……夢を見なくなったのはいつからだっただろうか。

　見渡す限りの青い空。
　風にのって流れる雲。
　空を舞う鳥。

　木々のざわめき。
　草の香り。

　変わらない風景。
　変わらない匂い。

　―――変わらない目線。

　少年はその右手の甲をじいっと見つめる。
　うっすらと見えるのは、自分の身体の成長を止めるその存在。

「……英雄、か」

　その成長途中の身体とともに変わらなくなってしまった少年特有の声で、ポツリとつぶやいた。
　自分の育った大地に身を横たわらせて、草いきれの中自分の手を頭上に掲げて見つめる。

　憧れの存在。
　自分の望んだ存在。
　この力があれば、なんだって出来る気がしたんだ……

　自分の守りたいものを守る力。
　その役目は十分にこの真の紋章は果たしてくれた。

　この大地も、空も、風も、動物も、
　自分の大切な人も、場所も……守ることができた。

　けれど、そのあとは？
　この身体で何が出来る？
　一人前のカラヤの戦士といったところで、成人男性ほどの力もない。
　成長しない体では、子を育むことも出来ない。

　戦いが終わってみれば、自分がただ無力な存在であることを思い知らされるだけだった。
　この力は、破壊しか出来ないのだから。

　破壊……
　その未来しか見えなかった、彼。
　今なら、彼の見た未来が少しだけわかる気がする。

　それでも、守りたいものがある限りは、
　守りたい人がいる限りは、
　この大地が生きている限りは……

「…ヒューゴ？　やっと見つけたぞ｣
　いきなり顔に影がさして、ヒューゴは掲げていた右手を下ろす。しかし、寝転んでいるヒューゴからでは、自分の顔を覗き込んでいる人間の顔は逆光で見えない。

　眩しい光にヒューゴはその大きな瞳を細めて、その人物を確認する。
　聞いたことのある声の主は、張りがあるのにわざとのらりくらりとした印象を与えようとしているかのようなしゃべり方をしている。
　村の誰か、ではない。
　ひょろりとした印象を与える細身の体型に、身につけている服はグラスランドのどのクランの特徴もなかった。

「シーザー……？」
　ヒューゴはきょとんとした目をして、確認するように青年の名を呼んだ。
　本当は自信がなかった。
　もうかれこれ彼と別れてから５年も経つ。かつてはともに同じ敵に挑んだりもした戦友であるが、それも１０年前の話。その頃自分と同じように成長期だった少年は、１０年の間に背も伸びたし、声も低くなった。
　それでもその印象が変わらなかったから、今でも彼だとすぐに思いついたけれど。
「なんだよ、ヒューゴ。たかが５年会わないうちに、俺の顔も忘れちまったのか？｣
「え……？　ち、違うよ！　いきなり現れるから驚いただけだよっ」
　慌てて地面に手をついて、その身を瞬時に起こす。カラヤの戦士として鍛え抜いてあるヒューゴの体は、しなやかな動きで無駄がない。
「ふぅん。ま、５年振りだからな。俺のことなんか忘れてても仕方ないか。カラヤクランの族長としてお忙しいのでしょうしね｣
　とかおどけて言いながら、シーザーは一回り大きい手でヒューゴの柔らかい羽毛のような薄い金色の髪をぐしゃぐしゃとかきまわす。
　これは出会った頃から変わらないシーザーなりのスキンシップだったが、年下のヒューゴには子ども扱いされている気がしてならない。ましてや、ここまで外見に差がついてしまうと、さらに子ども扱いされている気がしてヒューゴはりりしい眉を吊り上げた。
「やめろよっ」
「ははは。変わらないなぁ、ヒューゴは｣

　悪気はなかったのだろう。
　それはわかってる。
　でも……

「やめろ！！！」

　そう怒鳴ると、ヒューゴは上半身を起こした体勢のまま、うつむいて黙り込む。
　自己嫌悪におちいりながら。
　シーザーは悪くない。悪いのは自分のほうだと、ヒューゴ自身自覚していた。その証拠にさっきから彼の顔を一度もまともに見ていない、いや見ようとしなかった。
　普通に歳をとったシーザーはきっと見違えるほどに立派になっているだろう。
　でも、その姿を直視することは、自分の今の姿を嫌でも思い出させる。

　……嫉妬。

「ヒューゴ……」
「ごめん。シーザーは悪くない……俺が悪いんだ｣
　自分で選んだことなのに。
　自分で決めたことなのに。
「……ごめん……」
　呟くように、ヒューゴが２度目の謝罪をする。顔を俯けたまま。
　久し振りに会ったのに、こんな態度をとった自分をさらに責めながら。

