−眠れぬ夜の話−



　キィ、と妙に耳障りな音がしてルークは浅い眠りから覚醒する。
　ドアが開く音だということはこの状態の頭でも分かったが、それ以上の音は何もしなかった。誰かが部屋から出て行ったにしろ、入ってきたにしろ足音がしないわけはないのに。風のいたずらにしては窓に異常はない。
　シュル、と今度は気配もないのに衣擦れの音。
　完全に足音も気配も消すことが出来る人間。
　それで部屋への闖入者が誰か分かった。

「―――ジェイド」
　布団をかぶったままその名前を呼ぶと、部屋の中に気配が一つ現れた。
　やはり意図的に気配を消していたのだろう。軍服のボタンに手をかけたジェイドはいつもと変わらぬ笑みを含んだ声で答える。
「ああ、起こしてしまいましたか」
「今帰ったのか？」
　最近あまり夢身が良くなく、眠ることに半ば恐怖心を覚えていたルークは、当然寝付きも悪くなっていた。さっきも数刻布団の上でごろごろして、ようやく眠りに陥ろうとしていた時であったのだった。
　しかしもう眠れない。
　そう判断してルークはむくっと身体を起こすと、着替えを続けるジェイドのほうを向いた。気配を消していたのは寝ているルークを気遣ってのことであって、この部屋の宿泊客は他にいないのだからもう隠す必要はない。夜中だから抑え気味の声でありながらも、二人とも互いに聞き取りづらくない程度の声で話し続ける。
「どこ行ってたんだ？」
　ここはケテルブルク。彼の生まれ育った街なのだから目を瞑っていても歩けるだろう。それに彼は大の大人であり、いくら力が封印されているといってもその辺の一般人とは比べ物にならないほど強いのだから、危険という意味での心配は無用だ。
　だから尋ねたのは興味本位。
　答えに何の期待をしているわけでもない。
「酒場とホテルです」
「ふーん、酒ね。あれ、そんなにうまいか？」
　ジェイドは着替えの手を止めてルークを見つめる。それからふっと息を吐いてから目を細めた。
「どーせ酒の味もわからねえ子供だって笑ってるんだろ」
「…いえ。味覚は人それぞれですから、別にいいんじゃないでしょうか。あれは嗜好品ですし、恰好つけるものではないですからね。いつか口に合うものも見つかるでしょう」
　馬鹿にされたわけではないのか。
　至って真面目に答えるジェイドだが、その笑みが妙に引っかかる。
「じゃあ何で笑ってんだよ」
「いえいえ何も？」
「何もって顔じゃねーだろ。街に着くたび夜遊びしやがって、不良中年」
　下着代わりのシャツを脱いだジェイドはまだ笑っている。
　譜業装置で部屋を照らす灯りは、太陽ほどの眩しさはない。けれどジェイドの姿を見るのに困るほどでもなかった。
「風呂は入ったのか？　まだ背中汚れてるぞ」
　雪の街生まれの白い肌。
　軍人でありながらも、前線に立つ兵とは違って傷も少ない。しかしその背には黒いものがこびりついていた。
「え、本当ですか」
「血じゃないのか、それ」
　自分の背中は鏡でもなければ確認できない。
　ルークは近くで確かめてみようと、ベッドから降りてジェイドの背後に回る。黒い跡に触れてみると、たしかにそれは血であるが、もう乾いていた。本人の様子から見ても痛みはないのだろう。
「引っかき傷？」
　その言葉で納得したかのようにジェイドは新しいシャツを羽織った。
　見えていた傷を隠されてしまったけれど、これなら放っておいても問題はないだろう。三日もあれば跡も見えなくなるかもしれない。
「ああ、傷になっていたんですね。気づきませんでした」
「モンスター退治でもしてたのか？　背中取られるなんてらしくねーな」
　再びジェイドがふっと吹きだす。
　また何か失言でもしたのだろうか。
　どうせ素直に答えてくれるはずはないと分かっていながらも、このままにしておくことも出来ない。無知が恥となるだけならいい、しかしそれが罪になることを自分は以前思い知らされているのだから。
「何だよ、その傷は」
「ですから引っかき傷ですよ」
「だーかーら、何でそんな傷がついたんだよ！」
「さて、何ででしょうねえ。自分で考えてみたらどうです？　その歳で想像もできないようでは、あなたもそのうち困るでしょうし」
　本当なら教育係のガイが教えるべきなんでしょうが、とジェイドはここにいない仲間の一人のことを思い出して今度は笑っている。
　ルークはといえば、ジェイドの背中の傷について難しい顔をして考え込んでいた。
　彼の様子からいって、普通であれば言われずとも勘付くものらしい。そしてヒントはもう出揃っているのだろう。
「ほらほら、そんなところでぼんやりとしてないで、危ないから暖炉の火は消しますよ。考えるのは布団の中でもいいでしょう」
　慣れた手つきで火掻き棒に灰を乗せて、それを火にかける。見る見る間に火は消え、部屋の中は一段と暗くなる。そして外では雪が降り続けているため、室内の温度は急激に下がっていった。
　言われるまでもなく布団をかぶると、隣のベッドに寝転がったジェイドをにらみつける。
「まだ寝るなよ。考えてるんだから」
「やー歳なんでそろそろ寝ないと差し支えるんですが」
「こんなときだけ調子いいこというな」
　心外ですねえ、とジェイドはどこか眠そうな声で答える。
