……どうしよう…
　どうしよう、どうしよう…

　非常に稀なことであるが治部少丞、藤原鷹通ははたから見ても分かるくらい動揺していた。先刻から顔は赤くなったり青くなったり忙しい。
「あの…鷹通様、お加減が悪いのでしたらお帰りになられては？」
　見かねた鷹通の部下が、心配そうに声をかける。もっとも治部省の面々はさっきから鷹通のほうをこっそりと窺っていたのだが、とうとう思い立ったのが声をかけてきた青年である。
「えっ!?　あ、ああ……、すみません。ご心配をかけて。大丈夫です」
と、言われても声をかけただけでこの驚きようでは鷹通の様子はおかしいと言うより他にはない。
「ですが、先刻より全然手が進んでおりませんよ?　ここは私がやりますから、今日はもうお帰りになられてはいかがでしょう?」
「………すみません」
　軽いため息とともに出た謝罪の言葉。手に持っていた巻物の束を指定の場所へとしまうと、鷹通は振り返り苦笑する。
「お言葉に甘えてもよろしいのですか?」
　やはりおかしい。
　堅物で融通が利かない鷹通はどんなに忙しくても、仕事がたまっても人に任せるような人物ではない。何だか様子がおかしいとは思っていたが、ここまでおかしいとは！
　その場にいたもの全員が目を合わせうんうんとうなずきあう。
「藤原少丞、今日はもういいから。毎日君は頑張っているから仕事がたまっているわけでもない。悪いことは言わない、帰りなさい」
　とうとう上司までもが帰宅を勧める。それほどまでに鷹通は変だったのだ。
「はい、ありがとうございます。それでは失礼させていただきます」
　すまなそうに謝り、邪魔をしないように鷹通は静かに退出する。そうして出て行く鷹通を見送ると、ようやく全員が騒ぎ出す。もちろん話題は鷹通のことである。本人の目がなくなり、解放された面々は口々に憶測を飛ばす
「一体どうしたのだ？」
「どこかの姫君にでも懸想しているのか？」
「しかし、そのような噂は聞かぬが…」
　その推理は惜しかったりもするのだが。

「はあ…」
　内裏内を歩いて門を目指しながら鷹通は盛大なため息をこぼす。こんな時間では迎えも来ていないし、呼びつけて車が来るまで待つと言うのも面倒なので徒歩で帰ることにする。急いでいるわけでもないし、何より心を整理する時間が欲しかった。
　問題が起こったのは昨晩であった。八葉の使命を賜ってから以前より懇意になった橘少将と呼ばれる公達、友雅に誘われ月を酒の肴にしていたときのこと。

