クリスが倒れたおかげで、書類の方はサロメが目を通すことになった。ある程度までなら代行者でも処理は可能なので、少しでもクリスの負担を減らそうということである。
　なんだか庭のほうが先ほどまで騒がしかったようだが、クリスのことが心配でそれを気にかける余裕もない。本当に大事が起こったのならすぐにも連絡が入るはずであるし、それがないということはまた誰かが騒いでいるだけなのだろう。
「……サロメ殿、お茶にしませんか｣
　給仕係の真似事をするかのように、パーシヴァルがお盆にティーポットとカップと菓子入れを乗せて部屋に入ってきた。こういうマメなことが好きな男なのだ。
「ありがとう。そうですね、そろそろ休憩にしてもよいでしょう｣
　目を通した書類をトントンと整えながら、サロメはゆっくりと目を閉じた。細かい字ばかり見ていたので少しばかり疲れて、肩も凝っている。
　どうぞ、とパーシヴァルは音を立てないように紅茶の注がれたティーカップを執務用の机の邪魔にならない場所へと置き、自分も椅子を持ってきて紅茶を飲み始めた。
「まだまだ終わりませんか？｣
「そうですね。でもクリス様はこれを毎日やって、その上見回りまでしているのですから、これくらいで文句を言うわけにはいきませんよ｣
「少しは弱音を言って頂かないと、こういうことになってしまうのですがね」
　と、パーシヴァルとサロメは視線を合わせると苦笑する。
　外で騒いでいる３人に比べて、この二人は落ち着いているといえよう。というよりも、外で騒いでいる３人が何故あのデマの真相に気づかないのか不思議でならない。

　クリスとナッシュが出会ったのは１ヶ月ほど前。
　万が一何かあったとしても、つわりにはまだ早いのだ。
　もし何かあったのならばこの二人だって外の騒ぎにすぐ参戦するところなのだが。
　だからといってナッシュのことを二人とも面白く思ってもいないので、別にその誤解をわざわざ解く気もないので放置している。変に戦ばかり意識しているよりも、気が紛れていいだろうと。
　それに人々の目は寝込んでいるクリスよりも、今城中を逃げ回っている男に向くことで少しは視線から遠ざけることが出来る。
　トウタに確認してクリスの容態は過労とストレスからくる栄養失調だときちんと裏も取っていた。こればかりは誰にも肩代わりは出来ないので、少しでも休んで回復してもらう他はない。そのためには、こうしてクリスの仕事や負担を少しでも減らすくらいのことしかしてやれないのだ。

　そのために一人の男が不幸になろうと、知ったことではない―――

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　夕方になって、窓から覗く湖がオレンジ色に染まる頃、クリスは目を覚ました。
　昼間のうちから寝てしまえば今晩は眠れそうにないな、と思いながらも体の方はまだだるさを訴えていて、起き上がれそうにない。少なくともみんなの前で英雄として立っていられるようになるまでは、ここから出られないし出してももらえないだろう。
　自分に今出来ることは出来るだけ早く回復して、みんなの懸念を取り除くこと。そしてこの戦を片付ける。
　目的さえ決めてしまえば、養生するのも必要なことだと割り切れるし、焦っても仕方のないことだと納得も出来る。無茶をして今回のようにみんなに心配をかけることは二度としてはいけない。

　――――うん、まだ大丈夫！

　クリスはぎゅっと目を閉じると決意をかためる。
　そして身を起こして少し外の風に当たろうと、ルイスが半分だけ閉めていったカーテンを全部開けて窓を少し開いた。
　すぅっと、部屋の中のこもった空気よりも少し冷えた風が入り込んできて、クリスはその紫水晶の瞳を細め、オレンジ色の湖を眺める。

　カチャ…
　背後の入り口からドアが静かに開く音がして、クリスは振り返る。ルイスだろうと思っていたのだが、その予想は大きくはずれることとなった。
　ゼクセン騎士団の甲冑を全身に身につけた男。
　鉄仮面もしていて、誰かは判別できない。
「……誰だ？｣
「なんだ、起きてたのか。具合はどうだい？｣
　馴れ馴れしいくらいのその軽い口調で正体はすぐに分かり、クリスは警戒を解いた。男のほうも慣れない鎧は重いし鬱陶しいのだろう。すぐに鉄仮面をはずして、少し崩れてしまった薄い金色の髪をかきあげた。
「少し寝たら大分よくなったわ。に、してもお前は何でそんな格好をしているんだ？｣
　一体誰の鎧かは知らないが、わざわざ変装をしている理由がわからない。
　ナッシュはその問いにげっそりとした顔をして、鎧を脱ぎながら答える。
「木を隠すなら森の中に隠せ、ってところだな。まーったくひどい目にあったぜ｣
　鎧を脱ぎ終わると、ナッシュは今までクリスが寝ていた天蓋付きのベッドに身を投げ出す。いつもなら文句を言うところだが、今日は本当に疲れているようだったので何も言わずに窓を閉めてカーテンも閉めてあげることにした。
「……敵に動きでもあったのか？｣
「その方がまだ安全だったかも知れねえな……」
　ベッドに寝転がるナッシュの横にクリスも腰を下ろす。
「アンタが倒れたことで、とんでもない噂が流れてたんだ｣
「噂……どんな？」
「クリス様はおめでただって」

