―――英雄になるためだ。 震える両手を見つめてから、ルークは決意を固めるようにしてぎゅっとその手を握る。両手はすでに血にまみれていたけれど、それは仕方のないことなのだ。 だって殺さなきゃ、殺される。 誰だって死にたくない。 みんなだって殺してる。 ほら、これは悪いことじゃない。 今度は英雄になるために殺すんだ。 殺さなきゃ、みんなが殺される。 自分も、父上も、ナタリアも、叔父上も。 それが彼の目的なんて、師匠から言われない限り気づかなかっただろう。笑顔の下にすべてを押し隠した敵国の軍人。封印術でその力を大幅に抑えつけられていても、そばにいればあの男がどれくらい強いか分かる。 力では負けないかもしれないが、場数が圧倒的に違いすぎる。 「正面からは難しいだろうな」 「分かってます。大丈夫、あいつだって四六時中警戒してるわけじゃないし、一緒にいればチャンスもあるはず。任せてください、ヴァン師匠っ」 胸を張って無邪気に笑う弟子に、ヴァンは目を伏せて口元に笑みを作る。ルークはさらに目を輝かせて、他でもない彼のために頑張ろうと心に誓った。 師匠が見てくれる。 きっとやり遂げたら褒めてくれる。 一人前だって、英雄だって認めてくれる。 「期待しているぞ、ルーク」 「はいっ！」 と、大きく言ったはいいものの、旅をしている最中だからなかなか二人きりになる機会がない。まさかみんなの前で襲い掛かるわけにもいかないし、どうしたものかとルークは先を歩く軍人のなびく軍服の襟を見ながらため息をつく。 歩いてばかりで足も痛い。 喉が渇いた。 だるい。 そんな自分に気づかない連れにさらにイライラする。いつになったらカイツールの軍港に着くのだろう。早く師匠の顔が見たい。 別行動するのなら自分だってヴァンと一緒がよかった、などと駄々をこねたところに自分でなければできない役割があると諭されたわけで、それを今更文句を言ってもどうしようもないと分かっているのだけれど。 「あー！ もー！ だりぃ！」 「またルークはそれか」 自分の次に後ろを歩いていたガイが振り返って温和そうな顔に苦笑を浮かべる。この中で一番自分のことを気遣ってくれるのは彼で、物心ついたころから面倒を見てくれたのも彼だ。 だからルークは取り繕うこともなく不機嫌そうに頬を膨らませる。 「しょーがねーだろ！ ここんところずっと歩きっぱなしだぜ。今日だって一日ずっと歩いてたじゃねーか。どこ見ても木や草しかなくてつまんねーし」 文句を言ったところで状況が改善されるわけではないと分かっていても、それでも口にせずにはいられない。それほどルークにとっては我慢できない状況だったのだ。 「どーせ今日も野宿なんだろ。あーベッドが恋しいぜ」 「いや、もうすぐ小さい村があったはずだ。今日はそこで泊まるんじゃないかな、なあ旦那？」 イオンに寄り添うようにして歩いていた軍服の男が、長い髪をさらりとなびかせて振り返る。陶磁のような白い肌、その顔に貼り付けた笑み、しかし異質な紅い目はまったくといいほど笑っていない。 食えないオッサン。 ルークは白い目でその男を見る。 「そうですね、まだ進めないこともないでしょうが無理をして野宿をするより、そろそろ安全な宿で休養を取りましょう」 「だってさ、ルーク。そこまで頑張れ」 どうやら今日は屋根の下で眠れるらしい。 邸に軟禁されていたころは分からなかった、建物の中で眠れるだけでどれだけありがたいことなのか。途端に足取りが軽くなったルークはみんなの後を追って大股で歩き出した。 ■ ■ ■ 小さな村の小さな宿。 田舎くさいと思ったものの、いつモンスターが襲ってくるか分からない外よりはずっとマシだとルークは狭い入り口で手続きを済ませているガイを待つ。マルクトの領土でないからジェイドは活発に動けないのだろう、そういった類のものはすべてガイに一任している。 「お待たせ。部屋なんだけど、二人部屋しか空いてないっていうから３部屋とってきた。女性の二人はいいとして、男どもはどうしようか？」 どうしようも何も普通なら使用人であるガイとルークが同室になるだろう。ルークだって気心の知れた人間と一緒のほうが楽だしと思ったが、ここにきて師匠からの頼みを思い出す。 やばい。 そうだ、この男をバチカルまで連れて行くわけにはいかないのだ。 