「ねぇ、鷹通は誰か心に決めた人はいるのかな？」
　突然ではあったが、おそらく友雅は自分から何か面白い寝物語でも聞けないかと期待しているのだろう、と判断して鷹通は目を細める。
「いえ、残念ながら友雅殿のお気に召すような経験はございません」
「ふふ。早合点をしてはいけないよ。私は君の過去が知りたいのではなく、今のことを知りたいのだよ」
　鷹通を見ながらさも楽しげに友雅は笑む。もう夜も更けていたが、月明かりで友雅の表情はよく見えた。月の光で見える友雅の端正な顔は同性の鷹通が見ても魅力的で、その上笑いかけてくるものだから何やら頬が火照ってしまう。
　そんなわけですでに鷹通はかなり酒が回っていた。
「今？」
「そう。京も神子殿のおかげで救われたことだし、そろそろ君にもいい話のひとつや二つあるのだろうと思ってね」
「私より先に兄上がいますからね。兄上たちは母君の身分も相応のものですから、父上としても先にそちらを考えているようで、私のことまで手が回らないといった状況です」
　このように家庭の事情をぺらぺらと話してしまうのは鷹通が十分に酔っている証拠であった。友雅はその答えを聞いてよりいっそう笑みを深くする。
「それならばよかった」
「私のことより、友雅殿はどうなのですか？　浮いた噂は事欠きませんがそろそろ落ち着かれほうがよろしいのではありませんか？」
「奇遇だね。私も丁度そう思っていたのだよ」
　友雅はさらりと述べたが、それは内裏中の女性、いや内裏中の男女問わずすべての者が驚くべきことであった。
　酔いが一瞬にして覚める。
　鷹通はその言葉に驚き黒目がちな瞳を軽く見開く。
　そんな鷹通を細めた目で見ながら、友雅はふふ、と笑みをこぼす。
「何をそんなに驚いているの？｣
「またからかっているのですか」
　その言葉に友雅はおどけて見せ、心外だという顔つきをする。
「私が誰か一人に心を決めるのは、そんなにおかしなことかな？」
　おかしいです、とはまさか言えない。
　今までどんな縁談も、どんな身分の高い姫君の誘いも断ってきたのに。
「いえ、少し驚いてしまっただけです。あなたにそこまで想われる方というのは一体どのような御方なのですか？｣
　普段の鷹通はこのようなことは聞いたりしない。だがさすがに今は好奇心のほうが勝っていた。
　あの橘少将が懸想してやまない人……一体どのような人間なのか。
　友雅はやや視線を上に向け、何か思い出すようにして話し始める。
「そうだな…整った顔立ちに黒目がちの大きな瞳、それにしなやかな黒髪の人だよ。人柄は、年齢の割には大人びてしっかりしているという印象を周りにもたれていて、それでも私の前では歳相応のあどけなさを見せてくれる」
　それだけで、どれほど友雅がその人物を良く思っているか分かる。
　この人にここまで言わせるその人物もまた友雅の事を想っているのだろうか。
「その方は幸せですね。あなたにそこまで想われているとは」
「……だが、私もまだまだかな。怖くてうかつに触れることもできない｣
　その言葉に、鷹通はまた目を大きくする。
　この友雅を恐れさせる存在。
　そして友雅に誘われても袖にする事のできる人。
「すごい方なのですね。あなたの誘いを無下にする事のできる方がいるとは…」
　自分みたいに真面目一辺倒な者ならば仕方のないものだが。
　もしや、その人にはすでに心に決めた人がいるのではないか。
　それこそ、うかつに手も出せない公達の奥方とか。
　考えれば考えるほどに、友雅ならやりかねないところがある。
「……無下にする、と言うよりは気付いてないんだろうね」
「え？」
　友雅は鷹通を見ていつものように笑んでいる。
　首をかしげて再び鷹通は考えようとした矢先、目の前が暗くなった。
　二人の影が重なり、鷹通の唇に柔らかいものが触れた。
　頬を包む手はそんなに体温の高くない友雅のぬくもりがあって。

　なに……？
　何が起こったのだ……？

　次に鷹通の瞳に映ったのは友雅の顔。
「ほら、気付いてなかっただろう？｣
　面白そうに瞳を細めた友雅に、鷹通は無意識にじりじりと彼から離れようと手をついて下がる。
「…と、友雅殿……」
　すでに鷹通の顔は紅潮し、動揺をあらわにしていた。
　唇を右手でおさえると、さっきの感触が手なんかではない事が分かる。
　あれは…あれは……

目の前にある顔の、鷹通の唇に触れたと想われる友雅のそれはゆるやかに弧を描いている。
「あ…あの…」
　友雅はしどろもどろになっている鷹通をこの上なく楽しそうに見ている。堅物の治部少丞をここまで動揺させる事のできる人間は友雅ぐらいのものだろう。
　自分にしか見せない表情を、今も友雅は楽しんでいた。
「鷹通、次に会う時までに返事を考えておいておくれ｣
　きっとこれで次に会う時まで、鷹通はずっと自分のことを考えるだろう。真面目な鷹通のことだ、真剣にそして真摯に答えを出してくれるだろう。
「へ、返事……」
「そう。君の気持ちを聞かせてくれないか」

　そんなわけで、それ以来鷹通はずっと考え込んでいるわけである。
　まさか、友雅の想い人が自分などとは思いもしなかった。
　昔から女性に不自由はしていないはずだし、その女性たちに対して自分が優れているとは到底思えない。
　どうして私なのか……
　私でなければいけない理由があるのか。

