………サァァァ………

　そんなに厚くない宿の壁の外からは、朝からずっと降り続いている雨の音。
　ブラス城を出発して日も浅いのに、まさかこんなところで足止めを食らうとは思いもしなかった。はっきりいて今は騎士団を留守にしてもいい時ではない。騎士団長ともあろうクリスが、こうして個人的に旅が出来るのは城に残っているみんなのおかげであった。
　に、しても出来る限り早く炎の英雄の足取り追いたい。
　そして父の事を知り、みんなの元へ帰る。
　……本当の英雄になって。

　個人的なわだかまりが消えれば、英雄として生きていくことは苦ではなくなるだろう。
　個を捨て、女を捨て、この身は戦女神となる……みんなが望むように。

　………サァァァ………

　なのにこの雨といったら、止むことを知らない。
「はぁ……」
　打ち付ける雨を見ながらクリスは窓辺に腰を下ろして、薄紅を引いた唇から大きなため息をこぼした。
　いくら外を見ていても、薄暗い空は晴れる様子もない。
　迷いきった彼女の心のように、曇りきった空はただ憂鬱な気分をさらに広げるだけだった。

「お嬢さん、お暇ですか？」
　ノックもせずにドアからひょっこりとその人を食ったような笑みを浮かべた顔を覗かせたのは、クリスの旅の連れであるこれまた胡散臭いとしか言い様のない中年男。
　薄い金色の髪に、旅慣れしているせいで少し日に焼けているが、元はクリスと同じように白い肌をしているだろう。そして優しそうな翡翠色の瞳はいつもどおり人当たりよさそうに細められている。
　今日はもうここからは出られないと思っているのか厚手の上着は脱いでいて、いつもは中に着ている茶色のタートルネックのノースリーブのシャツから意外とたくましい腕が伸びている。
「ナッシュ、何の用だ？」
　不機嫌そうに、クリスは視線だけ入り口のほうへ向ける。
「おや、雨でご機嫌斜めか。そんなことだろうと思って、宿の主人にこれを借りてきたんだ。俺も退屈で仕方ないから、相手してくれよ」
　その手に抱えているものは、少し古いがチェス盤だった。もう片方の手に持っているのはおそらくは駒の入った箱であろう。
　クリスは少し眉をひそめる。
　……チェスは得意ではない。
　サロメは当然強かったので、騎士団にいるときは時折指南してもらっていたが、自分には向いていないと内心いつも思っていた。
　普段ならば即断るところなのだが……
「暇つぶしにはなるか」
　それもあるが、チェスなど頭を使う事をしていれば、いらない事を考えることもない。
　気を紛らわせるのにも丁度いいだろう。
「へへ、では騎士団長様、ご相手願います」
　嬉しそうににっこりと笑うそのあどけない顔はとても37歳には見えない。もともと顔立ちは整っていて年齢不祥なところがあるが、さらに若く見える。
　ナッシュは部屋に入って後ろ手にドアを閉めると、狭い一人部屋の真ん中に置かれているベッドに靴を脱いで胡坐をかいて、いそいそとチェスの準備を始めた。
　そのあまり行儀いいとは言えない行動に、お嬢様育ちのクリスはまた眉間に皺を寄せる。
「ほら、できたぞ。始めようぜ」
　……ま、いいか。
　いつもその笑顔に毒気を抜かれてしまうクリスは、自分のその無防備さをまるで自覚していなかった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　■■■