　このままじゃすぐにでも寝てしまうだろうと知ったルークは、自分のベッドを降りると隣のベッドの布団をつかんで引っ張った。
　故郷とはいえ、雪の溶けない寒さの中布団なしで寝られるはずもなく、ジェイドはこれ見よがしのため息をつきながら上半身を起こす。どこまでもからかい半分なジェイドだが、性格的なものなのか付き合いは悪くない。
「……はぁ……分かるまで寝かせないつもりですか。参考までに訊きますが、ルーク、あなたは生殖行為というものを知っていますよね？」
　せいしょくこうい……ジェイドの口にした言葉を棒読みで反芻していると、布団をつかんでいる腕を引っ張られベッドの上に前のめりに倒れそうになる。それを両腕でこらえたものの、ジェイドの腕がルークの身体を包み込む。
　何事だと思考を止めて状況を確認すると、どうやら布団で二人とも包み込んだらしい。急に何をするんだと文句をつけようと思ったものの、密着した体があったかいのでそれ以上怒る気になれなかった。
「言い方を変えますよ。子供の作り方を知っていますか？」
「こども…あ！」
　最初からそう言えよと思いつつ、ジェイドの質問の答えが分かり、ルークは気まずそうに視線をそらす。
「それは……知ってる。結婚したらそれをナタリアとやって子供を作るんだって……」
「成る程、マニュアルどおりに教えたわけですね。外見年齢の割に情操面の発達が遅れている貴方には分かりづらかったというところでしょうか」
　ジェイドの言うことを肯定するのは癪に障るが、実際ルークも初めて聞いた時はなんでそんなことをしなくちゃならないんだと嫌悪を持ったものだった。
「今はジェイドの引っかき傷の謎だろ」
「……マニュアルにはそこまで書いてないですからね」
「え、それじゃお前……っ！」
　慌てて離れようとするが、ジェイドの手がそれを許さない。
　そして自分がジェイドに抱きしめられている状態であることに今気づいた。
「結婚してたのか！」
「いいえ、してませんよ」
「だってその傷は……子供作ろうとして出来たんだろ……？」
「当たらずも遠からずというところですか。行為としては間違ってませんが、その意図はまったく別のものです」
「他にどんな意味があるんだよ！　あんな……ことに」
「ガイも教えるならきっちりと教えて欲しいものですね。とはいえ彼もあの調子では経験がないのでしょうが、公爵も気の回らない方だ」
　子守役で兄貴分のガイだけでなく、父親までけなされたようでルークの眉間に皺が寄る。
　自分のことだけなら馬鹿にされても仕方ないと感情以外は割り切れるが、他の人はそうはいかない。
「ジェイド…！」
「肝心な部分が抜けているんですよ、貴方の知識には」
「なんだよ、それは」
　そうなのか自分では判断がつかない。
　だから全てを知らなければならないのだ。
「その行為の意味は三つ。一つ目は貴方も知るとおり子供を作るため。二つ目は性欲処理のため」
「性欲……って……え、だって子供が出来ちゃうだろ」
　さすがにその意味を知らないわけではない。１７歳の身体なのだから、それなりに覚えだってある。ただしそれは生理的現象の範囲だとルークは思っていたわけだが。
「絶対出来るわけではないんですよ。１回で出来るかどうかもわからない。どちらかの身体に疾患があった場合なども出来ませんし、確率はそんなに高くないんです」
「へぇ……」
「だからって責任を取れない者がやっていいことにはなりませんが」
　子供が出来る可能性がわずかにでもあるわけだからだろう。ルークの頭でもそれくらいは分かる。だから続きを促した。
「で、三つ目は？」
「それはやはり愛情表現でしょう」
「…………」
　耳を疑った。
　まさかジェイドの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「愛情表現……でもお前結婚はしてないって……」
「ええ、結婚してなくても行為そのものは出来るでしょう」
　たしかにしてはいけないと教わったものの、出来ないわけではない。だが大きな街に寄るごとに姿を消すジェイドの行動の内容がそれだとすれば、それはいいことなのだろうか。
　あまり軽はずみにすることではない気がする。
「通りすがりの人とするものなのか？」
「そういう人間もいます。商売にもなってますしね」
「商売？　売ったり買ったりするのか？」
「そうです。あとは戦争の後などは、報酬として兵士たちが占領した街の女性に手をかけたりもしますね」
　商売として成り立っているのならまだしも、後の話は想像するだけで胸糞が悪くなる。けれどジェイドは現実の話をしているのだろう。
　軍人として見てきた現実の。
「……ジェイドもするのか？」
「さて、どうなんですかね」
　いつもの軽い口調に戻ってジェイドはルークを抱きかかえたまま背中から布団に倒れこんだ。ぬいぐるみか何かのような扱いにルークがもがくと、ようやく彼の手から解放される。ジェイドの胸に手をついて体を起こして上からにらみつけた。
　寒さが身を包み込んだが、今は目の前の問題のほうが重要だ。
「ちゃんと答えろよ！」
　真剣なルークの眼に、いつもの眼鏡のないジェイドの素の瞳が映る。
　血のような深紅。
　宝石を見慣れた環境で育った自分でも、こんなに綺麗なものは見たことがないと思っていた。本人にはとてもいえたものではないが。