　困った困ったなどと考えつつ、帰路を歩く。
「よそ見をしていると転ぶよ｣
　え？

　ガク！
　道のくぼみに足が引っかかり、鷹通は転びそうになる。それを後ろから手を伸ばして、鷹通を抱くような格好で支えた人間がいた。
「やれやれ……何を考えていたか想像はつくけど、もっと周りを見なさい｣
　仕方がないといったように、ため息混じりに注意をした人物を鷹通は見上げる。
　次の瞬間、鷹通はその腕から逃れ顔をそむけた。
　しかし、それは助けてくれた人物に対して無礼である。
　ぐっと、拳を握って何かをこらえるようにして鷹通は口を開く。
「…助けてくれてありがとうございます、友雅殿｣
　会いたくなかった。
　まだ何も返事を決めていないのに。
　それだけ言って、顔をそらしたままうつむく事しかできない。
　心の準備も、答えも決めていない。
「鷹通、別に昨日の今日で返事を聞こうとは思っていないから安心なさい。君にそんな風にされるのはつらいから」
「すみません……」
　その通りだ。
　想っている人に避けられる事ほどつらい事はないだろう。
　でも、鷹通には今は友雅を見ることはできない。

「……そんなに困っているのかい？」
　たしかに鷹通はこの上なく困っていた。
　どうして友雅に想われているのか、理由が見つからないから。
　女性と違い、関係を人前で口にする事はできないし、自分のほうが身分も低いから友雅に何をしてやれるわけでもない。
　自分なんかといても、いいことなんか何一つないではないか。

「迷惑だったのなら、仕方がないね｣
　違う！
　そう言って去ろうとした友雅の袖を鷹通は思わずつかんでいた。
「鷹通？」
「迷惑ではありません……困ってはいますけど……」
　袖をつかんだまま、まだ友雅の顔を見ることができずに鷹通はうつむいている。
　そして友雅はそのまま黙り込んでしまった鷹通を見て苦笑すると、空いた手で撫でた。
「いいよ、返事は急がないと言っただろう？　送ってあげるから帰りなさい｣
「……あ、あの、ご迷惑でなければこのままお屋敷にお伺いしてもよろしいですか？」
　返事も定まらぬままだったため、鷹通は自分の言った言葉に自分で驚いていた。
　でも、友雅といたら答えが見つかる気がしたのだ。
　自分ひとりでは見つからない答えが。
「ちゃんと足元を見て歩くんだよ｣
　そう言って歩き出した友雅の後を追いかけるようにして鷹通は歩き出す。
　友雅の後ろ姿を見て、鷹通はため息を一つこぼした。
　自分はまだ信じる事ができないのだ。
　この方に想われているという事が。

「私は客人と大事な話がある。この棟には誰も近づけないように｣
「分かりました｣
　そう言って人払いをすませると、友雅は何も言わずに横になる。頭の下に腕を組み、そして瞳を閉じたところを見ると昼寝でもするつもりであろうか。
「適当にしてていいよ。私は少し休ませてもらうから｣
　鷹通も答えを持っているわけではないから黙って座り込んだままだ。でも一人でいるより、友雅といたほうが落ち着くような気がした。
　他人の邸だというのに、そこに友雅がいるだけで安心できる。
　返事を急がない、と言った友雅は言葉どおり鷹通に何も求めようとはしなかった。

　自分の腕枕で寝ている友雅を見ていると、鷹通はふと触れてみたくなり、音を立てないようにゆっくりと移動をする。友雅が寝転んでいるすぐ横に座り、ためらいながら、ゆっくりと手を伸ばして頬にかかる癖のある髪に触れてみる。
　それだけで何か気恥ずかしくなったが、今度は友雅の肌に触れてみたくなった。
　その熱に触れたかった。
　自分を想ってくれてると言った友雅の熱さを確かめてみたかった。
　そっと頬に手を触れてみる。
　まだ友雅は起きようとはしない。
　顔には何の変化もなく、呼吸も一定していた。その端正な顔を上から覗き込んで、鷹通は口元に笑みを浮かべる。精悍な眉、長い睫毛に縁取られた目、すっと通った鼻。
　そして昨晩は一瞬の事であったが、たしかに自分の唇に触れた友雅の唇。
　驚きのあまり、何も覚えていない事が悔やまれる。
　どんな感じがしたのだろう。
　温かくて柔らかかった、それは頭では覚えているが体は驚きで忘れていた。
　指で軽く友雅の唇に触れてみる。
　その温かさと柔らかさに昨日の感覚を思い出し、その指で今度は自分の唇に触れてみた。
　少しは思い出したが、まだ満足できない。
　昨日と同じ感覚が欲しかった。
　そう思ったら、鷹通はもう止められなかった。
　床に手をつくと徐々に自分の顔を友雅の顔に寄せていき、ゆっくりと、触れようとした。

