−意地−



「――うん、わかった。じゃあ」

　洵が耳にあてていた携帯電話を離すと、電源ボタンを押して通話を終える。
　下校して家へ帰ると、制服を汚さないようにまず着替えをしてきた慎が、リビングへ入ってまず見かけた光景がそれだった。
　初めてではない。
　むしろいつもどおり。
　東京でいじめに遭っていた洵には、転校早々こちらで友人が出来た様子もない。それについては心配しないでもないが、少なくとも今の電話の相手は友人ではないだろう。
　洵がいつも夕方に電話をしているのは一人。
　もう一人の家族。
　二人の兄である諒だ。

「兄貴また今日も遅いんだろ、どーせ」

　そんなつもりはなくても、勝手に口が尖ってしまう。
　綾凪署の署長である諒は忙しいのか、帰りはいつも遅い。この家へ二人で戻ってきてからというもの、顔を合わせて食事をしたことなど数えるほどしかない。
　忙しいのは仕方ないのだけれど。
　何もわからない子どもじゃないのに、自然にそうなってしまうのだ。
　弟の前でいつまでもさらしていたい姿でもないので、ごまかすようにくしゃりと髪をかいてかあら慎は冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、カップにそれを注ぐ。
　兄のように大きくなりたいと、大人になりたいと、昔からの癖で。
　大きくなったら逢えると信じて。
　結局それは自らの力で叶えることになったけど。
　おかげで諒は戻ってきてからどこか不機嫌そうで、近寄りがたい。
　一方的に自分の都合ばかり押し付けられて、出て行けと何度も言われて、素っ気無い態度を見せている。
　ごくごくごくごく。
　牛乳を一気に煽るようにして飲む。

「――慎お兄ちゃん、諒お兄ちゃんのこと好き？」

　ぶふっっっ！
　白い液体が空気中に霧散する。
　あたり一面、慎の顔や服までがそれによって濡れて染まる。
「もう〜汚いな、慎兄ちゃん」
　服の袖で特に汚れてしまった口の周りをぬぐっていると、洗濯済みのタオルが差し出された。それを受け取って顔をふきながら、表情が見えないように隠しながら文句を言ってやる。
「突然変なこと言うからだろっ」
「…僕じゃないけど…だって諒兄ちゃんいないの仕事のせいじゃない。そんなに怒らなくたってさ」
「べつに怒ってなんか……！」
　ないわけじゃないけど。
　タオルをかぶってうつむく。
「じゃあ何？」
「…十年ぶりなんだし、せっかくいっしょに住んでるんだし、もう少し話したりとか、ご飯とか食べたりとか、買い物行ったりとか…」
「川の字になって寝たりとか？」
「そーそー」

　――ん？

「……や、そこまでは……って、おい、洵？」
　顔を上げるとタオルが首下まで落ちる。洵はといえば、リビングのドアを開けて、頭だけ廊下へと出していた。
　一体そこに何があるというのだろう。
「聞こえてたよね、諒兄ちゃん」
「え」
　まさか。
　だってさっき電話していたじゃないか。
「…………」
　小柄な洵の向こうには、立ち尽くしてなんとも言えない表情の諒。
　はらりと、慎が首にかけていたタオルが床に落ちる。
「なん……え、だって……！？」
「うちの前だって言うから、電話切ったの」
　ふふ、と微笑む洵はいたずらに成功して喜んでいる顔だ。いつもこうやって慎をからかうのだ。
　しかし今のははっきりいって気まずい。
　せっかく暖房を入れて暖めた部屋なのに、どこか冷え込んできたのはドアを開けっ放しにしているせいだけではないはずだ。
　洵はどこかまだ浮かれた様子で、身につけていた白いエプロンをはずして諒に手渡す。
「じゃあ、夕飯よろしくね。僕２階で待ってるから」
　歌うようにそういい捨てて、末っ子はとんとんと軽やかな足取りで階段を上っていってしまった。残されたのは大の男二人。
　洵のバカ、と心の中で叫ぶ。
　せめてフォローしてからいなくなってくれ。
　さっきの自分の文句も全部聞かれていたのだろうか。タイミング的には微妙なはずだが。でもどうなのかと諒の顔を見ても、硬い表情からは何も読めない。
「――慎」
「へ、へいっ？」
　低く自分を呼ぶ声に驚いて直立する。
　妙な声を上げてしまったが、諒はそれを気にした様子もない。この場合はむしろ突っ込んでもらったほうがありがたいのだけれど。
「俺が夕飯作るから、お前も２階へ行っていろ」
　諒はリビングへ入ってくると上着を脱いでソファの背にそれを掛ける。まるでさっきのことなどなかったかのような態度。
　ずきん、と胸が痛む。
　怒ってもいいはずなのに、まず泣きたくなる。
　鼻の頭のほうがつんとして、まずいとばかりに慎は顔をうつむけると、しゃがんで落ちたタオルを広い、それをまた頭からかぶる。
　自分では見れないが、きっと情けない顔をしているに違いない。
　そんなの見られたくない。
　かっこ悪いし、ガキっぽいし、悔しい。
　全部諒のせいだけれど、男なんだから慎にだって見栄というものはある。こんなことで傷ついてるなんて知られたくない。
「……わかった……」
　大人しく諒の言葉に従う振りをして逃げようとする。
　今の顔を見られるよりは、ずっとマシだ。
　だから、顔を隠したままリビングから出ようとしたときだった。慎、と背中から呼び止められて、反射的に足を止めてしまう。
　それでも振り返るまでには至らなかったけれど。


　――期待する心と、怯える心。


「おかずはハンバーグでいいのか」
　幼いころからの慎の好物。
　またしても顔がゆがみそうになる。
　でもそれも内緒。
　やっぱり悔しいから――

リハビリがてら……。
たまには日常風景。