−声−



「ま、過労ですかね」
　ここは旅の宿。設備が整っているわけではないが、軽く検診したあとに仲間内で誰よりも博識で医学にまで精通しているジェイドは明るい声で診断を下す。
　その声に心配そうな顔をしてベッドを囲んでいたみんなは、安心したように表情を明るくする。だから何でもないっていっただろ、とベッドに寝かされていたルークは身体を起こそうとするが、隣で椅子に座っていたジェイドが胸を片手でおさえつけてその動きを封じた。
　力はそんなに込められていないのだが、抗うだけの力がない。
「おいジェイド、大丈夫だって！」
「ルークは今日１日おやすみです」
「休んでる暇なんかないだろ！　一刻も早く師匠を止めなきゃならねえんだぞ！　のんびりしてらんねーって分かってるだろ、ジェイドだって」
　胸をおさえたまま軍服を着た男はルークのほうではなく、背後にいた仲間たちのほうを見て声をかける。つまりは無視だ。
「ハーイみなさん、ここは任せて部屋から出てください。せっかくですから、みんなで今日はやすみということにしましょう。ガイ、買出しは任せましたよ」
　有無を言わさずとっとと今日の予定を決めてしまうと、最後にジェイドはガイに指示を出した。ルークに視線を向けてからガイは苦笑して頷く。他のみんなも異論はないようでルークに声をかけてから部屋を後にしていった。
　そうなれば残るのは二人。
「……大丈夫だつってんのに」
　まだ未練がましく不服をつぶやくルークに、ようやくジェイドが振り返る。一見したところ表情はいつもと変わらない。
「今すぐヴァン謡将と戦うことになってもそういえますか」
「それは――…」
「残された時間は確かに少ない。しかし私たちに失敗は許されません」
　この男は容赦がない。
　反論すればするだけ怒らせるだけだ。自分のことを気遣って言ってくれているのはルークにだって分かっていたので、とりあえず抵抗はやめて大人しく布団に身体を投げ出す。
　すると胸をおさえていたジェイドが手を離し、そのまま顔にかかった前髪を指で払いのける。
「焦りすぎですよ。…まだ大丈夫です」
　何のことかは訊かなかった。
　もちろんヴァンの動きのこともある。浮上したホド。プラネットストームを完全停止させ、ようやくエルドラントへ乗り込む算段も出来るようになったところだった。
　そして急がなければならない理由はもう一つある。
　ルークの身体に起こっている乖離現象。身体を構成する音素が分離し始めているのだ。今の医術でも技術でもそれを食い止める方法はないらしく、ルークはただ消えるのを待つ身となっている。
　このことを知っているのはミュウとティアとこの男だけ。
「ごめん。足引っ張って」
「いえいえ、出逢ったころのあなたに比べたらなんてことはありませんよ。口を開けば文句しか出てきませんでしたからねえ。あれにはさすがの私も手を焼いたものです」
　大げさに肩をすくめて笑ってみせるジェイド。
　軽口でも叩いて少しでも暗くなった空気を吹き飛ばしたいのだろう。ルークは同じように笑って嘘つけと口を尖らせた。
「俺の言うことなんか聞いてなかったくせに」
　さてそうでしたか、などと白々しく言ってジェイドは椅子から立ち上がった。
　ルークは思わず手を伸ばして彼の軍服の裾をつかむ。
「あ、どこ、行くんだ？」
「少し眠りなさい。夜よりは朝のほうが今のあなたには眠りやすいでしょう。私はちょっと図書館で調べ物をしてきます。すぐ戻りますけど、何か欲しいものはありますか。ついでに買ってきますよ」
　全部分かってる、ジェイドは。
　今自分が不安に思っていること。
　夜に一人で震えていること。
　過労なんて、みんな同じだけ疲れているはずなのに許されるはずがない。しかし一番自分にも他人にも厳しいジェイドはそれを許した。同情なんてする男ではないから、その調べ物とやらが今日を休日にした理由だろうか。
　でもきっと一番肝心なことは分かっていない。
　一番望むものは彼には分からない。
　ルークはぱっと軍服から手を離す。
「…何も欲しくない」
　それは嘘ではなかった。
　そうですか、とやはり何も気づかぬままジェイドは部屋を出て行く。最後に残されたのはルーク一人。布団を頭からかぶると、身体を丸くしてじっと何かに耐えるように目をつむる。

　何もいらない。
　だから早く帰ってきて。
　何もいらないから、寄り道などしなくていいから、早くそばにきて。
　でもそれを口に出すことは叶わなかった。
　そんなことを言う資格もなかった。
　きっと彼には届かない。




