあれはつわりのようね」

　ざわざわざわざわ！！！！
　伝言ゲームのようにそれが瞬く間に広がっていく。
　階段の方向にも、階下にも、入り口の外に溢れている者……
　……そして扉の前にいる六騎士たちにも。

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　な、なんだろう……
　ちょっと偵察に行って戻ってきてみれば、城門の兵がいきなり刺すような視線を送ってきた。しかし何か恨みを買うようなことをした覚えもない。
　彼の彼女に声でも掛けたかな〜…と、呑気に考えながらも、殺意のこもった視線を送ってくるだけで無害そうなので、ナッシュはへらへらと笑ってそのままボロボロの城門から中へと足を踏み入れる。
　どうやらいつも城門に立っているセシルは休憩時間のようだった。彼女の懸命な姿を見れば、少しは気が和むだろうに。

「う………！？」
　さすがにナッシュは城内の異様な雰囲気に足をとめた。
　な…なんでどいつもこいつも自分のことを睨んでいるのだろうか。
　また新聞にでも変なスクープ記事が載ったのだろうか。あの時もクリスに誤解されて大変な目に遭ったり、ナンパしても断られたりと散々だった。
　にしたって、今回のこの数は尋常ではない……。特にゼクセン騎士団連中の目は釣りあがり血走って、今にもナッシュに飛びかからんばかりである。
「…ナッシュさぁ――――ん」
　城の方向から駆け寄ってくるのは褐色の肌の小柄なカラヤ族の少年・ヒューゴ。
　さすがに彼の前ではナッシュに飛びかかろうという輩はいないらしく、少し遠巻きにヒューゴがナッシュに近づいてくのを見守ることにしたようだった。
　小柄な少年は見たとおり身軽な姿をしているのでこの程度走っても息切れをする様子もなく、ナッシュの前に立って少し言いづらそうに顔をそむけている。もともとヒューゴ少年のように健全で素直な精神の持ち主は、ナッシュのようにどこか胡散臭い男を苦手に思うだろう。チシャ村での一件のあとも、ヒューゴは自分の言った言葉を真摯な態度で考え、やがて自分からクリスを庇ったことに礼を言った。
　そういう素直な心はどこに置いて大人になったんだろうなぁ…
「あの…ナッシュさん……」
「なんだい？」
「クリスさんが倒れて……」
「クリスが？｣
　それを聞いてナッシュは顔色を変える。近頃あまり顔色がよくないと思って心配していたのだが、さすがに炎の運び手のリーダーともなると、おいそれとハルモニアの間諜が近づくわけにもいかない。いくらハルモニアと炎の運び手が一時的な協力体制になったからといって、一人で会うわけにはいかない相手だった。
　放っておけば無茶ばかりするからなぁ。
「それで容態は？」
「命に別状はないけど、絶対安静だってトウタさんが言ってました｣
　なんだ、とようやくホッと胸をなでおろす。
　しかし、それならばヒューゴは何故こんな気まずそうな顔をしているのだろうか。
「それで……あの……」
「うん？」
「クリスさんのところに行くようにと、ゲドさんから伝言です｣

　ざわざわざわざわ！！！！

　ヒューゴの言葉が周りを囲んでいた男たちの耳にも入ったのだろう。一気に殺気が増した。
　「やっぱり」だの「許さん」だの「殺してやる」だの、どうも見に覚えのない言葉と不穏な気配がひしひしとナッシュに伝わってくる。
　カチャと剣を抜く音さえ聞こえてきた。
「じゃあ、伝言ちゃんと伝えたから」
　それだけ言うとヒューゴはスッキリした様子でくるりと身軽に踵を返すと、また城の方向へと走り去っていく。
「あ、ああ……ヒューゴ……」
　置いていかないで〜〜〜〜
　と手を伸ばしたがもう遅い。ヒューゴの後姿を覆い隠すように、男たちがナッシュを取り囲む。
「あの……俺に何か用かな？｣
　おずおずとナッシュが周りの男たちに訊くが、誰一人として答えようとはしない。
　なのにその恐持ての顔でどんどんと迫ってくるのだから、ナッシュでなくとも逃げ腰になってしまうだろう。
　じりじりと後退していくが、気づけば背後にも騎士が待ち構えている。