ほとんどないチャンス、ここで見逃すわけにはいかない。 「あ！ 俺はこいつと一緒！」 咄嗟に近くにいた軍人の腕をつかむと、みんなが驚いた顔をする。ガイですらも例外でなく、顔色を変えなかったのは当の本人だけだ。 空いた手で眼鏡の位置を直していいですよ、微笑む。 「でも私を選ぶなんて、どうしたのですか？」 ぎくり。 全員が注視している中、ルークはまさか殺すためだとも言えず、視線を泳がせながらいい言い訳を考える。 「ふ、譜術のことでもきこーかなって！ このオッサンが一番詳しいだろ」 「おやおや、いつのまにそんなに勉強家になったのでしょうね」 「うっせーな！ おいブタザル、テメェもついてくんなよ！ 勉強の邪魔だからな！」 足元の聖獣を蹴り飛ばすと慌ててティアがそれを受け止めてこちらを睨みつけてくる。とはいってもいつものことなのでルークは知らぬ素振りをするが。 驚いていた仲間たちもそんないつもと変わらぬルークの態度にようやく落ち着きを取り戻したのか、それとも関心を失ったのかこちらから視線をはずしてガイから部屋の鍵を受け取っている。なんとか誤魔化せたかな、とほっと安堵のため息をこぼすと、隣から視線を感じた。 「……何だよ」 「いえ、いつまで私を引き止めておくつもりなのかと思いまして」 指摘されて慌ててつかんでいた手を離す。 これから殺す相手に近づきすぎないほうがいだろう。変に挙動不審だと警戒されかねない。悔しいけれど師匠も言っていたとおり正面から突っ込んで勝てる相手とは思えない。それに騒ぎになったら邪魔が入る。 だったらやはり同じ部屋であることを利用して、寝込みを襲うしかないだろう。 卑怯だとは分かっていても、先に卑怯な真似をしようとしたのはこいつだ。 ガイから鍵を受け取ってとっとと部屋に入る。思ったとおりに広い部屋でもないし、綺麗な部屋でもない。だがこんな小汚い部屋なら、これから血で汚すこととなっても少しは罪悪感も薄れるだろう。 「で、譜術の何が訊きたいんですか？」 風呂にも入って部屋で落ち着いた途端、布団に倒れこんでうとうとと寝かかっていたルークに頭の上から声が降ってくる。 だるそうに目を薄く開くと、鼻につく笑みを浮かべた男がこちらを見下ろしていた。 「んーだよ……」 「おや、子供はもう寝る時間ですかね」 「ガキじゃねー……」 言い返す言葉にも覇気はない。 自分でもわかってはいるが、今は安全な場所で眠れるということのほうが勝っていた。子ども扱いに腹が立たないわけではないが、怒るような気力も残ってはいない。 そうだ、こいつを殺さなくてはならないんだったか。 しかし指一本動かすのもだるい状況でそんなことができるわけもなく。 「子供じゃないですか」 「…………」 返事をするのももう面倒になってしまったルークの体に毛布がかけられる。 そんな気遣いなどいらないのに。 どうせこれから自分はこの男を殺すのだから。 変に優しいところなど知りたくない。何かしら目的があってやっていると、そう思い込んだほうが殺すのにためらいもなくなる。 ティアには冷血女と言ったことがあったが、この男はそれ以上の冷血男だ。自分と一緒にいるのだって目的があるからであって、それさえ済ませてしまえばこんなことはしないだろう。 そうだ、自分を利用しているのだ。 「…………７歳ならまあ仕方ない……」 遠くで聞こえる声。 記憶を失ったのは十歳のころ。 だからそんな風に言ったのだろうと、眠りに落ちながらルークはそんな風に考えていた。 ■ ■ ■ 遠くから獣だか犬の遠吠えが聞こえてルークは覚醒する。 しかし目を開けても暗闇しかなかったので、まだ夜中なのだろうと判断して再びまどろみの中に戻ろうとして、ベッドの感触の違いに気づく。 硬くて、マットも薄くて、少し動いただけで軋む。そんな安物のベッドは邸の中にはないはずだった。 きし、と寝台の音を立てながら上体を起こして、長い髪をわしゃわしゃとかきまわし、今現在の状況を思い出そうとする。記憶障害に陥ってからというもの常に少し前のことを思い出すように医者に言いつけられていたから、そう難しいことではない。日課になっている日記を読まなくたって今がどこなのか思い出せた。 カイツールの軍港へ向かっている途中。 