　―――真実の声は失われた。





　ひとりになるのが怖かった。

　アクゼリュスでみんなに見捨てられたことが原因のひとつではある。だが、今の自分はそれだけではない。焦っていた理由は走り続けていないと自分の存在価値が奪われそうだったから。
　死に急いでいるわけじゃない、そんな立派なものじゃない、ただ消えたくなかった。
　誰かにどんな形でもいい、求めて、求められていないと生きてる意味がわからなかったから。
　ここにいていいのか分からなかったから。
　何かしていればそれだけでこのレプリカという存在が許される気がしたから。レムの塔で消えそこなったレプリカの生き残りは今も混乱した世界の厄介者でしかなかった。
　自分もそれと同じだ。
　今はやるべきことがあるからここにいるだけ。
「……寝よ……」
　駄目だと分かっていても、ひとりになるとそんなことを考えずにいられない。
　ここのところの忙しさと寝不足により、たしかに身体は疲弊しきっている。今やるべきことは一刻も早く動けるようにすることだと、自分自身に言い聞かせ続けた。


■　　■　　■


　苦しい。
　まるで水の中に放り込まれたかのように息が出来ない。
　喉に手をやり、もがくようにして爪を立てる。
「…っ…！」
　暗い。
　何も見えない。
　助けて。
　そう叫んで手を伸ばしても、みんなこちらを見ているだけで動こうとしなかった。それどころか失望した顔で背を向けていく。
　待って。
　行かないで。

「――ルーク」
　
　視界が急に白くなる。あまりの眩さにルークは痛みを感じて一度ぎゅっと眼を瞑って、それから瞼を開く。そして次に飛び込んできたのは男のくせにやたらと綺麗な造りの顔だった。
　手に持った布団を放すと、ジェイドがルークの両手首をつかむ。
　何が起こったのか分からないルークだったが、彼の視線が自分の指先に向けられていることに気づいて、自分でも確認してみると、爪の先が赤黒くなっていた。いつもの笑みを消した男は眉を一瞬だけひそめると、ベッドに肩膝をついてルークの身体を抱き起こす。
「ゆっくり深呼吸してください」
「っ……ふ……っ……」
　呼吸することを忘れていた身体が新鮮な空気を欲している。言われたとおりにすぅ、と息を大きく吸い込むと肺に空気が満たされていった。そしてまた吐き出し、何度かそれを繰り返すルークの背中を男の大きな手が撫でる。
　またうなされていたのか。
　やっぱり眠るのは怖い。
「…ありがと、ジェイド。もう大丈夫だ」
　息苦しさもなくなり、正常な呼吸に戻るとルークはそう言って微笑む。戻ってくるまでには回復させようと思っていたのに、それすらも出来ないなんて。
　だから置いていかれるんだ。
　そうだ。本当はもうあのままジェイドは戻ってこなくて、ひとりになるんじゃないかと思っていたんだ。
「本を借りてすぐに戻ってきたのですが、私の判断ミスですね」
　手を離すことなくジェイドが告げた言葉を裏付けるように、ベッドの隅にはルークが見ただけで眩暈を起こしそうな分厚い本が２冊無造作に放り投げられていた。
　調べ物をせずに急いで戻ってきてくれたのだろう。ほんの小さなことだけれど今の弱りきったルークには泣きそうなほど嬉しかった。
「別にジェイドは悪くないって。こんなのいつものことだし…」
「だからミスだと言っているのです。それを知っていてひとりにした」
「俺が弱いからだろ。俺が悪いんだ。ジェイドは何も悪くないって」
　いつまでも寄りかかっているわけにはいかない。ルークは軍服の胸に手をついて身を離そうとしたが、顎をつかまれてぐいっと顔を上向きにされた。
「お、おい……」
「――――」
　男の端正な顔がゆっくりと近づいてきて、心臓が跳ね上がる。
　離れようとした手には力が入らない。
　どんどんとジェイドの顔が迫ってくる。
　自分を見つめる人工的な色の紅。
　出逢ったころは無機質で冷たそうな印象を受けたものだが、今はそう思わない。自分の彼を見る目が変ったせいだろうか。それとも―――
　ぎゅ。
　いつの間にか軍服の胸をあたりをつかんで、目を閉じていた。せっかく呼吸も正常に戻ったというのにまたしても息を止めてしまう。
　硬く結ばれた唇にふっと甘い吐息がかかる。