「そこ、何をしているんだ！！」
　野太い声が青空の下響き渡る。
　その声に騎士たちは反射的に背筋をただし、直立不動の姿勢をとった。
　一糸乱れぬその動きには感心するが、新たに現れた影にさらなる不安を覚えるナッシュ。
「なんだ、非番なら非番で剣の手入れでもしないか」
　現れたのは誉れ高き六騎士、と言えば格好いいが要するにクリス親衛隊のボルスとレオであった。血の気の多そうな組み合わせに、さらに嫌な予感が増していく。
「おい、レオ殿……」
　まだ集まっている騎士たちに眉を吊り上げているレオの肩を隣を歩くボルスがとんとんと叩く。その青年の視線の先は、騎士たちの真ん中にいるナッシュである。
「なんだ、ボルス殿……あ、ああ〜！！！！」
　レオもナッシュの姿を確認すると人差し指を指して、大きな声を上げた。周りの騎士たちが耳を両手で抑えるほどの大音量。
「ききき貴様〜〜〜！！！！！」
「よくも！！！！！」
　な、何だかよくわからないが、事態は悪くなっている……よな？
　この状況を誰か説明してくれないだろうか。
　とはいっても、顔を赤くしてこちらに向かってくる二人にそんなものを求めても無駄というものだ。さらにはこのままでいくとこちらの身のほうが危なさそうである。
　先手必勝！！
「ああ、こら！！！」
「逃げるな！！！」
　騎士たちの合間をぬぐって、ナッシュは逃走し始める。もちろんレオとボルスの方向ではなく、牧場のある茂みのほうへ。当然重い鎧を身に着けていれば機敏性には欠けるわけで、逃げ足だけは早いナッシュに追いつく者などいようはずもない。

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　まんまと逃げ出し、木々の中をすいすいと駆け抜けるナッシュ。騎士たちはその重い鎧がネックとなり、走るのは遅い、木と木の間に鎧がはまるなど、その差は広がっていくばかりだった。
　調子に乗って茂みの中を走っていると、足元の木の根に躓く。
　バランスを崩し頭を低くした途端、その上を凄まじい速さでひょうっと何かが飛んでいく音がする。

　ドスッ！！

「い、いい〜〜っ？？？」
　ナッシュの前方にあった木にそれは刺さった。
　どう見ても、矢である。
　何とか転ばずに右足を前に出してこらえたナッシュが背後を振り返ると、弓を構えたロランの姿が遠目に見えた。あの距離からよくもここまで正確に狙えるものだと思ったが、今は相手を賞賛している場合ではない。
「ななな何なんだよ〜！！」
　どうして騎士たちの恨みを買ったのかまったくわけがわからない。クリスをグラスランドへ連れ出して以来、快く思われていないことはわかっていたが、だからといって命まで狙われる覚えはない。いや、ないこともないがバレたとは思えない。
　一層スピードをあげて、ロランの位置から狙いをつけられないように身を隠す。
　ああ、もう・・・！！
　とにかくこの状態を打開しなくてはならない。
　懐から一枚の札を取り出す。あまり気が進まないのは、この札が経費から落ちないだろうことを予測してのことだった。
「もったいないけど、仕方ないか｣
　足をとめて精神統一を始める。とりあえず追手との差はあったので気をつけるのはロランの矢だけでいい。
　とりあえずベルトに挿してあるナイフを抜き取りそれを右手で構えて、騎士たちには迎え撃つ姿勢をとって見せる。もちろん札は左手の平に隠して発動までの時間を稼いだ。
「よぉし、そこを動くなよ！｣
　追いついてきたボルスが剣を抜きながら駆け寄ってくる。続いてレオ・ロランと他の騎士たちが追いついてきた。

　………行け！

　左手の平を空へと掲げる。
　カッ！！
　その手に持っていた札が発光してそこから一陣の風が巻き起こる。どこか甘い匂いのする風が騎士たちのほうへと向かって吹きだす。
「な……！！」
「うわ……っ」
　みるみるうちに騎士たちの体がドサドサと倒れていく。
　ナッシュが使ったのは眠りの風の札で、魔法耐性のない者はすぐに倒れ出す。少しはこらえていた者も我慢しきれなくなって膝をつき始めた。
　魔法が効果を発している間に、ナッシュはすぐさま逃亡を始める。
　これで第一陣は少なくともしばらくは追いかけてこないだろう。この間になんとかクリスのところへ行く方法を考えなくてはならない。
　そこへ行けば、この事態のこともわかるだろう。