「―――――――う〜〜〜〜ん」
　ナッシュは右眉を上げて、右手でぼりぼりと頭をかく。
　これで３戦目。
　１戦も２戦もクリスの勝ちであった。クリスの真っ直ぐな気性に合わせたサロメの教えどおりの順当な戦法。それに対してナッシュはいちかばちかの奇襲が多すぎるのが敗因だった。
「どう？」
　クリスは連勝のおかげで少し機嫌をよくし、唇の端を持ち上げてナッシュに視線を送る。
　このままでいけばもう５手ほどでチェックメイト。
　またクリスの勝ちだった。
「また負けだぁ〜……」
「ふふ。もう少し地道に陣を築かないと。次はハンデが必要かしら？」
「クッソ〜〜〜！！！」
　悔しそうに歪められるナッシュの顔はやはりとても歳相応には見えなかった。だが次の瞬間には何か思いついたのか、ポンと手を打つ。
　……なんだ？
　よからぬ気配を感じて、クリスは少し警戒をする。
「やっぱり何か賭ける物がないと、どうも本気が出せないよな。次は何か賭けることにしようぜ」
　さっきから、そのいちかばちかの賭けの戦法で敗れていることに、気付いていないのだろうか。ナッシュはそんなクリスの小さなため息に気付かずに、うきうきとしている。
「賭けてもいいけど、あなたに賭ける物なんてあるの？」
「う……」
　道案内であるこの男はほとんど無一文に近いらしく、支払いのほとんどはクリスが受け持っていたのだ。そんな男が賭ける物など持っているとは到底思えない。
「そ、そうだ。命令権でどうだ？　あんたが勝ったら俺は荷物持ちでも何でもする」
「はあ……まぁ、いいわ。荷物持ちになってもらうとしよう」

　クリスは知らなかった。
　いろいろと運の悪いナッシュは波乱万丈な人生を送っていたが、ここぞという時の賭けには負けたことがないおかげで、今ここにこうしている事を。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　■■■

　……サァァァ……
　外はまだ雨が降り続いている。二人は勝負に夢中で忘れ去っていたが、夕刻が近くなってもやむ気配はまったくなかった。

　う……嘘だ……
　まさかこんな……

　クリスのその紫水晶の瞳は信じられないというように大きく見開いたまま、呆然と二人の間にあるチェス盤を見つめて硬直している。
「へっへっへっ〜。俺の勝ちだな」
「……………」
　途中までクリスが有利に進行していたのだ。それが最後の最後にナッシュにひっくり返された。思いもよらない攻め方で、クリスの陣を急襲したのだった。
　こうなると戦術所片手のサロメの指南も役には立たない。さらにクリスも猪突猛進に攻めることしか出来ないから、対処のしようもなかった。
　……負けか。
　完全な敗北だった。
「……仕方ないな。明日はお前の荷物を持つことにしよう」
　潔く負けを認めて、クリスは大きく肩をすくめる。
　だがナッシュは首を横に振って、ニヤリとその顔によからぬ笑みを浮かべた。
「いいや、賭けは命令権だったよな。ということは、お前さんは俺の言う事を一つきいてくれるわけだ。もちろん荷物持ちなんて、女のあんたにさせるつもりはないぜ」

　荷物持ちじゃない……？
　ならば一体自分に何をさせようというのか……

　もしかしなくても、自分が迂闊に賭けにのったことを今更ながらに気付かされる。
　この男のことだ、まさか今までの勝負もわざと負けたのではないだろうか。
「……私に何をさせるつもりだ？」
「そんなに怖い顔しなさんなって。綺麗な顔が台無しだぜ」
「お世辞はいい。どんな無理難題をふっかけるつもりか知らないが、私は気の長いほうではない。早く言え」
「お世辞じゃないんだけどね。そんなに難しいとこを頼むつもりはないよ」
　この人を食った笑みが胡散臭さをさらに増させているというのに。
　ナッシュはそんなことを承知でいるのか、まだニヤニヤと笑ったままだった。
「だったら早く言ってみろ」
　焦らされるのは苦手だ。
　待つのも苦手。どう考えても我慢強いほうではないクリスは、典型的なお嬢様体質といえよう。本人は気づきもしないが。
　イライラとしながら、クリスはその紫色の瞳を苦々しげに細めて、嬉しそうなナッシュの浮かれた顔をにらみつける。
　そんな中、ようやくナッシュが口の端を上げたまま願い事を口にした。

「やぱり勝者には、女神様の勝利の口付けだろう」

　……………。
　………………………は？

「……ナッシュ……」
「はい？」
　クリスの白い頬が羞恥と怒りで見る見るうちに桜色に染まっていく。
　だがそんな彼女の様子に飄々とした返事をするナッシュ。その明るい緑色の瞳はこの上なく楽しそうに細められている。
　やはりこういう状況になると、この男の勝負は確信犯的な気がしてきた。
　だからといって今更そんなことを言い返す気もないが。
「……それでいいんだな」
「あの〜クリスちゃん、顔が怖いよ……」
「元からだ！！」
　こうなれば屈辱の時間は早く済ませてしまうに限る。
　クリスは二人の間にあったチェス盤を上に乗った駒ごとベッドの脇の窓辺に乗せた。そして目の前で胡坐をかいたままの男のほうへと手をついて身を乗り出す。
「もう少し可愛い顔でお願いしますよ」
　たしかに親の仇でも見るような目でせまってくるクリスの顔は、なまじ美形なだけに迫力があるだろう。だが、今更にこやかに笑いながら口付けなど不器用なクリスにはできようはずもない。
「うるさい。黙れ」
「はいはい」