　ぺろ。
「ぅ…ひゃ……っ！」
　首に濡れた感覚が走り、ルークは驚きのあまりに変な声をあげてしまう。大きく目を見開けば視界の隅にジェイドの頭頂部が映ったが、またしても首をざらりと舐められてくすぐったさに目をつむる。途中どこかがぴりっと痛んだ気もしたが、それよりもくすぐったさのほうが勝った。
「や…くすぐった…っ……」
　我慢できずに身をよじって逃げようとしても、男の腕がしっかりとルークの身体を包み込んでいる。
　男の舌が首中を這う。くすぐったくて身体が言うことをきかないのは当然のことだが、特に弄られてもいない身体の中心がむずむずし始めた。
「…ジェ……だ、め……っ」
　まずい。まずいと思うこのままでは。
　くすぐったいのよりも大変なことになってしまう。
　もう限界だと感じたそのとき、ようやく男の頭がルークの首から離れた。そして身体をベッドの上に戻されてルークはふぅと大きく息をこぼす。熱くなりかけていた身体が冷めるのを待って、いつもの笑みを取り戻して自分を見下ろしている男を睨む。
「何すんだよっ！」
「おや、キスでもされると思いましたか？」
「ててててめえ！」
　どうせ分かっているくせに、そんなことを白々しく言う男には本気で腹が立った。今の行動の意味の分からなさにも苛立つ。
　ちょっと反省していたかと思えば、こんな行動だ。自分をからかいたかったのかと思ってしまうのも仕方ない。
「私は治癒術を使えませんから」
「ん…っ！」
　男の手袋をした指にすっと首をなぞられ、せっかく落ち着き始めていた身体がビクンと跳ねる。またからかわれてるのかと思ったが、ジェイドはルークに触れた自分の指を眺めてぽつりと言葉をこぼした。
「血は止まりましたね」
　治癒だの血だの何のことかと思ったが、もしかしたらと自分の首に触れようと手を持ち上げた時に、汚れた指先が目に入る。赤黒くなっていて、その汚れは爪にまで入り込んでいたが、おそらくこれは血だろう。
　別に寝ている間に誰かが襲い掛かってきたわけではない。
　自分の爪で傷つけたのだ。
「ああ、引っ掻いたのか、俺」
　血も止まっているし、痛みもほとんどなかったから大したことはないはずだ。
　放り投げてあった本を拾うとジェイドはベッドの隣に置いてあった椅子に腰を下ろす。
「まだお昼前です。時間はまだまだありますから、寝ていていいですよ。今度はここにいますから」
　少し眠ったから眠気はなかったものの、そう言われては布団に戻らないわけにはいかない。弾き飛ばされた掛け布団を手に取り、皺になってしまったシーツに再び身体を横たえる。
　ちらりと横目で椅子に座る男を見るが、分厚い専門書を組んだ長い足に乗せて視線を落としている。パラパラとページをめくる速さは、とても文字を全て読める速さではないように思えるのだが、ジェイドのことだからちゃんと眼を通しているに違いない。旅の間もずいぶんと彼の頭脳には驚かされた。この自分を生み出したのも、もとは彼だ。


「…眠れませんか？」
　赤の視線が突然こちらを向く。　　
　ルークが慌てて視線をそらすと、本を閉じてジェイドが立ち上がる気配がした。
「食事と飲み物を用意しましょう。そろそろちょうどいい時間ですしね。少し待っていてください」
　そう言い置いて男は部屋を出て行く。
　眠っていなければ悪夢は見ないから何も起こらない。
　ルークは彼に気を遣わせているなとため息をつきながら身を起こして膝を抱える。まだ身体は完全な状態とはいえないが、動けないほどでもない。しかしみんなも思い思いに休んでいるのだから、ここで午後から動こうといっても迷惑だろう。
　まあ、最初から迷惑しかかけていない気もするが。

　アッシュの居場所を奪ったこと。
　アクゼリュスを崩落させたこと。
　何人もの人を手にかけたこと。
　レプリカであること。
　生きている限りこの存在は迷惑にしからないのかもしれない。