「……ふふふ」
　！
　突然漏れた笑い声に、鷹通は腰を抜かしそうになるほど驚き、慌てて友雅から離れようとするが、友雅の腕が鷹通の腕をつかむほうが一瞬早く、そのまま寝転んでいる友雅の上にのしかかる形で抱き込まれてしまう。
「友雅殿起きていらっしゃったのですか！？｣
「くすぐったくてもう我慢できなかったんだよ。寝ている私に一体何をしようとしたのかな｣
「は、放してください！｣
　泣きだしてしまいたいほど鷹通は恥ずかしかった。
　まさか友雅が起きていたなんて。
　そして寝込みを襲ってしまうなんて。
　穴があったら入りたい、とは正にこのことだ。
「鷹通…」
　抱きこまれたままだったので、耳元で名前を囁かれる。
　名前を呼ばれることで鷹通は抵抗を止めて、大人しく友雅に身をゆだねた。
　この至近距離のほうが友雅に情けない自分の顔を見られる心配がないだろう。
　それに、温かな腕と、たしかな力が鷹通を抱いていた。

「…鷹通、何を困っているの？｣
「……どうして私なのですか？　他にもたくさんの方があなたを想っているでしょう？　私じゃなくてもいいはずなのに…」
　友雅の胸に顔をうずめたまま、鷹通は訊いた。
　卑怯な自分。
　自分は答えていないのに、友雅には答えを求めて。
「君だって私じゃなくてもいいだろう。まだ若いんだからいくらでも恋を楽しむことが出来る相手はいるはずだ。それこそ出世のために身分のある姫君とつながりを持つのも悪くない｣
「それは…！」
「ああ、分かっているよ。君がそういうことのできる人間じゃない事はね。でも私は他の誰かと比べて、鷹通が一番だったわけではないのだよ｣
　どういう意味だろう。
　自分が一番でないのなら、何故選んだのだろう。
「他の誰かと比べた事もなかった。君といると退屈しなかったから、そんな余裕なんてどこにもなかったな｣
　たしかに、誰かと比べてみることに意味はない。
　そこまで考えてみる必要もなかったのかもしれない。
　考えすぎて、余計な事まで考えて過ぎてしまったのだろう。
「そう……ですね。私の気持ちだけが大事だったのですね｣
　それが答えなのだ。
　他の誰かは関係なくて、意味もなくて、ただ自分の気持ちが答えだった。

「鷹通、答えは見つかったのかな？」
　身を起こして、再び鷹通と向かい合って座った友雅が問う。
　答えは、自分自身が初めから持っていたのだから迷う事はない。
　友雅の求めた答えであるかはわからなかったが。
「まだ…分からないです。あなたのことが好きなのか。……でもあなたのそばにいたいと、触れていたいと思うのはわがままでしょうか？」
　今の自分の正直な気持ちを言う。
　ちゃんと答えになっているかは分からなかったが、これしか言えなかった。
　自信なさそうに友雅の顔を覗き込む。
　とんだわがままもいいところだ。怒るよりも呆れているのではないかと、不安になる。
「ああ、わがままだね」
「すみません……」
　やはり駄目だったのか…。
「謝ることはない、私が聞いたのだから。でもわがままだっていいさ。君のそばにいたいと、触れてみたいと思っているのは私だって同じなのだから｣
　友雅が苦笑混じりに続けた言葉に、鷹通は顔を上げる。
　その顔には怒りも呆れもなくて、ただ優しい笑みがあった。
「友雅殿……」
「鷹通は焦らずゆっくりと自分の気持ちを探すといい。だから今は……ね？」
　頬に右手が触れ、近づいてくる友雅からもう逃げたりはしなかった。
　まだ、はっきりと言えない。
　でも、この人とならそのうちに見つかるだろう。
　だから今はそばにいて、触れていよう。

　触れた唇から友雅の温かさを感じて、鷹通はゆっくりと瞼を閉じた。