「―――訊いてどうするんですか？」


「質問に質問で返すな」
「それを聞いてからでないと答えたくありませんね。貴方はどうして私にそんなことを訊くのですか？」
「どうしてって……」
　ジェイドの眼は笑っていない。
　でも怒っているわけでもない。
　何かを見極めようとしているかのようで、あまり気持ちのいいものでもない。
　自分も同じような眼をしているのだろう。
「綺麗なものしかそばに置いておきたくありませんか。もし私がしているといったら、貴方は軽蔑して離れますか。それとも見て見ぬ振りをしますか」
　もしジェイドがそんなことをしていたら―――
　以前の自分だったら軽蔑して見限っていただろう。
　何の心残りもなく迷わずそうしていた。
　本人の事情など知ったことではないと切り捨てて。
「……俺は知りたいだけだ。ジェイドのこと」
　全部知りたいとはいわない。
　でも知るべきことを知っていたいだけだ。
「知りたいというのは興味ですか？」
「違う！　仲間だからだ」
「仲間というのは便利な言葉ですね。でも仲間というのならティアもガイもアニスもナタリアもミュウもイオン様もいます。関係ではなく私に対する感情をお聞きしたいのですが」
「感情って……」
　どう思っているかということか。
　利用できるものは全て使うために、ジェイドの最初の思惑はそうであったのだろう。利害関係の一致から一緒に旅するようになり、いろいろあって、見捨てられたと思ったのになんだかんだそばにいる。
　彼が生み出したレプリカ研究の成果である自分を一番嫌っているのは彼だ。
　前は気づかなかったけれど、今は分かっていた。
　消したい過去の産物。
　嫌いなどという生易しいものではなく、憎まれている。
　でもそれはジェイドの感情であって、自分のものではない。
　そう分かっていても、変わる自分を見ていて欲しい。
　そばにいたいと思うのは―――


「好きなんだろ……多分」


　さすがにジェイドの眼を直視できなくなってルークは目をそらす。照れ隠しのために余計な言葉を付けてみたりして。効果はあまり期待できないけれど、言わないよりはマシだ。
「こ、これでいいんだろ！　答えろよ！」
「ええ、約束どおり答えましょう」
「―――って、何してるんだよ！」
　いつの間にか体勢を入れ替えられている。
　見下ろしていたジェイドの顔を今度は見上げる形になっていた。
「こういうことはね、互いに楽しめなければ意味がないんですよ。親兄弟、伴侶を殺されて怯えている相手にそれは出来ない。そんな無駄でつまらないことを私がすると思いますか？」
　相変わらず遠まわしな言葉だ。
　しかし素直でないのはお互い様。
「してないってことだよな……良かった」
　ほっとため息をついてやっと体の力を抜く。
　もしもしていても離れるつもりなどなかった。次はしないように止めることが自分の役目だと思っていたが、それは杞憂に終わったようだ。
「……んで、いい加減離れろよ」
「離れたら出来ないじゃないですか」
　何を、という前に首筋に濡れた感触が走った。
　ざらりとしたものが耳朶の裏へと進んでいく。
「っ…ジェ……っ！　くすぐった……！」
　のしかかるジェイドの胸に手をついて上からどけようとするが、今度は耳を軽く噛まれてびくっと体が震えて力が入らない。
「ど…け……！」
「ルーク、復習しましょう。これがどういう行為か言ってみてください」
　耳元で囁かれて身体が逃げようとするが、ジェイドにしっかりと押さえつけられていてそれも叶わない。
「一つ目は？」
「子供を作るためっ」
　答え終えたら解放されるだろう。こんなタチの悪い冗談、早めに切り上げさせるに限る。それでも耳に息が吹きかけられるのがくすぐったくて、身をよじりながらルークは答えた。
「正解です。でも私たちは男同士ですから子供は出来ませんね。―――では二つ目は？」
　追いかけるようにジェイドはルークの耳に口を寄せる。
「せ……いよく、しょり……！」
「正解。これを溜め込むと大変なことになりますから、適度に発散しなきゃ駄目ですよ。ほら、こんなに元気だ」

