サンプルなんていらなかった。 あの男が知らなかっただけで、本当はちゃんとサンプルを渡していた、そう思いたかった。信じたかった。 …サンプル提供者。 そのことに自分がどれだけ振り回されたことか。 初めて逢った時からずっと。 一緒に暮らすようになったのもそのせいだった。 結婚したのもそのせいだった。 でもそんなものが必要なかったとしたら…… 「ジェイド。サンプルを送ってなかったって本当か？」 いきなり飛び込んだ教室で、ルークは授業中であるにもかかわらず、教師面をしている異星人をギッとにらみつけた。 しかし彼は一瞬目を細めただけで、いつもどおりの薄ら笑いのままさらりと返事を口にする。 「個人的な質問は授業が終わった後でお願いします」 多分、本当なのだ。 まだ何年も一緒にいたわけではないが、彼の態度からそれくらいは読み取れる。 「……分かった、もういい」 ルークは怒りと悲しみに最悪な気分で教室を後にする。 全部嘘だった。 脅されて、強要されて、結婚して。 愚かな自分をからかっていた。 最低だと思う。 でもその怒りと同じくらい、悲しかった。 学校にはいたくない。彼のそばにはいたくない。しかし邸には戻れないから、行き場など彼の家しかなかった。最悪夜になれば彼は帰ってくるが、どちらにしろ逃げ続けることは不可能だ。それでも少しだけ離れておきたかった。 今の気分のまま彼と向き合うことは出来ない。 きっと怒りをぶつけることしか出来ないから。 学校からそう遠くないところにあるジェイドの家に戻ると、渡された合鍵を使って中に入る。もちろん家主はまだ学校にいるから誰も家にはいなかった。それでもルークは自分の部屋に戻ると制服のままベッドにもぐりこんで布団をかぶる。 サンプルのために口づけを毎日させて。 そんな姿をあの男はただ楽しんでいただけだとは。 恥ずかしい思いをしながらも、生き延びるため必死だったのに。 思えば婚姻届だってだまし討ちで書かされたようなものだ。自分がだまされやすいのがいけないような気もするが、だました方が悪くないことにはならない。 最初が嘘だったなら、全部が嘘かもしれない。 婚姻届けだって嘘かもしれない。 「……早く……こいよ……」 会いたくない。 でも会いたい。 全部が嘘だなんて思いたくない。 あの時聞いた言葉も嘘なら、どうしたらいい――？ 静かな部屋の中、時計の針の音だけがやたら耳につく。何時間悶々としていただろう、明かりのついていない部屋が闇に包まれたころ、玄関のドアが開く音と人の話し声が聞こえてきた。 独り言ではない、会話だ。 つまりジェイドは誰かと一緒に帰ってきたことになる。 その誰かはおそらく突然現れたあの男だろう。 自分が怒っていることを知っていながら、仕事を終わらせて、あの男を捜してここまで帰ってきたということだ。自分を放っておいて。 ■ ■ ■ 「ルーク」 「入ってくんな！」 と言って素直に出て行く男ではない。 ジェイドはルークが布団をかぶったまま怒っているところを見ると、ふぅとため息をこぼす。そんな態度が一段とルークを苛立たせる。 何で怒っているのか分かっているくせに、反省の色がない。 「俺のことなんかかまってないで、あの人の世話でもしてればいいだろ！俺よりあの人のほうが大事なんだから」 聞こえてきたのはさらに大きなため息。 本当に腹の立つ男だ。 嘘はつくし、追いかけてきてくれないし、仕方なさそうにため息はつくし。 そしてそんな子供みたいな行動を取ってしまう自分にも腹が立つ。 今まではそんなこと言ったことなかったのに。全部我慢してきたのに、この男相手にはどうしても我慢できない。もしかしたら、自分はこの男のことが嫌いなのかもしれない。普通大事な人だったら思いやることができるはずなのに、それができないのならばそういうことなのかもしれない。でもそうだったとしたら、彼のそばにいることができなくなる。 ―――それは、怖い。 ほかに居場所のない自分にとってそれは恐怖以外の何物でもなかった。 「ルーク」 再び名前を呼んだその声は優しい。 ベッドに腰を下ろしたのか、ぎしっとスプリングが鳴る。抱きしめられたかと思うと、ルークがくるまっていた布団をむきむき頭からひん剥かれていく。 「・・・見んな」 変な顔をしている自覚はある。うつむいたルークの顔がジェイドの大きな手のひらに包み込まれ、上のほうへ向かされた。嫌でも視界に彼の端正な顔が入ってくるが、見たくないとばかりに目だけ横へそらす。 「嘘つき」 「嘘つきは嫌いですか？」 「好きな奴なんかいるか」 「残念ですが、あなたが仰るとおり私は嘘つきです。必要があればいくらでも嘘をつきます」 開き直っている。 反省するでも謝るでもなくそんなことをされては、もうルークはどうしたらいいのか分からない。嫌いになればいいのか、それとも嘘を許容しなくてはいけないのか。どちらもルークには選べなかった。 「嘘をつかなければ、あなたのそばにいられないのなら、嘘をつきます。