−現実−



　おはようございます、すれ違う署員みんなに挨拶をされながら、諒は徹夜の疲れも見せずにいつもどおり廊下を歩いていた。尊敬のまなざし、畏敬のまなざし、憧れのまなざし、疑惑のまなざし、多種多様な視線は慣れたものである。
　しかしその中に一つ、怒りと呆れと優しさを含んだものがあった。
「おはようございます、神郷署長」
　声にもどこか棘がある。
　署の中でも珍しい白衣姿は監察医である証だ。
　諒は微妙にたじろいたが、昔なじみの目の前の監察医の女性以外に気づくものはいないだろう。
「報告は部屋で聞く」
　彼女、二階堂映子とは昨夜会っていた。その後、慎の電話で洵捜しに奔走していてすっかり忘れていたが、去り際彼女はさびしそうにしていたのだった。
　署長室に入って早々、映子は持っていた封筒を机に置き、それからずいっと諒の顔を見上げてくる。
　強い視線は苦手だ。
　嫌でも自分に後ろめたいことがあるのだと思い知らされる。
「すいぶんと今日はご機嫌ね。あなたのそんな顔、久しぶりに見たわ。昨夜あれから何かあったの、弟くんたちと？」
　自分ではいつもどおりのつもりだったのだが、彼女には何か感じるところがあったようだ。しかも諒がそんなふうに心動かす相手は家族に違いないとまで理解している。
　あまり感情を外に出さなくなった諒を、そこまで分かってくれるのは彼女だけだ。いろいろな面で助けられているのは事実だが、その反面で嘘が吐けないことが彼女を傷つける。
　傷つけたと知っても彼女を追えなかった。電話の一つでもかけてフォローもしてやれなかった。
　自分は弟たちを選んだのだ。
「…………」
「嫌味くらい言わせてよね。キスの一つもできない甲斐性のない男なんて、こっちから願い下げよ」
　それについては昔から酷い目に遭っている。学生のころなど、しつこく言い寄ってきた女性に襲われかけて、胃の中の物を戻してしまったことがあって、あの時は苦労した。
　まさか弟の顔が浮かぶからできないなど言えるはずもなく。
　映子もどこまで気づいているのか分からないが、諒をいじめる格好の材料だということは分かっているのだろう。
　しかし先程してきたばかりだとも、当然言えない。妙に不味そうな顔をした諒に、映子は不審の色を目に浮かべる。
「諒？」
「……何でもない」
　諒がそんなことを口にするときは、決まって何か事情があるのだと分かっていたが、これまでの付き合いからてこでも口を開かないだろうことも分かっていたので、映子は肩をすくめる。
　どうやら溜飲は下がったらしい。
「じゃあ、私行くわ。またケンカしちゃ駄目よ」
　言い残して出て行く映子を見送ってから、諒はそんなにいつもと違うだろうかとデスクの引き出しを開ける。そこに収まっている手鏡の横に、見慣れたピルケースを発見して、眉間にしわを寄せる。
　急速に頭が冷え、鏡を手に取ることなく引き出しを元に戻した。


　――現実が、やさしい夢を壊す。

「秘密」の直後の話？
諒デレデレ……