小さな村に立ち寄って宿を取ってそれで… そう、この男を殺さなければ。 やっと闇に目が慣れてきて隣のベッドを見ると、こちらに背中を向けて寝転んでいるようだった。呼吸を止めて様子を確認してみるが、静かに寝息を立てているだけで特に変わった様子はない。 これなら大丈夫か。 ベッドから降りて近くに置いてあった荷物袋の中からナイフを取り出す。それもルークのものではなくヴァンから持たされたものであったが。 足音を立てないように隣のベッドに歩み寄る。 こくっと唾を飲み込んで、ナイフを頭上に掲げた。 自分を誘拐したマルクト帝国の軍人とはいえ、この男はまったく関わっていないようであったから特別恨みがあるわけでもない。チーグルの森で捕まったことには腹が立つけれど、それで何かをされたわけでもない。 ―――でも、それが全部キムラスカの王宮にもぐりこむためだなんて。 イオンをつれて停戦の使者として行くというのは表の顔。 その裏では王や王位継承者の暗殺を企んでいるなんて。 まさかと思った、けれど戦場での噂を聞いて否定できるほど、自分はこの男のことを知らない。知っているのは顔色一つ変えずに人を殺せることだけ。 だから自分がやらなければ。 初めてじゃない。 この手にはもう人の血が染み付いている。殺されたくない、死にたくないと人を殺してきた。だったら誰かのために殺すほうがいいじゃないか。 これが正しいと師匠が言った。 だから――― 「ごめん……っ」 謝って許されることではない。でも口にしないでいることも出来なかった。 ぎゅっと硬く眼を瞑って、掲げていたナイフを振り下ろす。 当然次に手に伝わる感触は、いまだ慣れぬもののはず。硬く、それから何かを潰したときとよく似ている感覚だ。 「！」 しかしいつもの手ごたえはなく、刃先がどす、といともたやすく何かに突き刺さる。 確認しようと目を開けたルークの顔に布団が飛んできた。突き立ったナイフを手放すと両手で飛んでくる布団と格闘する羽目になるが、もがいている間に背中から突き飛ばされてベッドの上に前のめりに倒れることとなった。 「…っ……つ―――」 利き腕である左腕をつかまれて後ろ手にひねり上げられて、首元をおさえつけられてはもはやルークに抵抗するすべはない。 失敗した、と思うよりも前に焦りが生まれる。 殺さなきゃ、殺される。 それは相手にとっても同じこと。 だったら自分はこのまま殺されるのか。 嫌だ。死にたくない。 身勝手にもそんなことを考えているルークの頭上から、心底呆れ返った男の声が降ってくる。 「馬鹿だとは思っていましたが、まさかここまでとは」 その声には失望しか含まれておらず、殺意も害意も感じられなかった。 目を開けたルークは腕を振りほどこうとしたが、さすがにそれを許すほど甘くはなかった。動かなければ痛みなどなかったのに、抵抗するものだから相手も余計強くおさえつけざるをえない。 「ぅ……放せ……っ」 「残念ですが、まだ私は殺されるつもりはないもので」 くそ。 それでももがこうとするルークだが、相手は抵抗をものともしていないようだった。飄々と笑みを含んだような声で話しかけてくる。 「あなたに殺意を抱かれるほど、何かした覚えはないのですが」 「うるせえ！ どけ！ 死ね！」 「騒ぎ立てて困るのはあなたのほうでしょう」 たしかに先に殺そうとしたのはこちらで、非はこちらにあるとみんなに思われても仕方ないだろう。自分以外の誰も事情を知らないのだから。 ここにヴァンがいれば違ったのかもしれないが、今はいない。 「く……」 「さて理由を聞かせていただけますか」 素直に答えるわけにはいかない。 そんなことをすればヴァンに迷惑がかかるし、失敗したことも知られてしまう。あれだけ大見得を切ったのに師匠に失望されたくはなかった。 「ムカつくからだよ。悪いか！」 「いまだ人を切ることにためらいがあるのに、それだけの理由で？ ……まぁ、いいでしょう。あなたが狙っていたところで殺されるほど間抜けじゃありませんし」 「お前マジ殺す……」 とはいってもまだおさえつけられていて動ける状態ではないのだが。 しかし首から手が離れ、少しだけ体が楽になる。このまま腕も解放されるのかと思ったが、首を後ろへ捻じ曲げて闇の中目を凝らしてみると、外から漏れてくる月明かりの下、銀色に冷たく光るものが自分へ向けられていた。 