　そんなことを考えていたせいだろうか。
　伏せた目で抱えた足の先を捉えると、シーツの色にどんどん変色していっていた。いや、それは目の錯覚だ。実際は足の先から色を失っていったほうが正しい。皮や肉どころではなく、細胞から消えかかっている。
「……ぁ……」
　慌ててたしかめようと伸ばした手も透けて、その奥にある白を映し出す。
　消える。
　死ぬ。
　いなくなる。
「…や、だ……」
　怖い。
　寒い。
　助けて。
　ルークが叫ぶとすぐにドアが開いて軍服を着た男が厳しい表情で飛び込んでくる。部屋の中に侵入者の形跡がないことを確かめると、ベッドの上で顔色を失っているルークに駆け寄った。
「ルーク、どうしました？」
「あ、…あ……」
「ルーク？」
　ベッドに膝を突いて身体を抱きかかえるようにしたジェイドの胸に手をついてみる。
　怖くて先を見ることは出来なかったが、触れた手には確かに感触があった。だからその感覚が消えないようにと軍服にしがみつく。
「ルーク、何か異変でも？」
　大丈夫。
　これはジェイドだ。
　ちゃんとここにいる。ちゃんと触れる。
　何も言ってこないということは、もう身体はいつもどおりに戻っているのだろう。軍服をつかんでいる手をそのまま怖々確認した。
　服の青が透けることなく、肌色の手がそこにあった。
「……っ……な……でも…ない…」
「先程よりも顔色が悪い。寝ていても起きていても目が離せませんね、あなたは」
　頬を撫でる布越しの手はあたたかい。普段素肌に触れると冷たいと感じてしまう手だから、冷えているのは自分のほうかもしれなかった。
　あたたかいという感覚がまだここにいることの証明であるから、ルークは気持ちよさそうに目を閉じて心を落ち着かせようとする。ジェイドも頬に手を添えたまま何も言わずにそんなルークを見つめたままだった。
　まだ、大丈夫。
　彼の言った言葉を信じたい。信じたいのだけれど、どうにもならない。
　でもそれは彼のせいじゃない。
　これ以上心配をかけちゃいけない。
「…ごめん。もう平気だから…」
　すっと身を引いてジェイドと距離を取る。
「平気ねえ、そんなに青い顔をしてですか」
「ちょっと寝ぼけただけだよ。驚かせて悪かったな」
　軽く笑って見せても、硬くなったジェイドの表情が和らぐことはなかった。誤魔化し方を間違ったかとルークはそれでもへらへら笑って見せると、彼の表情が呆れたものへと変わる。

「――昔のあなたのほうが優れていた部分が一つだけありますよ」

　みんなに軽蔑され、見捨てられた過去の自分。
　変わるといって、それなりに変わったと思っているのだが、それがすべて良い方向へ向かうとは限らない。自分が以前よりも劣っているというのなら、その部分は改善されなくてはならない。そう、決めたのだ。
「なんだよ、それ」
「分からないんですか」
　いつもよりもずっと硬い声。
　ベッドに乗り上げたジェイドがルークに顔を近づけてくる。慌てて遠ざかろうとしたのは、何か不穏なものを感じただけであって、拒んだわけではない。そんなこと承知で男はさらに近づいてきた。
　遠くへ逃げられる態勢ではなかったから、布団に逆戻りしてしまう。手を突いて身体全体を動かそうとした時、逃がさないとばかりに男の手がルークの頭の脇におかれた。
「ジェイド……何……」
「分かるように教えて差し上げましょう」
　やっと笑顔を見せたジェイドだが、どうにも物騒な笑みだ。
　また悪戯でもされるのかと身構えてしまう。
　顔が近づいてきても今度は目を閉じなかった。しかし今度こそ男の唇が自分のそれに押し付けられて、逆に驚く。首に傷はあるけれど、口を怪我した覚えはない。だからどうしてという疑問ばかりが頭をめぐる。　
「ん―――」
　唇を吸われ、薄く開いたところから舌が侵入してきた。口内を蹂躙されてしまえば冷え切った身体もすぐに熱くなり始める。
　これはそうなるように彼が何度も身体に覚えさせたこと。
　ほとんど反射的なものなのだ。
「…っ……ぅ……」
　首を舐められるのよりも効果は早く、青かったルークの顔色は元の色に戻るどころか赤みが差し始める。
　身体が熱い。
　さっきまでは寒いくらいだったのに。
　もっと、もっと熱が欲しくなる。
「…………」
　唇が離れると熱の余韻しか残らない。
　触れて感じ合っていたものがなくなると、不安を覚えてルークは瞼を押し上げる。
　男は目の前にいた。
　うっすらと濡れた瞳に映る男の顔はいつもの人当たりのいい笑顔ではなく、優しそうな、けれどどこか悲しそうな微笑。
「今なら聞きますよ、あなたの言葉―――文句でも、泣き言でも」
　昔は届かなかったもの。
　どんなに叫んでも喚いても、聞こえない振りをされた。無視をされた。それは自分の存在の否定と何の変わりもなかった。
　それを今の彼は受け入れる。
　ここにいると認めてくれているのだ。
「聞かせてください。あなたの望みは何ですか？」
　眠くない。
　おなかも空いてない。
　でも欲しいものは、ある。
「全部聞かせてください。全部教えてください。今までの分もすべて」
　怖くてもいい。
　さびしくてもいい。
　不安でもいい。
　それを彼は全部聞こうとしてくれている。



　―――それは真実の声。



　失われた言葉はたくさんあった。
　でもそれはもうすでに自分の中で一つの感情となっている。
　たった一言だ。
　それだけで良かった。


「……ここにいて、くれ」

イベントアンソロの没の大幅修正です。
まあ、暗いですよね。そして長（ｒｙ