−散髪−
「おっし、できた！」 銀色のはさみを手にした慎が得意気に終わりを告げた。 浴室内にその声が響き渡ると、洵はやっと動けるとばかりに肩の力を抜いて、首にくくりつけられていたゴミ袋をほどく。ぱらぱらと柔らかそうな髪の毛が床に落ちた。 と、そこで玄関のドアが開く音がする。 途端に慎がさらにぱっと表情を輝かせると、洵の手を引いて浴室から連れ出す。 「おかえり兄貴っ！」 パタパタと駆けて廊下へと出ると、ちょうど諒が帰宅して自室へ向かうところで鉢合わせる。慎は小さな洵の背中をドンと前へ押した。 「ちょ…慎兄ちゃん」 「どう？ どう？」 前に差し出された洵は少しばかりはにかんだ顔で諒を見上げて、おかえりと口にする。その後ろで慎はやたらと得意そうに笑っている。 まじまじと末の弟を諒は見つめた。 「髪の毛を切ったのか」 伸びてきて目を隠していた前髪が、ほんのわずか短くなっている。あまり切りすぎると額の左にある手術痕が見えてしまうから、こまめに手入れをしてやらないといけない。 絵画や模型や工作の類が得意であった慎は手先の器用さを活かして、いつも洵の髪を切ってやっていた。 「うん、慎兄ちゃんに……そうだ、諒お兄ちゃんも切ってもらえば？」 恥ずかしそうにしていた洵が、突然慎のようにパアッと笑顔の花を咲かせて、諒の手にあった鞄を奪う。 「おい…」 「ほら、コートも。部屋に置いておくからね」 いつに泣く強気な洵が、強引に諒の着ていたコートと上着も剥ぎ取った。驚いているのは諒と慎である。 「その間に夕飯温めておくから」 ほとんど立ち尽くしているといっていい二人に微笑みかけると、階段のほうへと姿を消していく。 「…………」 「…………」 困った。 ただ褒めてもらおうと思っただけなのに、気まずい。 でもせっかくのチャンスだし、と慎は腹に力を入れて、まだ呆然としている諒に声をかける。 「あ、兄貴も切る？ そこそこうまいと思うけど……」 「…………」 駄目かな。 駄目だよな、やっぱり。 慎が諦めようとしたそのときだ。 「前髪が鬱陶しくなってきたんだが、切れるか？」 「だ…大丈夫！ 任せて！」 うつむけかけていた顔をひょいっと上げると、慎は逃がさないようにこっちこっちと浴室へ伸びる廊下を歩き出す。諒は軽くため息をついてから、慎に続いていった。 まだ洵の髪が散らばったままの浴室に、靴下を脱いだ諒が入ってくる。平均身長以上の慎と諒が二人で入れば、十年前はこんなに狭くなかったと嫌でも差を感じてしまった。諒の態度もこんなではなかった。 でも大きくなって、近づけた気がして、これはこれでうれしいかもしれない。 浴室のプラスチックの椅子に腰を下ろした諒を見下ろす形になる。 「あの、兄貴…」 「なんだ」 「眼鏡、はずすよ」 前髪を切るのには邪魔だ。 少しばかり緊張した面持ちで、慎は両手を使って銀色のフレームの眼鏡を除く。それは浴槽のふたの上に丁重に置いた。そして隣にあったコームとはさみを手に取る。 「じゃあ、切るから」 「ん」 こしのある黒髪をコームで梳いていく。 ゆるやかなウェーブを描く諒の髪は、ドライカットだと少し面倒そうである。 「…………」 「…………」 無言の空間。 空気が重いのは気のせいだろうか。 どうも洵とは勝手が違う。 十年という空白の時間がそうさせているのか。 こんなふうに兄に触れるのは、久方ぶりであった。しかも無防備に目を閉じたりして、素の顔をさらけ出している。 その辺の胸像なんかよりもずっときれいな顔。まつげも実は長く、端正な顔立ちは眼鏡の太いフレームで隠すのはもったいない。頭のよい兄の雰囲気に似合って入るけれど。でも他人にこれを見られるくらいなら、隠していたほうがいいかもしれない。 自分だけが見られればいい。 自分にしか見せないで。 自分しか―― 「……うわっ！ ご、ごめん！」 気がつけば口づけた後だった。 はっと驚いて目を開けた諒に、慎は相手以上に慌てる。 あまりにも動揺してたからだろうか、なんともまずそうな顔をした諒は怒鳴ったりはしなかった。 「つ、つい、うっかり……」 「うっかりですむか」 立ち上がろうとした諒の肩を両手で上から慎が押さえつける。 「ごめんって！ 切るから！ 待って！」 「次の公休日に床屋へ行ってくる」 「――俺以外に触らせんな！！」 あ。 つい本音が漏れて、慎は自分の口を手でふさぐ。 今度こそ呆気にとられた諒の顔。 怖そうだったり、不機嫌そうだったり、慎たちが帰ってきてからそんな顔ばかり見せていたのに、なんてことを口走ったのか。 ――馬鹿！ 俺の馬鹿！ かああぁぁと顔が赤くなる。顔から火を噴きそうというのはこういうときに使うのだろう。 「……慎」 だから逃げ出した。 からかわれたくなくて、嫌われたくなくて、逃げた。 自分の部屋へ飛び込むと、ドアを背にしたままずるずると座り込む。両手で頭を抱えて、うわああと唸る。 なんてことしたんだ。 なんてこと言ったんだ。 「………？」 慎はずきずきと痛む胸を押さえる。 なんで、こんなに胸が痛いんだ。 |
諒はもちろん公休日になっても床屋へ行けなくなりました…
ちょっと髪長いもんね、諒にいちゃん。