あれは自分が彼を刺そうとしたナイフ。 真っ直ぐにこちらへ振り下ろされようとして、再びルークは反射的に眼を瞑る。 「―――……？」 ず、と突き立った音はした。 でも何の衝撃もないことを不思議に思い目を開けると、ナイフは目の前に突き刺さっていた。あと１センチもあればルークの大きな蒼翠の瞳はえぐられていただろう距離。 心臓が止まった気がした。 どくどくと一気にうるさく聞こえだした鼓動の音にそんな錯覚まで覚える。 「あ……あ……」 「そんなに怖いのなら、大人しくしてなさい」 腕をねじり上げている手の力が緩んでも、ルークは動くことは出来なかった。目の前に突き立つ刃を呆然と見つめ、額から暑くもないのに汗が滴る。 本気で殺されると思った。 少なくともあの殺気は本物だった。 「こんな調子で私を殺せるとでも？」 突き立っていたナイフが抜かれ、ようやくルークの体から力が抜ける。そしてやっと自由になったと思っていた左手が右手とまとめられて縛られていることに気づいた。 「……っ…ほどけ……！」 「殺されないだけマシだと思いなさい。刃を向けた人間を見逃すことなどそうありませんよ」 「恩着せがましいんだよ、テメェは！ 殺るならさっさと殺れ！」 死にたくなんてないけれど、そうでも言って虚勢を張っていないと怯えていることがばれそうで怖かった。だがそんな強がりを冷たく見据える紅い目。 ようやく揺らいだその眼にあるのは怒りか憎しみか。 くっと吊り上げた唇の端。だがその笑みはいつもの作り笑顔ではない。自然に零れ出たものではあるのだろうが、心の底までぞっとするような微笑。 「馬鹿は死んでも直らないとはよく言ったものですね。一度二度死んだ程度じゃあなたの馬鹿は直らないでしょう」 「だ、誰が馬鹿だっ」 「殺されたほうがマシだと思えることもあると知れば、少しは賢くなりますかね」 槍術の使い手の男は手に持ったナイフをくるっと器用に回転させ、逆手から順手に持ち返る。片足でルークの両太腿をおさえつつ、空いた手でその身体を仰向きにさせた。 嫌でも向かい合うこととなったその顔の笑みが、見たこともない不気味なそれで、ルークはその迫力に飲まれる。 「何だよ……っ！」 「――――――」 ピタ。 頬に金属特有の硬い感触と、冷たいものが触れる。 かなりの面積が触れているため刃の部分ではないと分かっていても、少し動けば彼は迷いなくその刃で自分を切り裂くだろう。 「……っ……」 「馬鹿に刃物はよく効きますね。殺れとか言った割に、この程度でギブアップですか」 すっとナイフが頬を撫でて、さらに首筋をたどる。 呼吸も出来ずに男の所作を見つめるしか出来なかった。 声一つ出すことも出来ないルークの喉元を過ぎたナイフは、着ていたシャツの襟に引っかかる。そこで止まることを期待していたのに、男はナイフをさらに食い込ませていき、ついにはビッと布地が切り裂かれ始めた。 「大人しすぎるのもつまらないですね」 ビビビ、と一気にナイフを下ろしてシャツの正面を切り裂きながら男は笑う。 しかしルークにとっては、いつ彼が気分を変えて自分に刃を向けるか分からず気が気でない。ついに最後まで切られて、布がはらりとめくれ露になった胸は、傷一つないものの恐怖のあまり鳥肌が立っていた。 殺すつもりはないのか。 だがそれなら何をするつもりだろう。 殺されたほうがマシだと思うようなこと、そんなものあるものなのか。 「……ひ……っ」 肌から離れていたナイフが再び触れたその場所は、曝け出された胸の頂。 一番やわらかくて一番胸で敏感な部分に触れられれば嫌でも反応せざるを得ない。その冷たさに身をすくめると男はわずかに目を細める。 ナイフの刃を水平にしてそこを何故か集中的に押され、その度に自分の感覚がそこに集中していくのが分かる。 そして自分の中で何かが疼き出している。 得体の知れない何かが。 「…っ……ぁ……」 それが嫌で逃げ出そうと身をよじるが、両腕を縛られて足をおさえつけられている以上かなうはずもなかった。 「おや、気のせいか大きくなってますよ」 漏れそうになる声を抑えるためにつむっていた目を薄く開いて、男の見ている箇所を自分でも確かめる。