−秘密−



　おばさんのことも洵のことも、きっかけに過ぎなかった。
　十年もの間、顔一つ見せなかった兄に逢うための。
　プリンターで量産された年賀状を送ってくるくらいしかしなかった兄の。

　待っていたのに。
　ずっと待っていたのに。

　待ちきれなくなって、もう限界だと思って、帰ってきた。


「――慎、俺のそばから離れろ」


　どうして？
　信じたかった。
　離れていたのは、迎えに来てくれなかったのは、嫌いだったからじゃないって。
　何か他に理由があるんだって。
　信じたかった、のに。



■　　■　　■


「りょー、にー、ちゃーんっ！」
　どすう。
　一回り近くも歳の離れた兄に慎は身体ごとぶつかる。突然背後から押されたものだから、体格差があっても諒はついバランスを崩してつんのめった。
「こら。いきなり何するんだ」
　ずれた眼鏡の位置を直してから、諒は慎の髪をくしゃくしゃと撫でる。その大きな手のひらも、叱りながらも優しい手つきも、大好きだった。
　全然懲りた様子もなく、慎はうれしそうに笑いながら、ぴょこぴょこその場で跳ねて諒の服を引っ張る。
「にーちゃん、にーちゃん」
　仕方ないな、と苦笑して弟にせがまれるままに諒がしゃがむと、慎は小さな手で兄の顔を挟んだ。おとなしい双子の弟妹たちに比べて、年齢差を考慮しても活発な慎。
　いたずらも大好きだから、今度は何をしでかすつもりだろうと警戒しているのだが、いつも諒の予想の遥か上を行く。
　でも今日はいたずらをするつもりはなかった。
　いいことを知ったから、兄にしてあげようと思ったのだ。
　きっと喜んでくれる。
　褒めてくれる。
「にーちゃん、目とじて？」
　いつもいたずらの被害に遭っていても、基本的に諒は真面目だ。だからこのときも言われるままに目蓋を伏せた。


「…………」


　ぱちっと目を見開いた諒。
　わからなかったのかな、と再び慎は顔を近づけて、言葉の出なくなっている唇にやわらかな自分の唇を重ねる。
　あたたくて、どこか甘くて気持ちいい。
　その感覚に夢中になっていると、どたっと音がして諒がその場にしりもちをついた。おかげで口づけを中断され、慎は今度こそ兄の反応を確かめるべく、座り込んだ諒にしがみつく。
　しかし、またしても目を見開いたまま、ぱくぱくと金魚のように口を動かしていた。
「にーちゃん？」
　おかしい。
　喜んでくれると思ったのに。
　まだ分からないのか。もう一度、と顔を寄せようとしたときだ、諒の大きな手のひらが慎の顔を押しのける。
「うぷ」
「慎っ！！！！！」
　次には怒鳴り声。
　両親も双子の弟妹たちもアトリエにいるから、誰も聞きつけ駆けつけてこなかったのは幸いであった。
　まさか怒られるとは思っていなかった慎は、手が顔から離れると、やたらと紅潮した諒の顔を大きな瞳でくるくると見つめる。
「だ、駄目だろう、こんなことしたら！」
「なんで？　とーさんとかーさんがしてたよ」
　すごくうれしそうに。
　実際に慎もやってみて、気持ちよかったし、うれしくなった。
　なのに諒は違うのか。
「父さんと母さんはいいんだ！」
「……う？　なんで？」
「こ、こういうことは…好きな人とするもので…」
「りょーにーちゃんすきだもんっ」
　顔を赤くしたままごにょごにょとまだ諒は言葉を続けようとしていたが、慎の耳までそれは届かない。
　喜んでくれると思ったのに。
　まさか。
「にーちゃん、やだったの？」
「嫌ではないが……」
「じゃあ、またしよ？」
　近づこうとする慎を、諒の手が止める。
　嫌ではないのに、何で駄目なのだ。ぷうっと頬を膨らませて慎は抗議する。
「駄目だ。好きな人の中でも特別な人とするものなんだ！　父さんと母さんみたいに」
　洵と結祈みたいに？
　でも、自分には双子の兄弟はいない。
　一番に思いついたのは諒だったのだ。だからしたのに。
「りょーにーちゃんがいいもん！　すきだもん！」
「慎、駄目だって……」
「やだ！　にーちゃんとするっ！」
　ぽろ、と一粒涙がこぼれだしたら、もう止めることはできなかった。わぁわぁと泣き出す慎を困ったように見つめる諒。やがてその小さな背中を抱きしめると、慰めるように優しく撫でてくれる。
　嫌いだったらそんなことはしないはずだ。
　だから余計にわけがわからなかったし、納得できなかった。
　こうなったら意地である。

　そうしていつも諒が折れるのだ。
「分かった、分かったから、慎」
「ぅ……っう…っく……」
　涙と鼻水でべしょべしょに汚れた顔を上げると、諒はポケットから出した洗濯された綺麗なハンカチでぬぐってくれる。
「一つだけ約束しろ」
「……う、ん……？」
　絶対に誰にも言わないこと。
　バレたら、その時点でやめること。
　男と男の約束。
　二人だけの秘密。



■　　■　　■



「諒おにいちゃんの声だけ聴こえない……でも……」


　来てくれた。
　洵が何処にいるか、分かった。
　倒れた洵に駆け寄って、抱いてくれた。

　――まだ、信じられる。

　家の前で諒の運転していた車が停まる。後部座席に乗っている洵はまだ気持ちよさそうに寝ていて、目を覚ます気配はない。このまま仕事へ行くと言っていた諒でさえ、起こすのをためらうほどに。
　どうしたものか、と振り向いて思案している諒が、再会してからこれまでにないほど近くに感じられて。
「……諒兄ちゃん」
　洵のほうを見ていた諒が身体を戻して、助手席に座っている慎のほうへ向き直ったときだ。顔を寄せて、一瞬だけその唇に触れる。
「…………」
　次にはドアを開けて車から降りた。後部座席のドアを開けて、洵の身体を背負う。その間も諒は何も言わなかった。だが何も言わないことが答えだ。

　忘れてない。
　忘れてない、信じたい。

　だから……携帯電話を開いた。

処女作はもっとマイルドにしようと思ったのになぁ…
諒おにいちゃんは慎君に甘いといいです。
しかし慎諒に見えるとかいやんばかな…。次は諒視点で補足するか…。
小さいころの一人称とか分からないので、ぼかしぼかし…