これからも」 「――と言えばその顔をやめてくれますか」 「！」 「困ってる顔は好きなんですけど、泣かれるとどうしたらいいのかわからなくなりますから」 ルークはえ？と自分の頬に触って、乾いているのを確認すると、またしてもからかわれたのかと頬を膨らませる。 「…泣いてねぇ！」 「で、嘘つきの私のことが嫌いなんですか？」 にやにや笑いながら、ぬけぬけと聞いてくる。 「――嫌いだよ」 ルークが顔を上げないままそんなことを言うと、ジェイドはおやと片眉を上げる。それでもショックを受けた様子はない。 だってそんなの嘘だって分かっている。 騙すことが目的じゃない、そんな嘘だ。 今自分が口にしたのも、彼が自分についた嘘も同じ。 「これでおあいこだろっ！」 それで赦す、そういう意味だった。 これからもそばにいる、そのために嘘をついた。 「…でも実際はルークのほうが嘘つきなんですけど」 ベッドに押し倒しながらジェイドがそんなことをいった。その下にいるルークは布団の上に転がりながら、怒り出す。 「なんだと！」 「いつも嘘をついているじゃありませんか。気持ちよさそうな顔をしながら、嫌だとか言ったりねぇ。身体も喜んでいるのに…」 「ててててててめぇ！！！！！！」 起き上がろうとしたが男の大きな手がそれをおさえつける。 そもそも誰のせいでいつもそんなことになっていると思っているのか。 顔を赤くして怒りながらじたばた暴れるルークを、上から見下ろしてふっと紅い眼を細めたジェイド。今までのじゃれあうような人好きのする笑みから、蠱惑的なものに一瞬にして変わる。 その表情に目を奪われてしまう。いつもそうなのだ。 「―――さて、嘘をつけないようにしてさしあげましょう」 ■ ■ ■ 朝起きてみたものの、寝不足で頭がボーっとするわ、腰はだるいは、はっきりいって体調は最悪だった。よろよろした足取りで階段を下りて洗面所へいくと、冷たい水で顔を洗う。少しだけ頭がすっきりしたところに、ひょいっとタオルが差し出された。 「サンキュ」 受け取ったタオルで顔を拭き終わると、そこに立っているのが同居人でないことに気づいてぎょっとする。 「おはよう、ルーク」 「へ！？」 立っていたのは金色の髪と褐色の肌の男。 昨日と変わりない様子でにこにこと快活そうに笑ってルークを見下ろしている。朝だというのに元気なものだ…ではなくて。 「アンタ、ここにいたのか！」 「ああ。連絡が来るまでここにいろってジェイドに言われてな。それよりルーク、大丈夫か？ 顔色あんまり良くないぞ」 突っ込まれては困る部分なのでルークはうっと喉を詰まらせる。 それにしても同じ家にいたなど聞いていない。聞いていないといえば、昨日の夜のこととか聞かれていなかっただろうか。自分ではこらえているつもりなのだが、どんな声をあげているか分かったものではない。 いやそれよりもバレていないことを願う。 男の様子は昨日と変わりないから、大丈夫かもしれない。 大きな手のひらが頭の上にぽんと乗せられると、髪の毛をわしゃわしゃとかき回された。 「ジェイドが無茶させるからなあ…」 「！！！！！！！」 期待も虚しく散った。 ルークはかああああっと顔中を染めると、男の名前を叫びながらダイニングへ駆ける。部屋の中からは朝食の香ばしい匂いが漂っているが、今はそんなことに浸っている時ではない。 シャツのそでを腕まくりしながら料理をしているジェイドに大きく口を開けた。 「ジェイド！！！！！」 「おはようございます。朝食は出来てますよ」 「お前っ！ あの人っ！」 動揺と焦りで言葉にならない。 「あの人？ 朝から何かされましたか？」 「そうじゃねえ！ あの人がいるって何で言わなかったんだ！ お、お前昨日あんなことまでして……！！！」 フライパンから蓋を取りながら、ジェイドは何事もなかったかのように笑みを浮かべている。 今度は嘘をついたわけではない。 ないのだけれど、隠していたというのはそれに近いものがある。そしてそれは全部彼の指示ではないか。 「大丈夫ですよ。今日迎えが来て彼は帰りますから」 「そっか……じゃなくて、俺は怒ってるんだ！」 フライ返しでスクランブルエッグを皿に取り分けて、くるんとジェイドが振り向いた。 にこにこと笑っているものの、さっきのあの男とは違い何か不穏なものを感じさせる。怒っているのはこちらだというのに、どこか責められているような気分だ。 自分が何かしただろうか。 「いやー、人の妻を無断で連れ出すような人間には、ちゃんと誰のものか教えてさしあげないといけないでしょう？」 「…………」 わざとか。 やっぱりわざとなのか。 どんな理由があろうと、ジェイドが意図的にしたことなのだ。 「―――このバカあああああああああああああああ！！！」 そばにいる限り、こうして振り回される毎日。 嘘も隠し事も、こんな日々を守るため。 いいのか、悪いのか、渦中にいるルークには分からないままだった。 |
やっぱり学園じゃなくてSFものじゃないのか…