桜色に色づいた場所はいつもよりわずかに尖っていた。 「な……」 「ここを弄られるのが好きみたいですね、あなたの身体は」 自分の身体がどうしてそんなことになるのか分からないけれど、この男の好きなようにされてこうなってしまったのは屈辱と羞恥以外の何物でもない。 男がナイフの刃の先端をそこに当て、ちくっと何か刺さった痛みにルークは跳ね上がる。 針が刺さった程度の怪我なのに、その場所と状態では刺激が何倍にも増して襲い掛かってきた。 「つ―――っ」 痛み、だけじゃない。 疼いていた何かが表に出ようとしている。 自分の知らない、自分の中の何か。 まるで自分の身体をのっとろうとしているかのように、思考に霧がかかる。それでもなんとか自分を保とうとする理性が走るのだが、吹き飛ばすような出来事が起こった。 「…あ……や……っ」 ぷくりと刺された部分から溢れ始める紅い雫を、ざらりとした舌で男が舐めたのだ。もちろん血だけというわけにはいかず、尖っていたものを根元からさらに舌先で舐めあげた。 ナイフの刺激とは違う。 あたたかく濡れた感覚。 その差がさらにルークを追いつめる。 「……う……ん……」 傷口を吸われ、突起を刺激されて全身から力が抜けていく。 こんなはずではなかったのに、と思う気持ちがないわけでもないが、男の与えてくれる刺激にすべてかき消されていった。 「もう抵抗は終わりですか？」 顔を上げた男は冷たい笑みを浮かべたまま、ナイフの刃の甲でルークの頬を撫でる。 したくてもさせてくれないくせに、とルークはそれでも気力を振り絞って男の紅い目をにらみつけてやった。大して効果はないだろうけれど、この男に屈服する気はないということくらいは伝わるだろう。 「殺されたほうがマシだと思うこととは何だと思います？」 「これ……じゃねーのか……」 男の思うように翻弄されて悔しさがこみ上げてくる。 感じてしまう自分自身にも憤り、怒りのぶつけ先にも困っていた。 「これじゃあなたが気持ちいいだけじゃないですか」 「き……気持ちよかねーよ！」 反射的に言い返したものの、たしかに痛みだけではなくなってきていた事実はある。それでも認めるわけにはいかないけれど。 「では、これは？」 「！！！！！！」 ナイフの柄の部分でぐりっと男がルークの腰の辺りを押す。 気づかぬうちに充血して大きくなり始めていたものだから、そんな乱暴に扱われてはのた打ち回るしかない。 「気持ちよくないなんて口だけですね」 逃げようとしたルークの眼前にまたしてもどすっとナイフが突き立つ。 またしても動きを封じられたルークのベルトを器用にはずし、下着と一緒にズボンを一気に腰まで引き下ろしてしまう。 「お、まえ……っ！」 「身体は正直じゃないですか」 一目で分かる状態にまでルークの中心は昂っていた。 さすがにばつが悪くなって顔を背けると、男は無造作にそれをつかむ。激痛とまではいかないが痛みが走ってうなるルークのそばからナイフが引き抜かれ、もう片方の手につかんでいたものの根元にぴたっと刃を添える。 「―――死ぬほど痛いらしいですよ」 赤く火照った顔が一気に青ざめる。 死を前にするのとは別の意味での恐怖に、ルークは凍りつくしかない。当然男が手にしていたものも萎縮してしまい、片眉を下げておやおやと相手は笑った。 「ずいぶんと可愛らしくなるものですね」 「……ぃ……」 「なんですか？」 ナイフを食い入るように見つめたまま、首をゆっくりと横に振る。 酷薄な笑みを浮かべた男が長い指先をすっと動かす。手入れの行き届いた刃が音もなく切り裂いたのは、怯える青年の中心に薄く生えそろったもの。指先からはらはらとベッドに落ちていったものを見て、とりあえずルークは安心するしかない。 それでも男の行動が全く読めないから油断は出来ないけれど。 手馴れた手つきで、切るというよりも剃っていく男。身じろぎも出来ずにその様子を見つめ続けるしかないルーク。 ここにきて初めて手を出してはいけない男に手を出したのではないかと後悔の念が頭をよぎる。だが泣いてやめてくれといっても、そこで手を止めるような甘さはこの男には欠片もない。 むしろ悦びの笑みを浮かべるのではないかとさえ思える。 ―――怖い。 人を殺すのとは違う、未知なる物への恐怖。 殺されるかもしれない恐怖感とも違う。 