　そして男の唇に自分の薄紅を引いた唇で軽く触れる。
　一瞬にしてそれは離れた。

「……これでいいんでしょう」
　苦々しそうに言ってクリスは身を離すと、火照った頬を沈めようと長い睫に縁取られた瞼を下ろす。
　しかし、男の次の行動は予想外だった。
　身を離そうとするクリスの腕をつかんで顔を寄せる。
「な……っ！」
「まだ足りないよ」
　驚いて目を開いたその紫色の瞳に映ったのは、いつも飄々としているナッシュとは違う男の顔だった。目を見開いて驚いたままのクリスの唇が何かに塞がれて、次の言葉はでない。
「……っん……ぅ……！」
　意外と力強い腕はしっかりとクリスの手首をつかんでいて抵抗を許さなかった。
　その間にもクリスの唇を割って入った男の舌が歯列をなぞり、敏感なクリスの体はぴくりと反応してしまう。わずかの隙に男の下はさらに口内に侵入をして、今度は舌が捕らわれてしまった。
「…は……っ」
　逃げようとしても追いかけてくるその舌に、いつしかからめとられ、抵抗は徐々に消えていく。つかまれた手首も今はほとんど力は込められていない。

　………サァァァ……

　こんなときなのに、不思議と雨音が耳に心地よく響いた。
　他には何も考えられなくなっていたのに。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　■■■

「さーて、行きますか」
　妙にすっきりとした顔をしたナッシュが先に宿を出て、空に向かって大きく伸びをした。
　昨日の雨が嘘のような青い空。
　雲ひとつなく、太陽は眩しいくらいにまだ湿っている地面を照らし出す。
「………」
　荷物を抱えるとクリスは無言で宿を出て、伸びをしている男の脇を通ってつかつかと歩き出した。置いていかれそうになった男は慌てて早足のクリスを追いかける。
「ちょっと待てよ〜。まだ昨日のこと怒ってるのか？」
「………」
「悪かったって！　ちょっと調子に乗りすぎたんだよ」
「………」
「クリスってば〜。おじさん口聞いてくれないといじけちゃうよ〜」
「………」
　クリスは決して口を開こうとしない。これにはさすがにナッシュも参ったという顔をして情けない声を出しながら追いかけてくる。
　実際クリスは怒っていた。
　起きてからずっとナッシュの顔も見ようとしなければ口を聞こうともしない。ナッシュもこればさすがにまずいかと思って、ご機嫌取りに必死である。
　そして、ようやくクリスは重い口を開いた。

「……私の荷物を持て」
「へ？」
「それくらい安いものだろう？」
　手に持っていた着替えなどが詰め込まれた袋をナッシュに突き出す。ナッシュの見ていないところで宿の人に頼んだお弁当やら、買わせてもらった必要以上の携帯食も入っているので、かなりの重さになっているはずだ。
「あ、ああ。持つ！　持ちます！！」
「そう？　次の宿までよろしくね」
　にっこりと微笑んで、クリスはナッシュの手にその袋を手渡した。

　ズシッッ！！！

「う！　……ぐ…ぉ！！」
　ナッシュの顔が苦悶に歪む。クリスが普通に持っていたものだから油断していたが、手に掛かった重みは片手じゃとても持てないほどの重さだった。
「落とさないようにね」
　そう言い残すとまた先程のようにナッシュを置いて、クリスは昨日の遅れを取り戻すように早足で歩いていく。
　そしてだいぶ先まで差が開くと、クリスは振り返って重そうに両腕で荷物を抱えるナッシュに声をかけた。
「早く来ないと置いていくわよ」
「お、おじさん……こ、腰が……」


　そして、雨の日はこりごりだと思った……