「バ―――！！！！！！」

　急所とも言われる箇所を撫でられて、深夜だということを忘れ叫びそうになる。慌てて自分の手で口をふさぐが、その分ジェイドへの抵抗が薄れた。
「やめ……そこ……っ……はっ！」
「三つ目は？」
　ジェイドがルークの中心部からぱっと手を離す。
　即座に逃げようとするが彼がそんなことを許すはずもなく、両手首をつかまれてベッドに押し付けられた。
「ジェイド、ふざけるのもいい加減に…」
「三つ目、忘れたんですか？」
「愛情表現！　これでいいだろ！」
「はい、正解です。じゃあ続けましょうか」
「―――え？―――」
「意味は理解できたようですからね」
　今の状況が理解できていないルークの顔に、笑みを浮かべたジェイドの顔が近づいてくる。
　続けるというのはつまり……
　一つ目の子作りは無理だとして、二つ目の性欲処理と、三つ目の愛情表現。
「待てよ！　男同士じゃ出来ないだろ！」
　唇がぶつかる寸前、飛び出たのはそんな言葉だった。
　ジェイドはぴたっと動きを止めると、ぎゅっと眼を瞑っているルークの顔を見て吹きだす。
「ああ……今度はそういう問題がありましたか」
「問題以前だろ！　ほら、どけよ！」
「でもキスくらいは出来ますよね、男同士でも。――嫌なら拒みなさい」
　という割にルークが口を開いた瞬間に顎をつかまれて唇をふさがれる。
　キスすらも知識でしか知らなかったルークは頭の中が真っ白になって何も考えられない。ただ息が苦しくて、逃れようと顔をそらそうとするとジェイドの唇がまたそれを追うかのように押し付けられる。

　―――熱い。苦しい。分からない。

　嫌われているはずなのに愛情表現を示すジェイドのことも。
　それを拒めない自分のことも。
「ん―――！」
　何も分からなくなった。
　濡れた唇をジェイドの舌が名残惜しそうにたどる。
　やっとその身体が離れたとき、ルークは荒い息を繰り返すことに精一杯で動くことも出来なかった。譜術でも使ったのかと思うほどに、身体に力が入らなくなっている。
「この次の課題も見つかりましたし、今晩のところは寝ましょうか」
　暴れたせいでベッドから落ちた布団を拾ってジェイドは転がっているルークにかけた。そして隣に並んで寝転がると、またぬいぐるみか何かのようにルークを抱き寄せる。
「……寝るんじゃないのかよ……」
「人肌には安眠効果があるんです。もう何もしませんから、貴方もおとなしく休みなさい。眠れなかったんでしょう？」
「……………」
　また見透かされてる。
　しかしなんだか考えるのももう疲れて、眠りたい気分だ。ここは街中で安全だし、くっついてるおかげであったかいし、誰かがそばにいてくれるのは嬉しい。
　一人じゃないと安心できる。
　目蓋が重い。
　身体が眠ることを要求してくる。


「……嫌い……な……くせに…………」
　ルークの言葉は声にならなかった。それでも密着していたから、囁きに近い状態でジェイドの耳に届く。
　ふぅ、と小さく息をこぼしてジェイドは丸まって眠っているルークの布団をかけなおした。
「嫌いな人間のそばにいるほど暇じゃありませんよ……馬鹿ですね」
　気づいて欲しいような、欲しくないような。
　どちらにしろ離れることなど考えていない。
　預言には別れが書かれていたとしても、彼は預言にある未来に含まれていないのだから。
　明日は何が起こるか分からない。
　だからこそ生きる意味があるのかもしれない。
　彼に出会っていろんなことを知ったのは自分のほうだ。
　彼なら教えてくれるかもしれない、ここに在る意味を。
「―――答えをくれますか、ルーク」
　今はただ深く眠るルークの隣でジェイドは眼を閉じた。

処女作は処女作だよね……とりあえずキャラをつかむために書いてみた。
コメディなのかシリアスなのかはっきりしろってところでしょうか。