視線を男の指先から冷たい笑みを浮かべた顔へ移すと、闇の中に紅い目が光った。どうしてだろうか、闇よりも暗い光がそこにある。 怒り、憎悪、苦しみ、痛み、絶望、すべての負の感情が詰まった瞳。 ルークが知る感情の中にはまだない深い闇。 何度も修羅場をかいくぐってきただろう。もしかしたら彼自身こんな目に遇ったことがあるのかもしれない。すべての人の闇の底に彼はいるのか。 そして見ているとそれに引きずり込まれそうになる。 どこまでも、底の見えない闇に。 「ぃ……や、だ…………」 怖い。 怖い怖い怖い。 嫌だ。そんなところへ行きたくない。 そこがどんな場所か分からないのに、本能がそれを拒否している。そこはたどりついてはいけない場所だと、人の踏み入る地ではないと。 垣間見ることすらしてはいけない世界だと。 手元が狂うことも忘れて男から逃げようとルークはみじろぎをする。とはいっても両手を縛られて、さらに両足の上に乗られていては逃げ切ることなど到底かなわないが。それでも動かずにはいられなかった。少しでも距離を置きたくて、捕まりたくなくて、この闇に。 「やだ……やだ…っ！」 「つ―――」 突然暴れ出したルークに男は案の定手を滑らせる。 その刃が裂いたのはつかんでいたものを咄嗟に放した男のもう片方の手。 いつものように手袋をしていれば怪我をせずにすんだのかもしれないが、今は傷ひとつない肌をさらけ出していたから刃は難なくそこに食い込んだ。 「………………」 すっと線を引いたように白い肌に紅い筋が浮かぶ。 それを他人事のように見つめる男の視線。 どうなるのだろう。 やはり殺されるのだろうか。 それとも連れて行かれるのか。 「や……だ………」 怯えた目で男を見上げると、ゆっくりと視線がこちらを向いた。暗い闇の紅が、まばたきをした瞬間いつもの色を取り戻す。 だがそれに気づく余裕は今のルークにはなかった。 「…や……」 まだ逃れようともがくルークの姿に、何も言わずに手から血を流していた男が、唐突にぶっと盛大に息を吐き出す。 「ふっ、ふふふふ」 「！」 「―――少し薬が効きすぎましたかね」 男が腰を浮かせるとルークは逃げるようにして身をよじる。もう押さえつけるつもりはないらしく、男はじたばたする自分をいつもの乾いた笑みで見下ろしていた。 「……手……」 ほどけ、と強く出ることも出来ずにルークは警戒しながらそれだけを伝える。 だが男は笑って手にしていたナイフを壁にかかっていた絵に投げつけ、描かれていた人物の左胸にそれが刺さった。 もう手を出す気はない。 けれど拘束を解く気もないということか。 ジェイドは落ちていた布団を拾うと、ベッドに転がるルークにばさっとかけてやる。それから自分も隣に横になって、布団の上からルークの背中をぽんぽん叩いた。 「いい加減子供は休む時間ですよ」 「ガキ扱いすんじゃねえ！」 さっきまでとは周りの空気が全然違う。殺気も何もかも消え失せ、さらにいつもの人を必要以上に寄せ付けない壁のようなものも消え去っている。今のルークには何も出来ないからだろうか、それとも無意識なのか。 どちらにしろもう緊張する必要はなさそうだった。 肩の力を抜いて楽な姿勢で転がる。するとジェイドの腕に身体を包まれて、一体何事かとルークは顔を上げた。 すると耳元で低い声が囁いてくる。 「―――まだあなたには殺されてあげませんよ」 それはどういう意味。 冗談という声音ではない。むしろ覚悟を決めているという潔ささえ感じる。 まだというのは目的を果たしていないから？ キムラスカに入り込んで王族を抹殺するという任務を達成してないから？ 「……あなたがすべてを知った時にそれを望むのなら……」 声はそこまでだった。 ジェイドは両手を離すとくるっと背中を向けてしまう。身動きの取れないルークはそれ以上どうすることも出来なかった。 分からない、この男のことが。 聞きたい、この男のことを。 知りたい、この男のすべてを。 彼を殺すのが自分の使命なのに。 そう、油断していたのだ。自分はこの男に近づきすぎた。この男の持つ闇に気づかないほどに近づきすぎて、そしてもう飲み込まれかけている。 |
06'夏の無料配布本から収録
09/04：ヨシズミ嬢から挿絵をいただきました！