　ザワッ……

　広がる草原を風が吹き抜ける。
　いつかはこんな風に迷いなく駆け抜けたこともあった。
　彼と、仲間たちと一緒に。
　でも風はすぐに自分を置いて去ってしまう。

「ヒューゴ、５年前の俺の言葉覚えてるか？｣
　５年前……シーザーが突然、ヒューゴの元を訪れて「力を貸して欲しい｣と言ったあのときか。去り際に言った言葉は……

「俺の件が片付いたら、今度はヒューゴの力になるって言っただろ？」

　え……？
　弾かれたようにヒューゴが顔を上げると、いつの間にしゃがみこんだのか、シーザーの顔が目の前にあった。
　すっかりと幼さが抜けきったのは、歳を重ねたせいだけではあるまい。何か彼を変えるだけの出来事があったのだろう。
　シーザーはそれが何かは語らない。
　話したくない事なのだろうと、ヒューゴも何も訊かない。
「……シーザー……」
　特徴的な眉尻を下げ、少し重そうなまぶたの下のグリーンの両目が、ヒューゴの瞳を真っ直ぐに見つめる。
　成長したシーザーの姿に、思わずヒューゴは見惚れてしまった。
　少しくらい頬を赤らめたところで、もともと肌の色が浅黒いヒューゴならわかりにくい。だが、シーザーの目はそんなこともちゃんと見抜いている。
「お、俺の力って……？」
　思わずどもってしまったヒューゴに、シーザーは軽く苦笑した。
「この５年間、俺だって遊んでたわけじゃないんだぜ。ハルモニアに留まって調べ物をしてたんだ」
「ハルモニアに？｣
　たしかにハルモニアには、他の国にはない知識や道具などがあると聞く。グラスランドで生まれ育ったヒューゴにはおそらく思いもしないようなものまであるのだろう。
　出会った頃からシーザーはそこらの大人よりも博識で、ヒューゴは教えられることばかりだった。その彼がまだ知らないことがあると、ハルモニアにとどまったというのには少し驚く。
　シーザーはそして大きな手でヒューゴの一回り小さい右手を取ると、甲のほうを上に向ける。

「そう。この紋章のはずし方を調べにな｣
　真の火の紋章。
　炎の英雄と呼ばれた者から意志を受け継いだ証。
　持つ者に多大な力と不老を与えるという。
　だが、それが呪われしものだと気づいている人間は少ない。
　多くの悲しみを生むものだと知る人間も少ない。

「……見つかったの？｣
　期待はしていなかった。
　自分が欲したときだけ力が与えられるなんて、そんな都合のいいものではない。
　ルックたちが使っていたような強引な方法ではなく、安全にはずせる方法が。
　だが、問うようなヒューゴの視線に、シーザーは昔から変わらない何を考えているかわからない笑みを浮かべるだけだった。
「……………」
　ダメだよな。
　だから何も言わないんだよな。
　期待はしていないつもりだったのに、胸は苦しくなる。
　シーザーに握られたままの右手をぎゅっと握り締めて、ヒューゴは眉をひそめると表情を苦笑に変えた。
　１０年前は見せなかった、ヒューゴのあきらめの表情。
　あきらめることなんて知らなかった少年だったのに、この１０年でたまにこんな表情を無自覚にするようになっていた。

　そんなヒューゴを見つめたまま、シーザーは口を開き始める。
「……ヒューゴ。それをはずしたらお前はどうする？」
「どうする……って」
「これからどう生きていくんだ？｣
　どう……って。
　答えられなかった。
　この紋章さえはずれれば、ヒューゴの身体はまた成長を始めるはずだ。そうなればすべてが解決すると思っていた。閉ざされた道はまた開かれると。
　でも……それで？
　そのあとは？
「この紋章がはずれたところで、お前が『英雄』だということは変わらない。ずっとそれを求められるし、一度でも受け取ったからにはそれに応え続けなければいけない」
　それはわかっていた。
　自分で決めたことだった。
　でも………

「――それでも俺は、みんなと一緒に生きて、みんなと一緒に死にたい」

　　　　　　　　　　　　　　　　　□□□

　賑わっている酒場のカウンターの一番奥の席に座り、黙々とグラスを傾ける男の隣の椅子が引かれ、そこに一人の旅人の格好をした女性が座った。
　男は闇よりも暗い黒髪。
　女は月のように明るい銀髪。
　まるで対称的な二人が、並んで座っている。
「この城も、まるで変わってしまったな」
　ウェイターに酒を頼むと、女はその硬い口調を崩すことなく隣の男に話し掛けた。男の方もその重い口をゆっくりと開く。
「……雰囲気だけは変わってない」
「そうだな。グラスランドとゼクセン連邦の共有地、ここは外観が変わっても中身は変わらない、か」
　懐かしそうにその紫水晶の瞳を細め、女はウェイターから酒の入ったグラスを受け取る。そしてそれに薄く紅を引いた唇をつけ、軽く口にアルコールを含んだ。
　そして、軽く息を整えてから言葉を吐きだす。

「―――ヒューゴが真の火の紋章を封印した」

　その言葉に、男は少し驚きつつも髪と同じ漆黒の隻眼の瞳を伏せただけだった。
　しばしの沈黙の後、またゆっくりと口を開く。
「………そうか」
　それもいいと思っていた。
　英雄として長い時を生き続けるのは、あまりにも彼には酷だ。
　どことなく彼に似ていたから、ヒューゴも手段さえ見つかればそうするかとは思っていた。ただ、彼を大きく異なるのは、英雄であることから逃げようとしないことだろう。
　自分からも逃げない、誰からも逃げない。
「シーザーと見聞の旅に出るそうだ。久し振りに彼の本当の笑顔を見た気がする」
「………そうか」
　先の戦を経験したとはいえ、まだまだ世界は広い。
　あの眼差しで何を見るだろう。
　何を知るだろう。

　だが、それでも真っ直ぐに前を見つめるその少年の姿が男の脳裏に浮かび、男はその口の端を少しだけ上げた。
　女も、草原を駆ける少年の姿を思い出し、その紫電の瞳を細める。

　カチン……
　どちらからともなく、二人の飲みかけのグラスがぶつかった。

　彼と出会った誰もが忘れることなく彼を鮮明に思い出すことが出来るだろう。その意志を、姿を、生き様を。
　これから何年経とうとも。
　―――『英雄』であり続ける限り。

　君と夢見た日を、忘れない。