　―――――は？

「ばっ！！！！　………ふごふご！！！」
　思わず叫ぼうとしたところを、慌ててナッシュが手でクリスの口をふさぐ。
　ここで大声をあげれば、途端に誰かが飛んでくれば、ナッシュのようやくたどり着いた安全地帯もパアになる。
「俺のほうが驚いたぜ。城に帰ってきたらいきなりアンタの親衛隊に命狙われるんだからな｣
　なるほど、それで騎士の格好をして逃げてきたわけか。
　納得してようやくクリスはナッシュの大きな手を両手でつかんで口から引き剥がす。
「…どこでそんな話になったのよ……」
「俺が知りたいくらいだ。おかげさまで姫君のお見舞いにくるのが大分遅れてしまいましたが、許していただけますか｣
「……ここに来たりしてるのがバレたら、もうこの城には近づけなくなるわよ｣
「障害があったほうが、恋愛は盛り上がると思わない？｣
　まったく懲りてない様子で、ナッシュは寝転んだままニヤリと笑ってクリスの顔を見上げた。まるでいたずらを仕掛けた少年のようだと思い、クリスは小さくため息をこぼす。

　――――自業自得だろう。この男の場合。

「……そんなことはカミさんにでも言ったらどうだ？｣
　自称妻帯者。
　そう言いながらも、誰彼構わずナンパをするこの中年男につける薬はない。
　そして、そんな男に付き合ってしまう自分もかなり重症なのだろう。
「今はアナタだけですよ」
「言ってろ」
　そっけないクリスの言葉。
　だが、まだナッシュの手を両手でつかんだままなので男は苦笑いをする。
「――まだ顔色がよくないな。しばらく離れていた間に少しやせたんじゃないか？｣
「そう…でもないと思うけど」
「いいや、やせたね」
「うわっ」
　確信的に自信のある喋り方でナッシュが言うと同時に、クリスにつかまれていた手を逆につかんでその身体を引き倒してしまう。ベッドに埋もれると思った矢先、男がもう一方の腕も伸ばして体ごと自分のほうへと引き寄せた。
　思わぬ急接近に、クリスの心臓がドクンと跳ね上がる。
「ほら、抱きごこちが悪くな……いてっっ！！」
　女心がわからない男の頭をべちんと叩く。
「馬鹿者」
「ひでーなぁ……ま、いいや。このまま少し寝かせてくれよ。本当に疲れてるんだ……」
　こぼしながらも、ナッシュは瞼が重くなってきたのかどこか気だるそうに、そのままの体勢で睡眠モードへと突入する。
　ここならおいそれと人も来ないし、ここ以外は彼にとって安住の地はないだろう。

　たとえ一時でもその体と心が休まるなら……
　それが甘い理由ではなくとも、クリスには断ることは出来ない。

　―――やっぱり、重症かも。

　まあ、自分もこの男と二人のときならば何も作る必要がなくて、今までの気苦労を癒されるのだから利害関係が一致しているし。
　無理にでもそう割り切ろうとするクリスの女心を知る由もなく、ナッシュはとても３７歳には見えないあどけない寝顔ですぅすぅと寝息を立てていた。

「おやすみ…ナッシュ……」
　もう残すは決戦のみだけれど。
　最後のときまで、自分の姿を見ていて欲しいと願う。

　そしてクリスもその長い睫毛に覆われた瞳を閉じた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

「………………。」
　ルイスは主のベッドを見て立ち尽くすより他なかった。
　いつの間にか一人増えている。
　だが二人ともよく寝ていて起きそうにもない。少なくとも今のクリスの安眠を妨害する真似がルイスには出来ないので、どうしたものかと思って立ち尽くしているのだ。
　うーーーん。
　うーーーーーーん。
　そういえばボルス様とレオ様とロラン様が必死になってこの男のことを探し回っていたなぁ。
　サロメさんとパーシヴァルさんは落ちついていたけれど、このことがわかったら少し面白いことになるかもしれない。
　べえ、とベッドの中で何も知らずに眠る男にルイスはそのかわいい舌を出す。

　――――果たして、ナッシュがその部屋を出てからどうなるのか、
　　　　　　　　　　　　　　　　　　ルイス以外は誰も知らなかった――――――